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10月28日(金) 霎時施(こさめときどきふる) 旧暦9月28日
今日の「霎時施(こさめときどきふる)」はまさに今日のような日のことを言う 小雨が降り冬の近いことを感じさせるような一日となった。 新刊紹介をしたい。 著者の森澤程(もりさわ・てい)さんは、1950年長野県佐久市生まれ、現在奈良県橿原市在住。1995年「花曜」に入会し鈴木六林男に師事、2005年「花曜」終刊、2006年「光芒」(久保純夫代表)創刊に参加。2008年「光芒」終刊。現在は「藍」(花谷清主宰)に所属。本句集は第1句集『インディゴ・ブルー』(2006)に次ぐ第2句集となる。2006年から2016年までの作品を収録。跋文を花谷清主宰が寄せている。句集名の「プレイ・オブ・カラー」の由来を著者は「あとがき」に次のように書く。 〈あとがき〉を書いている手元には、米粒程のオパールのペンダントがあります。句集名について迷っていたときに、ふと思い出したものです。長年ひきだしの底に眠っていましたが、最近は、身につけるというより、日光や灯りにかざしたり、向きを変えては、色彩やその形を楽しんでいます。「プレイ・オブ・カラー」は、オパールの特徴とされています。 本句集がそのようにいろいろな角度から読まれることを願っておられるのだろうか。跋文を書かれた花谷清主宰は、まさにこの句集をさまざまな角度から掬いあげ鑑賞してみせる。本句集が持っている多面的かつ重層的な構造に繊細な切り込みをいれて『プレイ・オブ・カラー』の魅力を論じてみせている。 花栗や星より静かなものに坂 は、遥か遠方の〈星〉と作者が今歩いている身近な〈坂〉との静けさの比較になっている。〈星〉が静かであるのは誰しも認めることであろう。したがって、この〈坂〉は、例えようもなく静かだったと受け取れる。ふつう比較は同じレベルの二物についてなされる。掲句の〈星〉と〈坂〉とのやや異例な比較に違和感を感じさせられないのは、どちらも「漢字一字の表記」「二音の読み」となっており、視覚と音覚の平仄が合っているからだろうか。六月ごろに咲く〈花栗〉は、独特の香りを放つ。遠くの〈星〉の輝きのもとで、夜は見えない〈花栗〉の香りと〈坂〉の静けさが渾然とした雰囲気を醸し出している。 白馬の血流静かなる野分 郭公や家に居て家なつかしき アネモネの茎の静けさ父のもの 母の日も竹藪も過ぎさざなみや 耳成と畝傍の間に薔薇を挿す 炊飯器の湯気の高さも復活祭 花冷えの胸のあたりが水平線 小雨から緋鯉の模様抜け出しぬ 黒金魚卓布の襞にふれにくる かなぶんの青と藍との境界線 夏を待つ夕日の色の首飾り にわとりは走りマグノリアのみどり 石を伐りそれから花を見て眠る 測量士Kのあと追う草の坂 鬼やらい火の影つねに動きおり 夢はじめ翡翠が魚を呑むほとり ストローと無意識出合う西日駅 白鷹の夢白昼をけむりたる N極を指す針赤し芝青し 前衛も糞ころがしも風のなか 森澤程さんの俳句は、型に嵌まっていず、類型に没していないとかねてから考えてきた。今回句稿を拝見して、この判断を再確認した。具象的な作品には象徴が、抽象的な作品には写実が、言外にひろがる豊かさが感知できる。身辺の物と現象の中から、隠れた均衡や揺らぎを取り出し、作品に純化させる自在さがある。(略)個性のある作家としての独自な方法を確立した著者の記念碑といえよう。 跋文を紹介した。 「類型に没していない」とは、まさにその通りであると思う。収録句がどれも既成の作り方に充足せず、意識的な方法によって新しい世界を獲得しようとしている。 国ありて湯舟の外に置く片手 面白い一句だと思った。「国ありて」がいいと思ったのだけど、「国ありて」のこの「ありて」が「片手」といかなる関係性を持っているか。あるようでないようで、しかし、「国ありて」という措辞がなかったらこの「湯舟の外」に置かれた「片手」は単なる風呂に入っているその途中の片手である。「国ありて」が「湯舟の外」に置かれて濡れいる「片手」と拮抗して片手が大きく見えてくる不思議さ。片手が国家を呼び起こしているのか。そしてこの景、どこか悠然とのんびりとした感があって、いいなと思う。無季の句である。 俳句を始めて二十年が経ちますが、三つの俳誌の終刊を経験しました。このささやかな経験と句作の途上にあって、対自分への曰く言い難い距離感、対自分との隙間のようなものに気がつきました。私の場合、この距離感と隙間を大切にすることにおいて、俳句との関わりが続いているようです。俳句という器は、さわったり見たりすることのできないものですが、不思議な質量を蔵しているものにも思えます。 「あとがき」の言葉である。まさに「不思議な質量を蔵」していると、森澤さんの俳句を読むと思う。 ほかに 生きている父と色づく林檎かな 橋脚の垂直六林男忌も過ぎる ハンドルに白鳥の香のかすかなり 母のように川をかくしている桜 朝桜鳥のまぶたに血の透いて 白魚を呑み込んで首熱くなる 汗ばんで耳澄んでいる影法師 真夜中の方から来たり錦鯉 天高しゆっくり歩き父転ぶ オルガンにうさぎの襟巻のせてある 落花飛花差し伸べられて大きな手 鯉を抱く夢のつづきの夏の水 聖書また葎の見える方へ置く たてがみとマフラーの向き変わるなり すみれ濃しすみれ淡しと百人ゆく 滴りや鞄の底へ着信音 本句集は白のシリーズの一巻として刊行された。 装丁は和兎さん。 白の用紙であるが風合いの豊かなもの。 セーターの毛玉取りつつ滅びるか 一句あげるとすれば、この句が好き。滅びへと向う人間は、おちおち毛玉も取っていられないけどでもやっぱり毛玉はとる。この「滅び」は死にゆく存在としての人間というよりも、愚行をくりかえし人類の滅びをはやめている人間のことであり、揶揄をこめた批評性がある。このあっけらかんとした感じが好きだ。 今日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、中井保江句集『青の先』より。 底冷えの底の底にはマグマあり 中井保江 底冷えは京都の名物。夜のみか昼も髄に染み入るように冷える。そんな夜に読まれた一句だろう。底冷えの「底」をとらえて地の底には高熱のマグマが煮えたぎっているというのだが、それにしては冷える。宇治の人。句集『青の先』から。 10月もあと数日である。 スタッフたちと、食事会をしましょうよ、といいながら、全然果たせていない。 実は夏から言ってんの。 「暑気払いをしましょうよ」から始まって、、、、、あれこれ、あれこれ。 まったく嘘つきのyamaokaである。 #
by fragie777
| 2016-10-28 21:02
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10月27日(木) 旧暦9月27日
して、これは。。。 わたしぐらいの年齢になると、某テレビ局でやっている「ためしてガッテン」という健康コーナーを誰もが見ている。 とくに女子。 友人たちとの健康の話題になると、決まって「ためしてガッテンで見たけど」とか「こうすると身体にいいってためしてガッテンでやっていたわよ」と、「ためしてガッテン」の威力を知らされる。 いかが、 見てます? 実は、わたしは見てない。 ごめんなさい。 だって、 ほかに見たい番組があるのよ。 この時間に帰れないことが多くそれを録画しておいて見るんだけど、昨日は、わたしも友人たちに話題を合わせるために意を決して、録画体制を変更した。 しかし、昨日は早く帰れたので録画をまたず、見る事ができたのだった。 だが、 すぐに見るのを辞めた。 人間の内臓をなどを見せられながら食事をする気になれない。 チャンネルをいつもの番組に合わせたのだった。 ああ、やっぱ、こうでなくっちゃ。 素晴らしいぞ。 いったい何の番組を見てるのかって。 ふふふふふ ナイショ、 夢のような番組よ。 きらきらと眩しくて楽しい、ワインも食事も美味しくなるような、ね。 (調べなくていいから、きっと呆れて空いた口がふさがらなくなると思うから。) このブログ、わたしは半径2,3メートル先にいる隣人に話しかけるようなつもりで書いているのだが、「わたしさ、◯◯してね」とか、そんな感じ。しかし、インターネットの世界は自身の思惑を超えていろんな人が読むらしい。だからスタッフたちからは、そのことに気をつけてください、と重々言われている。迂闊なことを書いてはいけないのだ。ミーハーであることは露呈していると思うけど、すこしは奥ゆかしくしなくっちゃ。 今日はお二人お客さまが見えられた。 俳人の小町圭(こまち・けい)さんと、大井恒行さん。 (大井さん、久しぶり!) 小町圭さんは、現代俳句協会に所属する俳人である。 結社は現在は「夢」(前田吐実男主宰)に所属しておられる。 俳句歴は長く、40年近い。 句集も第3句集まで刊行しておられ、この度それを一冊にまとまめた精選句集を刊行されたくご相談に見えられたのだった。 大井恒行さんからのご紹介である。 俳句を始められたのはたまたまお隣に住む人と俳句の話しになり、そこから話しが発展して数人で俳句をつくるようになったということ。 いろいろな方の指導を受けられての今日がある。始めてから止めることなくずっと続けておられる。 「俳句がお好きなんですね」と申し上げると、つかさず。 「そうなんです!好きなんです」と言葉が返ってきた。 小町 圭さん。 「これからどんな俳句をつくりたいですか?」と尋ねると、 「隣のおばちゃんが読んですぐ分かる句ではないもの」という答えが返ってきた。 「句会も多くやりすぎるとダメですね。前は月に10回くらいやってましたが、そうなると点取り虫になってしまって」ということ。 いまは、「月に5回くらい」であるということ。 それでも十分に多いのではないか。 やはり俳句が好きで好きでたまらないお方とお見受けしたのだった。 #
by fragie777
| 2016-10-27 19:28
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10月26日(水) 旧暦9月26日
黒の活動しやすいパンツを買った。 細身なんだけどストレッチが効いていて動きやすく、仕事着としては最高である。 さっそく今日はそれを穿いて出社。 パソコンに向ってキイボードを打っていると、なんだかお尻のあたりがごわごわする。 うっ? なんだ?? そのごわごわするヤツをさがして手を入れてみると、 あら、 ま、 いやだ、 正札をごっそりつけたまま(いまのやつって3,4枚ほどいろんなのがついている)穿いて来ちゃった。 あわててスタッフたちに分からないように鋏で切って、すまして仕事をしたのだった。 このパンツ、丈を少し長めにしてカットして貰った。 くるぶしのあたりがすこしだぶつく感じ。 あえてそうしたいの、それがいまの私のこだわりかな。(不易でも流行でもなくわたしの気分である) 今日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、大木あまり句集『遊星』より。 牡丹の木焚くや心を立て直し 大木あまり 福島県須賀川の牡丹園。初冬の一夜、枯れた牡丹の木や枝で焚き火をする。赤や紫の炎がたちのぼり、ガタと崩れては火の粉が舞いあがる。焚き火を立て直すしぐさに、痛ましい自分の心を立て直すことを思っているのだ。句集『遊星』から。 すこし前の記事になるが、「銀化」10月号で小池康生さんが池田澄子句集『思ってます』を評しておられる。 抜粋になるが、紹介したい。 池田澄子さんの第六句集『思ってます』(ふらんす堂)が出版された。作品世界は期待通りに新しく、あくまで自然体。それでいて全編に独特の緊張感が漂う。文語ではなく現代口語体の文章で、ごくごく身近な日常を描く。それでいて全編に独特の緊張感が漂う。文語ではなく現代口語体の文章で、ごくごく身近な日常を描く。(略) 直し直し神社頑丈蝉しぐれ 簡単な言葉を組み合わせて本質に触れ、誰も書いていない世界を見せる。本質は重要だが、教訓的な語り口調を伴う途端低俗に堕ちる。掲句は、本質から臭みを排除したものではなく、臭みが尾いてきそうになる本質の本質だけを掬いとり、ユーモラスな独自な世界を築いているように、わたしは「思ってます」。 今日とどいた「鷹」11月号では句集『ジタン・カポラル』の岸孝信さんがインタビューされている。タイトルは「やがて消える。時が来れば」なんだか意味深だ。少し紹介したい。 ――ほかにも、句集にして課題だと思ったことはありますか? 岸 課題は多かろうと思います。でも、こと俳句については、あまり考えないようにしています。「あとがき」にも書きましたが、自分にとって大切なことは、頭では考えず、鼻とか、第六感とか、要するに言葉ではなかなか捉えきれない何かを嗅ぎ分けて、判断するようにしています。犬や猫が鼻をつかうように、俳句ですから、何より目と耳をつかって、一句をめざそう、というのが正直なところです。ただ、「滑稽」は俳句の根幹にかかわる問題で、この一点だけは仔細に考え抜き、その上で見えてくることがあれば、しっかり見きわめよう、とは考えています。 昨夜、借りてきた映画「さざなみ(45YEARS)」を観た。2015年にイギリスで公開されたシャーロット・ランプリング主演の映画である。さまざまな賞を受賞し評価も高い映画であることを観たあとに知ったのであるが、わたしには今いちだった。シャーロット・ランプリングは好きな女優のひとりで、かつて観た『愛の嵐』は衝撃的で忘れられない。どう今いちかというと、老けたシャーロット・ランプリングを見るのは辛かった。これはわたしの勝手な物言い。テーマが男女の愛という深い重たいテーマであり、老いてもその「愛を問うこと」から逃れられない男女がいる。わたしは途中少し眠ってしまったり、ストーリィが退屈に感じられたりして、わたしの心が成熟していないのだろうなあ、きっと。というわけで、今日サイトを検索していたら、以下の頁があって、それを読んでいくと(あら、まあ、いい映画なのねえ)と、いったいわたしは何を感じていたのか。感性が鈍感なのか。 でも、ちょっと退屈だったなあ。 ただ、ひとつだけ言えることは、シャーロット・ランプリングが演じたケイトが何度かみせる険しく寂しく世界のあらゆるものを信じていないような絶望的な顔が忘れられない。それはほんの一瞬のこと。こんな表情をみせることができる女優はそういないだろう。ジャンヌ・モローも絶望が似合う女優だが、シャーロット・ランプリングにはもっと内省的な苦さがある。 男女の愛に精通したい方(?)は是非に。 わたしは成熟をすっとばしてどんどん枯れていってやる。 #
by fragie777
| 2016-10-26 19:00
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10月25日(火) 旧暦9月25日
下高井戸と三軒茶屋をむすぶ2両編成の路面電車である。 全区間を走っても所要時間は17,8分、距離にしてわずか5.6キロメートルであるとのこと。 住宅街をのどかに走る。 今日は用事があってこれに乗った。 この電車にはいろいろと思い出がある。 上町(かみまち)には詩人の安東次男が住んでいた。原稿を貰いに、あるいは呼ばれて何度か伺った。 最後はすでに病床に臥しておられたときである。 そこには飴山實氏がいて、しばらくお話をしたことを覚えている。 一緒に安東先生にいとまごいをして世田谷線に乗って、飴山氏は山下で小田急線に乗りかえるために下車された。飴山實氏ともこの時が最後となってしまった。 この世田谷線には、松蔭神社前という駅がある。吉田松陰が祀られている神社だ。松陰の墓もあり、一度行ってみたいと思いながらまだ行ったことがない。今年は萩にある吉田松陰ワールドを訪ねたが、こんな身近にある松蔭神社はまだ行ったことがない。そんなものかもしれない。 この駅を通過するときは、吉田松陰のことを決まって思う。(なぜか心惹かれるお方なのね) これが毎日この電車で出勤していたらそんなことはないだろうと思うから、人を思うということには遠さが必要なのかもしれない。 ここには下高井戸キネマという映画館があり、面白い映画を上映していた。 むかしはよく行って映画をみたものだ。 客はまばらで、陰気くさかった。 まだあるのかしらと思っていたら、ポスターがあって、バイト募集をしている。 (ああ、まだ頑張ってるんだ……) 仕事をしていなかったらこんなところでバイトをするのもいいなあ、と眺めていたら、 30歳までとありダメじゃん。 そりゃそうよね。 昼には戻って仕事。 「俳句」11月号がとどく。 書評はふらんす堂刊行の句集二冊。 池田澄子句集『思ってます』を相子智恵さん、本井英句集『開落去来』を井越芳子さんが評している。 すこしだけ紹介したい。 「個でいる矜持と、不確かさと」相子智恵さんによる『思ってます』評である。 〈わが晩年などと気取りてあぁ暑し〉と詠む池田が八十歳であることに驚く。〈此処あったかいよとコンビニエンスストアの灯〉〈ファーストキッスのあと立てなかった遠花火〉〈アマリリスあしたあたしは雨でも行く〉。後輩の想像を軽々と超えてゆくこの人に、年齢は不要。ああ何と嬉しい句集だろう。 「虚子を追う心」井越芳子さんによる『開落去来』評。 〈ぶつかつてばかりのそいつ蟻の道〉(略)あはれを感じる心こそが詩歌の根幹であると本井は思う。「蟻」をモチーフに、現代的感覚で「蟻」のあはれを具体的に詠んでいる。本井は、十代から星野立子、高木晴子の指導をうけ、慶應義塾高校在学中より清崎敏郎門となる。昭和四十八年、鎌倉の虚子庵が人手に渡る時、虚子蔵書目録を二か月で作る仕事を引き受ける。以来、精力的な本井の虚子研究が始まった。 午後にはお客さまがお一人。 石原明さん。 いま句集をおすすめしている。 今日はどんな造本になさるか、相談に見えられた。 実は石原明さんは、ふらんす堂から2014年に第1詩集『雪になりそうだから』を上梓されている。 今回は句集である。 俳句も詩もうかがえば短歌もよくするということ。 学生時代から川柳などの一行詩を書かれていて、俳句は35歳のときに見識ある飲み屋の親爺さんに出会ったことにより、始めるようになった。 それ以来ずっと俳句を作り続けている。基本的には一人で作るというスタンスを貫いて来られた。 すでに句集は刊行されているが、今回の句集は「母」をテーマにしたもの。 愛すべき今は亡きお母さまを偲ぶための「母に捧げる」句集である。 句集名が素晴らしい。 「翔ぶ母」 どんな母親像が展開していくのか、 楽しみである。 一人吟行もよくなさるということで、武者小路実篤公園をおすすめしてみたのだけど、行かれたかしら。。。 #
by fragie777
| 2016-10-25 19:01
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10月24日(月) 霜始めて降る 旧暦9月24日
急に寒くなって体調をこわす人が続出している。 わたしはいまんとこ大丈夫だけれど、スタッフのなかでもお腹をこわしたり、営業さんで風邪をひいたり、体力が勝負であるわたしたちの仕事なので、わたしも十分気をつけたい。 ブログを読んでいる方々もお気をつけ下さいませ。 新聞記事や本に掲載された記事をいくつか紹介したい。 たくさん紹介したいところなのだが、仕事の合間に気づいたものになってしまう。 まず毎日新聞の櫂未知子さんによる「俳句月評」は、二冊の句集を紹介している。わかい俳人のものだ。一冊は抜井諒一句集『真青』(文学の森刊)、もう一冊は仲村折矢句集『水槽』(ふらんす堂)。タイトルは「伸びしろある若手」。 応募作品は既発表・未発表を問わないが、締切時点で四十歳までであること。そして、副賞として句集を出版できるとする賞がある。北斗賞である。その第六回受賞者の句集が刊行された。抜井諒一句集『真青』(文学の森)である。 梅の香の高さに子ども抱き上げし 抜井諒一 眩しくて眠くて子猫目を閉じる こういった、さりげなく日常を切り取ってきた句がたくさんある一方で、次に挙げるようなちょっとゴージャスな作品も多く見受けられた。 真青なる闇に触れたる螢の火 朧から出られぬ月の光かな 水の中なる水色のラムネ壜 抜井諒一は昭和五十七年生まれ。日本伝統俳句協会会員らしい大らかさは、ときに口語と文語が一句の中で共存してしまうことにつながってもいる。しかし、同時に、陰翳に富んだ堂々たる作品を生み出す力がありそうに見える。いわゆる「伸びしろ」を感じさせてくれる作家だ。 おなじく若手の仲村折矢の第一句集『水槽』(ふらんす堂)も、なかなか面白い句集だった。 黄落や同じ本もつ人と会ひ 仲村折矢 船長の簡潔な指示涼新た 一句目のある種の照れくささ、二句目の中七の端的にその職業を描いた見事さ。また、次に挙げる作品の繊細さも忘れ難い。 俯いて外す寒夜のネックレス 桃の種妬心に形あるならば 一輪となるまで拾ひ桜貝 仲村折矢は昭和四十二年生まれ、「狩」の同人らしく、その作品は機知と抒情がうまく折り合いをつけている。「十三夜」が何度も登場する等、季語のバリエーションがやや乏しいように感じられたが、それもまた、ある特定の季語に対する愛着のあらわれなのだろう。 この『水槽』は、装丁がシンプルで美しく、思わず読んでみたくなるような句集である。「中身で勝負」と人はよく口にするが、見た目もまた、読者を獲得するための第一歩なのだと痛感させられた。 おなじく毎日新聞の新刊紹介に、ふらんす堂刊行の句集が二冊紹介されている。 自動車の来れば道よけ草の花 風人子 今年90歳となった著者の第5句集。2000年以降13年間の作品をまとめたもので、独特の言い回しが飄々とした味わいを生み出している。 極月のじんじん暗き杉の山 耕三郎 07年から16年春までの作品を収める第5句集。鬱屈した青春を詠んだ俳句でデビューした著者が、脳腫瘍手術以後の半身麻痺と言語障害をかかえる生活の中で俳句と向き合う近年の心境をうかがわせる。 ふらんす堂刊行の本ではないが、マブソン青眼さん撰訳の『日本レジスタンス俳句撰』について紹介してある。これはわたしもいただいたが面白かった。挿画がいい。わたしの知らない俳人もいて興味ふかい。 一茶研究者である訳者が、戦前の俳句弾圧事件の影響を受けた俳人たちを作品とともに日仏語で紹介。序文で撰者としての主張を述べる。 「俳句四季」11月号では、二ノ宮一雄さんの「一望百里」に、永井由紀子句集『周』がとりあげられている。 永井由紀子「天為」(有馬朗人主宰)および「屋根」(斎藤夏風主宰)同人、俳人協会会員の『翼船』『星恋』に次ぐ第三句集。 夕かなかな須佐之男を呼ぶ妻かとも 清水汲む出雲にいまも国造家 葉月潮にほふ紅殻格子かな 月は弓張おもてをはづす猿田彦 尼寺のあをき網戸を立てて留守 玉藻刈るいそひよどりの高鳴きに 忘れ汐さみどりのもの育みて 防人の妻の挿頭せし石蕗の花 トロイアに金色の目の孕猫 影ひとつシルクロードの野を焼いて おほるりや空海が風待ちし島 各地の歴史を詩情深く謳い上げている。作者のこころは眼前の風景にとどまることなくその土地への歴史へと向くのである。一般的な旅吟とは異なる所以である。産土を詠んでもその姿勢は変わらない。 甲斐絹(かひき)織る裏富士の夜の長きかな はらからのかたみに老いて豊の秋 爛々と冷え姥捨の七つ星 おなじく「俳句四季」11月号には、「これからの俳句 Vol.1」として、鴇田智哉さんのインタビュー記事が載っている。インタビュアーは福田若之さん。(と言っても、インタビューされる側もする側になって互の俳句に対する意識が見えてくるというもの)始めの部分だけ紹介したい。 福田 一年半ほど前に鴇田さんからいただいたメールに書かれていたことで、とても印象的だったのが、「それだけで生えている句」と「生えていることを定義する句」の違いを考えている、というお話でした。まず最初に、両者の違いについて、あらためてお聞かせいただけますか。 鴇田 「それだけで生えている句」と「生えていることを定義する句」の違いは自分が俳句について根本的に考えている話なんです。僕は飛んでいるアブとか咲いている花とかのように句がありたいと思ってます。そういう意味で「生えている」句ということですね。それだけで生えている。一方、アブが飛んでいるとか、ましてやアブが好きだというような意味を伝える比重が大きい句、それは「生えていることを定義する」句だと思う。 福田 〈ある〉とか〈いる〉を言葉にすることは、生えていることを定義することだ、ということですね。 鴇田 だからできれば本当は何も言いたくない。その俳句を読者が読んだときに、そこに何かがいるのと同じ状態になる。アブに震えがあるように、その句特有の震えが読者に伝わる。言葉の意味ではなく、震えが伝わる、そういうのが理想です。でも、そうやって意味のゼロを志向してても、決してゼロには行けない。意味を定義する要求がどうしても入ってきてしまうんです。できるだけゼロに近づきたいと願いますが、言葉である以上、仕方がない。そういう意味からすると、僕の中で、自分で例外かなと思ってるのが、「人参を並べておけば分かるなり」(『凧と円柱』)という句。意味を定義づける要素が強い句です。この句ができたときに違和感がありました。(続く) 鴇田智哉さんの俳句へ志向するものが見えてきて興味ふかいインタビューである。興味のある方は一読をおすすめしたい。 またおなじ「俳句四季」の筑紫磐井さんの連載「俳壇観測」は、「姨捨俳句大賞の杉山久子の受賞ーほかに例を見ない選考方法」と題して、第1回姨捨大賞について書かれている。第1回姨捨大賞の受賞は、ふらんす堂刊行の杉山久子句集『泉』。「ほかに例を見ない選考方法」とは何か。すこし触れてみると、 第一回姨捨俳句大賞は9月十七日(土)二時から三時半まで、千曲総合観光会館で公開方式で選考が行われた。司会は島田牙城、選考委員は小澤實、筑紫磐井、仲寒蝉(五十音順)であった。二〇〇人近い聴衆が集まったように思う。選考は先ず、全国俳人二〇〇人からのアンケートを踏まえて選考委員三人がそれぞれ推薦した次の四編(重複一篇、辞退一篇があった)をそれぞれ三人が漏れなく論評することから始まった。 久保純夫 『日本文化私観』 杉山久子 『泉』 椿屋実梛 『ワンルーム白書』 矢野玲奈 『森を離れて』 (五十音順) 最初の論評は二分と限られたものであるが、その後、時間をかけて委員同士で関心を持つ句集の鑑賞補足とまた批判が行われた。時間を半ばほど残して第二段階の採点に入ることとし、(続く) 本賞については、これまでの俳句賞の反省を踏まえての選考であることが書かれている。第一回というまだ手垢のつかない賞であるからこそ、選考委員の方々の気合いも入る。こちらも興味のある方は是非に続きを読まれまることをおすすめする。 「ふらんす堂通信151」で、杉山久子さんの受賞特集をしたいと思っている。 問い合わせをいただいている後藤比奈夫著『俳句初学作法』(はいくしょがくさほう)の見本が出来上がった。 37年前に角川書店より刊行され、その後何度も版を重ねた名著である。 驚くべきことに内容が少しも古くなっていない。 俳句の基本にもう一度立ち返りたいという人におすすめの一冊である。 実践にはじまり実践におわる一書であるが、読み終えると実践をこえたものが見えてくる。 名著であることの手応えがそこにある。 11月はじめより発売開始。 書店にて予約受付中である。 定価2200円+税 この猫は、矢合直彦さんの作品。 ふらんす堂の引っ越し記念にご近所のギャラリーで求めたもの。 可愛いでしょ。 明日は支払い日である。 もう10月もあと少しで終ってしまう。 なんということよ。 #
by fragie777
| 2016-10-24 19:43
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