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9月11日(月)二百十日 旧暦7月21日
花臭木の花。 かなり強烈な香りがあたりを支配する。 お知らせがひとつ。 9/12(火)(明日)にふらんす堂吉祥寺句会講師の高柳克弘さんが「ヒルナンデス!」に出演されます! 芸能人の皆さんと谷根千を吟行されます。ふらんす堂はお昼はテレビをつけてスタッフみんなで鑑賞予定! 楽しみ。。。 日本テレビ/11:55~13:55 ↓ 今日も新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装 232頁。 二句組。 著者の昆千鶴子(こん・ちづこ)さんは、昭和20年宮城県気仙沼市生まれ、現在は東京都世田谷区在住。平成12年(2000)「草笛」入会、平成17年(2005)「草笛」同人、平成18年(2006)「秋」入会、平成21年(2009)「秋」同人となり本句集は約17年間の作品より400句ほどを収録した第一句集である。序文を「秋」主宰の佐怒賀正美氏が寄せている。 句集名の「諷経(ふぎん)」の意味は、広辞苑によると「声をそろえて経文を読むこと」とある。 雁渡し諷経とよもす羅漢沢 たくさんの羅漢を眺めているとそれぞれが経を読み、その声が増幅して谷間全体に響き渡るように作者には感じられたのだ。見えないもの、聞こえないものを心で感じ取れる作者の感性の豊かさを思う。 佐怒賀正美主宰の序文より引いた。佐怒賀主宰は、たくさんの句を紹介して懇切なる鑑賞をされている。 著者の昆千鶴子さんは、気仙沼市の出身である。ゆえに本句集には、ふるさと読んだものも多く、とくに震災後のふるさとを思う気持はひとしおである。 揺れ強き余震に竦む蟇 平成二十三年 たんぽぽやあの日この土手黒い波 平成二十四年 被災地のひときは高き祭笛 〃 津浪禍の牡蠣田守りをる幼どち 平成二十六年 被災からその後の復興までの人と自然との交流を、ときに内観風景的に、ときに客観報告的に、書き残そうとしている。普段は悠長に見える蟾蜍も余震の強さに竦んでいる。その蟾蜍は作者自身でもあり、地元の人たちでもあるのだ。津波禍の牡蠣田を幼子たちが守っているというのは、両親が亡くなってしまったことを示唆する。こういうところにも作者の震災に対するまなざしは届く。 序文より紹介した。 本句集の担当は文己さん。文己さんがあげた好きな作品を紹介したい。 好きな靴並べて磨く立夏かな 啓蟄や夫と見せ合ふ生命線雨傘に移り香リラの花明り 粽解きさらりと話す絵空事 初鰹店主の気風も買ひにけり のど飴の終りを噛みて花火待つ 芥子の花笑ひころげる子と吹かる 船艦のように河馬浮く溽暑かな 蛇穴を出づるやなんだこんな坂 二胡の音や秋惜しむかに偲ぶかに 頑固なり振り向きもせぬ冬帽子 ほんたうは待つのは嫌い春日傘 雪よ降れひとり芝居の果つるまで 利かん気の石蹴るまた蹴る大夕焼 秋草やリフトたちまち鳥になる 寒林の隠しも嘘もなきさまに 桃の花わが明け暮れをいとほしむ いちはやく雨後の風立つ葡萄棚 惜春や草鞋のやうな魚を焼く 炉話や猫もそろりと加はりぬ 餅花やまあるく丸く生きめやも うら若き僧の説法あたたかし 惜春や草鞋のやうな魚を焼く 「草鞋のやうな魚」がとてもいい。いったいどんな魚だろう。ヒラメ、それともカレイのような。。。しかし具体的に言わず「草鞋」である。「草鞋」が俳諧的だ。食べ物に草鞋の比喩である。きっと海に棲んでいた魚だろう。それが草鞋まで飛躍した。口のなかにいれるものとしては草鞋は御免被りたいって誰もが思う。でもこの句、どこか乾いた清潔感のようなものがあって魚がまずくは思えない。単に草鞋の造型のみを言って「やうな」ではないと思う。やはり「草鞋」というものがもつ感触であったり機能性であったりそんなことすべてを含めて「草鞋のやうな魚」なのだ。そして「惜春」である。春を惜しみながら「草鞋」のような魚を焼く。いいなあ、しみじみと魚を焼く、草鞋のようなヤツをね、俳諧味たっぷりだ。 六十の手習いのつもりで始めた俳句です。 多くの方に出会えた喜び 親しい人との悲しい別れに涙した日 故郷の阿鼻叫喚に胸の張り裂ける想いで見入り 体調を崩し塞いでいた日々 一度ここで立ち止まり、来し方を顧みることも いいのではないかと。 生まれ育った三陸の港町と、 子供のころに夏休みを過ごした父の在所が 私の原風景です。 これからも風土性を大切にしながら、 少しは気持ちに余裕をもって句作りして いきたいと思っております。 「あとがき」である。改行をそのまま活かして引用した。東北の風土に生まれ育ったことは作者の俳句性を決定づけていのだ。 一途なる凌霄の秀を見て病めり 好きな一句である。凌霽の花って重たさを感じさせる花である。見ているとその明るい華やかさに圧倒されるような思いがしてわたしなどは息苦しくなってくる。その凌霽の花の重さに拮抗するように著者の心持ちの緊迫感が伝わってくる一句である。「病めり」という断定が、作者の病気が尋常ではない気配を感じさせる。凌霽の咲きざまを一途とみている作者もまた一途に病いに向き合い闘っているのだ。 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 「和風に」ということが昆千鶴子さんのご希望であった。 見返しは金銀の箔を散らしたもの。 扉。 花切れは金色。 格調高く、品格のある一冊となった。 「思っていた以上に素敵な句集に仕上がりました」と著者の昆千鶴子さんは喜んでくださった。 病みてこそ学ぶ嬉しさ青すだれ 病に向き合う清々しいまでの著者の心根が見えてくる。「青すだれ」が著者の心をかたちにしている。 素敵な一句だ。 #
by fragie777
| 2017-09-11 21:03
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9月10日(日) 旧暦7月20日
新宿の地下街をあるいていたら、面白い壁画(?)があった。 ある地点に立ってそれを写真に撮ると、絵が飛び出して見えるというもの。 ためしに撮ってみたのがこの二つ。 どう? 飛び出して見えるかしら? 今日は午前中は太極拳へ行き、午後より一本映画を見た。 かねてより見たいとおもっていたジム・ジャームッシュ監督の「パターソン」という映画だ。 パターソンという街に暮すパターソンという男の物語である。 彼の仕事は、バスの運転手。 そして、彼は時間を見つけては詩を書く。 そう、彼は詩人である。 美しく創造性に富んだ妻とマーヴィンというブルドック(目が離せない)とともにささやかに暮している。 彼の日常はさまざまな発見の日々だ。 バスに乗り込んでくる人々の会話に聞き耳をたてる。 ラッパーの作詞に共感し、10歳の少女の詩に感動する。 彼をとりまく人々は優しさにあふれている。 ひとつのことだけを除けば、すばらしい作品だった。 映画を見終わって、出口に向かう途中で、若い男性ふたりの話声が聞こえた。 「全部のシーンが詩のページのようだったね」 「うん、うん」 もうひとりがうなずいている。 (ふーん、そういう見方もあるんだ)とわたしは聞き耳をたてた。 エレベータに乗り込むとき、今度は若い女性ふたりの話す言葉が聞こえた。 「永瀬(正敏)がなんで出てくんの?」 「意味わかんないよね」 (まったく同感! わたしも意味わかんなかった…)と大いにうなづく。 この映画を見た人は、異なる意見もあるかもしれないが、わたしは正直やはり永瀬正敏の登場は要らなかったと思う。 自分の詩の作品が失われてしまい茫然自失となっているパターソンの前にあまりにも唐突に出現する。 日本人の詩の研究者にして詩人として。 一瞬しらけてしまった。 (実はこのとき、彼が俳句を一句詠んで、挨拶句を贈るなんてやらないかしらなどと、わたしは一瞬妄想したのだった。その方が面白いわ) それはともかく、彼の登場はあまりにも不自然でぶちこわしという感がある。 だが、そのことはこの作品の出来栄えのよさに免じて、ご愛嬌ということで許してあげることにしよう。(えらそうでしょ) ジム・ジャームッシュの監督作品は、初期の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」や「ダウン・バイ・ロー」を面白く見たが、(音楽もいい、特にトム・ウエイツのだれたような歌が)そのあとの1,2本以外は見ていなかった。 家が並んだ町並みをパターソンが大股で横ぎっていく映像があるのだが、「ダウン・バイ・ロー」だったと思うが、あの時はモノクロだったかしら、同じように男が並んで建っている家を横ぎっていくシーンがあって、そのシーンだけわたしの脳裏に焼きついていて、ああおんなじだって思ったのだった。 カメラワークがとてもいい。日常のささやかな場面を撮っているのだが、ひとつひとつのシーンにドキドキしてしまう。 双子がたくさん登場するのはジム・ジャームッシュの遊び心かしら。それも楽しかった。 10歳の詩人の少女と出会って、別れるときのシーン 「あなたディキンソン読んでる?」 「うん、読んでるよ」 ああ、これば先日岩波ホールで見た映画の詩人エミリ・ディキンソンのことだ。 エミリ・ディキンソンの詩人力おそるべしである。 午前中は太極拳をして身体を宇宙の気息にあわせ(ホントか)、午後はすばらしい映画を見たyamaokaだったが、そのあと文房具を買うために京王デパートに立ち寄った。 そして帰りの電車に乗り込もうとして携帯がないことに気づいた。 (ひゃ~~!!) 携帯がないと、生きていけない。 わたしは蒼くなった。 売り場をいくつかたずね、どこにも見当たらず絶望的になる。 そうだトイレにも行った、そこに行って目を皿のようにして調べてみたがない。 もうだめかとがっくりしていたところに、 お掃除をしている婦人が現れたので聞いてみることにする。 「あのう携帯の落し物がありませんでした?」 「ありましたよ」とその婦人。 ああ、良かった!! 感謝をこめ携帯を受け取ったのだった。 そして握りしめて仙川に戻ってきた。 いい休日だったが、疲れた一日でもあった。 これは、新宿の映画館「武蔵野館」のエレベータのドアである。 「パターソン」は、おすすめの映画である。 (永瀬正敏が出てくると、ちょっと笑ってしまうわよ) #
by fragie777
| 2017-09-10 23:42
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9月9日(土) 重陽 旧暦7月19日
葡萄が美味しい季節となった。 葡萄は大好物である。 いただきもののシャインマスカット。 お皿は唐津焼。 先日の旅で立ち寄った窯元(中里太郎右衛門窯)でもとめたもの。 はじめて使ってみた。 わたしが一粒一粒を美味しそうに味わうのを猫たちがじいっと見つめていた。 (あとで、愛猫のヤマトがお皿のしずくを舐めていた) さあ、今日も新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装。162頁 3句組 著者の市ヶ谷洋子(いちがたに・ようこ)さんは、俳誌「馬酔木」の同人である。この句集は第2句集となる。本句集は、不慮の事故に遭われ重傷を負った著者の市ヶ谷洋子さんが、ご自身の回復を願って編まれた一冊である。第一章「邂逅」第2章「旅路」第3章「旅路」と三つの章に分かれている。著者による「前書き」から紹介したい。 洋子という私の名前は、洋の東西を問わず分け隔てなく誰とでも仲良くして広い世界を見てほしいという願いを込めた私の母方の祖父矢野嘉十郎の命名である。旧制中学校の英語教師として天寿を全うした祖父であったが、第二次世界大戦で教え子の多くを失ったことを悔み、世界平和を生涯祈願していた。 そうした祖父の影響に加え、生まれつき好奇心の強かった私は、旅が好きで太平洋の東西を巡り多くの地を訪問し多くの人々と触れ合い、自分の世界を広げてきた。旅先で見聞を広めた結果、世界的なボランティアに興味を持つことになり、五百近い国や地域で、女性と女児の人権と世界平和を求めて活動していた。ところが平成二十八年十月六日未明、就寝中に強盗に襲撃されるという災難に遭遇し、救命治療で一命は取り留めたものの、左半身不随となり、予期せぬリハビリ生活を余儀なくされた。 せめて少しでも意識のある内に、これまでの旅吟をまとめたいと思い、句集出版を決意した。 著者が遭われたこの事件はニュースでも大きく報道されたということである。まったくの不慮の事故で、ご不幸に見舞われたとしか申し上げられない。傷も快癒しつつある現在なお頑張ってリハビリに励んでおられる市ヶ谷洋子さんである。 第一章「邂逅」、第二章「旅鞄」は、この十年の日常吟に加え、家族や友人句集『旅鞄』と観光のみならずボランティアや慰霊で訪れた地で詠んだ句である。世界情勢の変化で現在では訪問が困難な国や地域もあるが、早く世界が平和になり、人々が自由に往来できるよう心から望んでいる。「旅は道連れ」というが、旅で苦楽を共にした仲間や、旅先でお世話になった方々の健勝と安寧、そして世界平和と人類の共存共栄を心より希求して、一期一会の国内外の旅の記録をまとめた。人生という旅で教えを受けた先生方との愛別離苦の思い出も詰まった一章である。 第三章「再び」は、思いもかけない災難に遭遇した悲運の日々の記録である。人生を旅とする日本古来の考え方に基づけば、このリハビリの日々も私の新しい旅のみちのりの一部であろう。 本集に収められた旅吟は単なる旅の句というよりも、社会的な意識をもって国々を訪れた市ヶ谷洋子さんの活動の記録でもある。「五百近い国や地域で、女性と女児の人権と世界平和を求めて活動していた」とあるから、それは並大抵のものではない。それぞれの章からいくつか紹介したい。 料峭や風に抗ふ星の綺羅 (第一章) ハンカチに風ごと包む土筆の子 邂逅の言葉ほぐるる椿市 許すとは忘れゆくこと桜散る クロールの腕まつすぐにプール裁ち 星あまた降りて水田の蛍かな 迎ふるも見送るも駅雁のころ 迎ふるも見送るも駅雁のころ この句第一章の「邂逅」という見出しに響き合っている。「雁のころ」という措辞がいい。秋は、人との出会いや別れをいっそうに深々とした思いにさせる季節だ。この句、心情を何も述べていないのだが、なぜかしみじみとしてくるのは、やはり「雁のころ」の季題に拠るものだと思う。 億年の地層覚めゆく大旦 (第二章) 泉汲む少女のリボン濡れやすく 七月の埠頭にあふれ星条旗 独立記念日青虫のごとパセリ食べ 僧院にパン焼く香り朝の虹 空蟬の琥珀の軽さ拾ひけり サリー織る少年の背に大西日 初雪や光混み合ふシャンゼリゼ 一族に二つの祖国桐咲けり アオザイの女振り向く除夜の坂 アオザイの女振り向く除夜の坂 「ベトナム五句」と前書きのある一句である。「アオザイ」は、ベトナム女性の伝統的な衣服であり、上着は長目で横に深いスリットが入ってる。そこにズボンを組み合わせるものだ。わたしは着たことがないけれど、素敵な民俗服だと思う。民俗服のもつ仰々しさがなくて軽快でお洒落だ。女性の身体を美しく見せる。老女となっても着られそうな民俗服だ。この句の場合、アオザイを着た女は若すぎも老いすぎてもいず、生活感を感じさせる女だ。その女が振り向いたのである。「除夜の坂」でだ。この「除夜の坂」がいい。女の激しい振り向きざまを思わせる何かがある。人々がいそがしく動き回っている除夜の夜だ。そんななかでも女の動きは著者の目を捉えたのである。女の鋭い視線までも感じられる一句である。 リハビリや余寒の母の手を握り (第三章) 木の芽寒病みても心熱きまま リハビリの階段春の闇にはか 春燈下リハビリの指影絵めく リハビリに飽きて雀は蛤に 夫といふ心の大樹春兆す 木の芽寒病みても心熱きまま 「第三章」はリハビリの日々を詠んだもの。一喜一憂の日々である。しかし著者の市ヶ谷さんを支える家族の方々の思いがあって、励まされつつ頑張っておられる市ヶ谷洋子さんである。「病みても心熱きまま」というこの句を通して、著者の不屈の闘志が伝わってくる。きっとご回復されると思う。 本句集の装丁は君嶋真理子さん。 すっきりとした仕上がりとなった。 表紙。 扉。 「前書き」に「リハビリの日々も私の新しい旅のみちのりの一部」と記されている市ヶ谷洋子さんである。 句集の上梓が励みとなられることを願わずにはいられない。 市ヶ谷洋子さんのご快癒を心よりお祈り申し上げます。 #
by fragie777
| 2017-09-09 19:01
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9月8日(金)草露白(くさのつゆしろし) 旧暦7月18日
羽が透きとおっていて、小さな妖精のよう。 もう誰もいない仕事場である。 仕事をしながら車検に出した車が戻るのを待っている。 車検というものはべらぼうにお金がかかるうえに、しかも口にするのもはばかられるような惨劇があった。 あろうことに、わたしは代車を傷つけてしまったのだった。 しかも新品の代車である。その上大型外車。 (いったい、誰がこんな車を手配したのだ!) 家の狭い駐車場にいれるのに、魔法でも使わなければならないような大きさである。 しかもすでに夜も遅い。 わたしの運転技術がなっちゃないってことは知っているはずよ。 何度も車を修理してるんだから。(威張ることじゃないけどさ) 焦っていれてドスッと音がして、わたしに下された運命を察知したのだった。 ゆえに、 膨大な修理費が発生してしまったのである。 あーあ。 車を届けにやってきたサービスマンのTさんも恐縮している。 しかし、傷は消えるはずもない。 「し、仕方ないわね」とわたしはサインをしたのだった。 そのサービスマンのTさんが、仕事場をぐるりとながめて、 「ええっと、なんのお仕事ですか?」と聞く。 何人ものサービスマンが来たが、ふらんす堂の仕事に興味をもったのはTさんが始めてである。 Tさんは、髪をワックスで固め、作業服を来ているものの先の尖ったおしゃれな靴をはいている背の高い青年である。 「出版社なの。俳句や短歌や詩の本を出しているのね。ここにある本はほとんどふらんす堂で作った本」 「へえー、そうなんですか」と見渡しながら「僕はむかしは本を読まなかったんですが、最近すこし読むようになっていま司馬遼太郎を読んでます」と言う。 「ああ、わたしも読んでる」 「一番好きなのが『燃えよ剣』なんです。土方歳三がいいですよね」 「ああ、あの人見た目もカッコいいわよねえ」とミーハーなyamaokaである。 「最後に北海道で死ぬときなんて、スゴイなあとおもいました。彼は日野市出身なんですよね」 「そうそう、わたし彼の生家(歳三資料舘)に行ったことあるわよ。」とちょっと自慢げに。 「ええ、そうなんですか。土方歳三とか幕末の志士たちはすごいと思うんです。自分が日本を変えようと思っているんですから。いまの時代ぼくはそんな風に国を背負うなんてできないですよ」とTさん。かなり真面目である。 司馬遼太郎を読んで、そんな風に思っている青年がいることにすくなからず驚いたのだった。 司馬遼太郎はおじさん、おばさんの読み物かなあなんて偏見を持っていたので。 余計なことながら、『燃えよ剣』でわたしが一番好きな場面は、(これはまったくのシバリョウの虚構であると思うが)沖田総司と坂本龍馬がそれと気づかずすれ違うところ。ゾクッとする。やっぱりミーハーでしょ。 幕末ものでは大村益次郎を描いた『花神』は面白い。 『花神』に登場するシーボルトの娘イネをもっと知りたくて8月の旅行では長崎のシーボルト記念館を訪ねたのだった。 で、 (この「で」は意味があるのか) 思わぬ出費に泣いているyamaokaである。 #
by fragie777
| 2017-09-08 20:30
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9月7日(木) 白露 旧暦7月17日
秋の水。 朝仕事場に向かうとき、いつもとは違う路地をとおる。 するとこんな看板が目に入った。 「シャネル、エルメス 高く買い取ります。」 そう、高くね。 わたしはわがクローゼットというか押し入れのなかの衣類やらバッグやらなにやらをスロットマシーンのように次々と頭ん中を過ぎらせてみた。 雑多なものが頭を擦過していく。 エルメス、ないな。 シャネル、これもない。 いったいどういうこと。 いっぱしの女として生きてきたつもりであったが、シャネルもエルメスも持っていないとは。。。。 これは不覚であった。 しごく残念である。 エルメスもシャネルも持っていないyamaokaを再認識した朝となったのである。 プレゼントしてくれる人がいたら貰ってやってもよくってよ。 あはっ、 嘘、嘘。 冗談よ。。。。 「桃花水(とうかすい)」ってご存じ。 季語である。 わたしは今日はじめて知ったのであるが、これも大石悦子さんの「季語別句集」を編集していて知らされたのだった。 なんと「雪解川」のことである。 お教えくださった大石悦子さんによると、 「日本国語大辞典」によりますと、「桃の花の咲く三月ごろ、雪氷が解けてあふれるばかりに流れる川の水」とございます。」と。 いやはや、こういうのって言葉を経験しないと、なかなか「雪解川」には結びつかない。最初は「桃の花」の季題に分類してしまっていたのだった。 大石悦子さんは、この「桃花水」で三句作られている。二句紹介してみたい。 ひろびろと網代をゆける桃花水 比良坂を過ぎて奔りぬ桃花水 「雪解川」よりもはるかに色を感じ、しかも桃の花の香りがしそうな流れである。 春の喜びもつたわってくる。 美しい季語だなあ。 雪解けの流れをこんな風に表現する言葉があったとは、季語の世界は本当に広くて深い。 一昨日も昨日も今日も、宅急便をつくっておいてラベルをはらずに放置したままそのことを忘れてしまった。 その度にスタッフに「このやりっぱなし、誰ですかあ」と注意された。 「もう、わたし駄目だあ。末期症状だわ。」と思わず嘆くと、 「いいえ、yamaokaさんの場合、今に始まったことじゃないです。それがデフォルトです」って言われてしまった。 なんだか複雑な気持ち。 #
by fragie777
| 2017-09-07 19:16
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