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2月3日(土) 節分 旧暦12月18日
午前中に用事をすませて、お昼より仕事場で仕事をする。 机の上にはどっさりと仕事が置かれて、そのひとつひとつを片付けていく。 昨夜は、予定より少し早い新幹線で帰ってくることができたのだが、それでも家についたときは夜中の12時をまわっていた。 大峯あきら先生のお通夜は、「晨」の代表の山本洋子氏をはじめとして「晨」に所属する方々がたくさんいらっしゃっておられた。 大峯先生は、亡くなるその夜まで普通にお仕事をされていて、寝所にお入りになる直前に倒れられたとご子息がご挨拶で語っておられたのだが、まるで眠っているかのようなお顔であったということである。 山本洋子さんは、いまだ呆然としておれるご様子。 ちょうどわたしのお隣に座られた草深昌子さんは、「大峯先生のことは、俳句の師というだけでなく人生の師として深く敬愛してました。主人が亡くなったときも大峯先生のお陰で乗り越えられたんです。これからどうしていったらいいのか……」と動揺を隠せないご様子だった。 先日「俳人協会新人賞」を受賞された大西朋さんも「晨」の同人である。 「27日受賞を受け小川先生にすぐご報告した後夜九時ころに大峯先生にお電話しました。いつもより良くお話しされて笑ったり楽しいお電話でした。ですので今でも信じられません。」とメールを下さった。 あまりにも突然の師の死に、俳句のお仲間やお弟子さんたちは茫然自失の感があった。 大峯あきら氏は、俳人にして哲学者、そして浄土真宗の僧侶であられた。 この度の葬儀には僧侶の方々がたくさん参列しておられ、導師の読経に参列された僧侶たちが唱和し、荘厳な空気が支配するなかをお通夜の儀式が執り行われたのだった。 会場に飾られていた奥さまとのツウショットのお写真。 奥さまは、目下闘病中であり会場にはお姿が見えなかった。 お通夜を辞して橿原神宮駅に向かう帰りのバスで、「あれが畝傍山」と教えていただいた。 暗い夜のはるか前方にはなだらかな山がひとつ黒々とある。 「畝傍山」「天の香具山」「耳成山」は大和三山、そのひとつの畝傍山であった。 (大和に来たのだなあ)ともう一度窓外に目をこらすと、夜の闇は深々として何かをひそませているような濡れた色をしているのだった。 以下、大峯あきら精選句集『星雲』より作品を紹介したい。 灯を消してあり春泥を押しつつみ 「ホトトギス」昭和25・4月号初入選句 フイヒテ全集鉄片のごと曝しけり 木曾馬の黒眼みひらく二月かな 短日の日本海鳴る下校かな 帰り来て吉野の雷に座りをり 冬支度鴎もとほる村の空 手花火は鯖街道を照らすなり 梟の月夜や甕の中までも 杉山を餅配る子が越えてゆく 柿接ぐや遠白波の唯一度 崩れ簗観音日々にうつくしく ふろしきの紫たたむ梅の頃 みづうみに四五枚洗ふ障子かな 菊の日の渚づたひに来る子かな 人は死に竹は皮脱ぐまひるかな 啓蟄の日をふり仰ぐ子供かな くらがりに女美し親鸞忌 切干も金星もまだ新しく 蝶々が大和言葉の中を飛ぶ 虫の夜の星空に浮く地球かな よそほへば病なきごと妻の秋 茶の花にまだまだ沈む夕日かな 初風はどんぐり山に吹いてをり 蔵の中まだつめたくて蝶の昼 餅花の見ゆる赤子を抱きにけり 日脚伸び鳶をかまひにゆく鴉 その辺の草を歩いて啄木忌 がちやがちやに夜な夜な赤き火星かな 初雪の日に訪ひくれし思ひ出も (悼 田中裕明) 尾の長き鳥が流れて春隣 月はいま地球の裏か磯遊び 大峯あきら先生、 ご生前にご縁を賜りましたことを深く感謝申し上げます。 心よりご冥福をお祈り申し上げます。 #
by fragie777
| 2018-02-03 18:17
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by fragie777
| 2018-02-02 08:28
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2月1日(木) 旧暦12月16日
待たれる春。 東京は今日の夜から降り出して、夜中には雪になるとか。 前の雪がまだ解けきっていないというのに。。。 明日は一日中、雪かもしれない。 「ふらんす堂通信155」が出来上がってきた。 年の初めの号は、特別付録として書籍目録つきなので結構厚いのである。 今回の杉本徹さんの連載「十七時の光にふれて」は、今回は筑紫磐井著『季語は生きている』(実業広報社刊)をとりあげている。 「俳句に季語はなぜ必要なのか―-―あらためて考えると、やはり不思議である」という書きだしではじまり、本著について、 真に画期的な、基本文献として今後必携となるであろう。きわめて重要な季題(季語)論である。 と語り、力の入った評を展開している。 是非に読んでほしい書評だ。 明日はふたつのご葬儀にうかがう予定である。 午前中は、藤井忠俊氏の告別式、藤井氏は日本近代史の研究家で、岩波新書や朝日選書など著書もある学者である。大木あまりさんの義兄にあたる方で、あまりさんのお姉さんの藤井康栄さんのご夫君である。藤井康栄さんは「松本清張記念館」の名誉館長であり、もう一人のお姉さまの作家・宮田毬栄さんとともにわたしもよく存じあげている方である。というか、あまりさんをはじめいろいろとお世話になっている方々である。藤井忠俊氏にはお目にかかってもいる。 そのご告別式に参列して、その後は奈良の橿原市の大峯あきら先生のお通夜に伺う予定である。 3日は私用が入っていてご告別式には伺えないので、お通夜にうかがってそのまま日帰りで失礼させていただく。 仙川駅に着くのは多分真夜中を過ぎることになると思う。 明日はブログが書けないかもしれない。。。 でも、 yamaokaは元気ですのでご心配のなきよう。。。 雪がたくさん積もりませんように。 明日は東京も奈良も雪であるような。。。。 こんな時にホントにどうでもいいことなんだけど、 ボブ・ディラン、と ボランティア っていう表記、 なんとなく似てると思いません? ホントにどうでもいいことなんだけど。。。 #
by fragie777
| 2018-02-01 18:21
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1月31日(水) 旧暦12月15日
枯れと水。 1月最後の日となった。 俳人の大峯あきら氏が急逝された。30日、急性心臓死のためと、新聞にある。 享年88。 あまりにも突然のことで、なんとも言葉がない。 さきほど、俳人の山本洋子さんにお電話をいただいたが、 「わたしもただ、呆然として……。これから吉野(大峯あきら氏のところへ)まいります!」と早々にお電話を切られたのだった。 心よりご冥福をお祈り申し上げます。 新聞によると、お通夜は2月2日午後6時、ご葬儀は同3日午前11時、奈良県橿原市一町345のセレモニーホール橿原。喪主はご長男の朝記(あさき)氏。 さっそくに新刊句集を紹介したい。 四六判ソフトカバー装グラシン巻き。196頁 著者の笹本千賀子(ささもと・ちかこ)さんは、昭和24年(1949)東京生まれ、神奈川県秦野市在住。平成10年(1998)俳誌「槙」(平井照敏主宰)に入会、「槙」同人、「槙」編集長、「翡翠」創刊同人、編集長を経て、現在は「燕俳句会」の代表である。本句集は第1句集『素足の時間』(平成14年刊)につぐ第2句集となる。 誰かが憶えているかぎり、人は、ほんとうには死なないのよ モーリス・メーテルリンク『青い鳥』 江國香織訳(講談社文庫) 第一句集を出してから、十五年の歳月が過ぎた。その間に、師平井照敏の逝去、姑の死があり、句座を囲んだ方々も次々と旅立って行かれた。父母と義父は既に亡くなっていたから、師表として仰ぐ大切な人々の多くは、私の巡りから去り、鬼籍へと移られたことになる。冒頭に置いたメーテルリンクの言葉は、既に人口に膾炙しているものであるけれども、本句集をまとめるに当たって、しみじみと心に響いてきたことばであった。 「あとがき」に書かれた冒頭の言葉である。 本句集は著者の記憶に生きる人たちへの存問の句集である。 残されし鏡のなかも青葉かな この「残された鏡」とは、いったい誰が残していった鏡なのだろうか。 そのことを著者は語っていない。ただそこに鏡が残されていてこちら側の青葉が映しだされている。しかしその鏡は残されし鏡であってかつては死者のものであった鏡だ。鏡は現世を映しだしているが、あたかも死者の魂をやどしているかのよう に死の翳が濃厚である。鏡に映しだされた青葉はそこに閉じ込められることによっていっそう青さをまして冷たく輝き、濃密な翳りを帯びてこちら側の希薄さを感じさせるかのようだ。 この句集を紹介するにあたって、わたしは句集『素足の時間』を取り出して平井照敏氏の序文にもう一度触れてみた。 大切なことは言はずに一位の実 平12 石原吉郎という私の友は、かつて、詩とはもっとも大切なことを、なんとしても言わないでいようとすることだと言いました。その通りですが、ただし、その大切なものをとりまくように語るということなのです。なぜ言わないのか。言ってしまえば、それが死んでしまうからなのです。だから、大切なことはここといって指さすだけでいいのです。 本句集の担当は、文己さん。 亡くなりしひとのしぐさも薄暑かな 寒鰤のすがたで海の運ばれ来いつせいに烏の消ゆる大暑かな マスクしてこの世いちまい隔てをり ものの芽の丹田呼吸してをりぬ 蚊帳仕舞ふ湖をたたみてゆくごとく 巨峰受く手のひら夜となりにけり 傘立は乱世のごとし菜種梅雨 「母の日」の堰きつて母あふれ来る 夜濯ぎの両手を秋に入れながら たまに来て父がもの言ふ春の夢 アガパンサス咲いて「遊女の墓」とのみ 幼き日、日曜学校で「わが主イエス」と歌っていた頃から、キリストは私の友であり同行者であった。彼は高みに在(いま)す神ではなく、共に歩んでくださるイエスさまなのだった。冬の最中(さなか)にあるときにも、イエスさまは私の傍らにいてくださった。 この句集を、イエスさまと、亡き師、亡き父母に捧げたいと思う。 「あとがき」より。 こうして、句集名は「冬のキリスト」となった。 本句集の装丁は、君嶋真理子さん。 前句集の『素足の時間』に続いてである。 グラシン(薄紙)で巻かれて、本に奥行きが出た。 カバーをとった表紙。 扉。 並製の造本であるが、天アンカットにして栞をつけて欲しいというのが笹本千賀子さんのご希望。 瀟洒にして遙けき一冊となった。 巨峰受く手のひら夜となりにけり 文己さんもあげていたが、わたしもこの句に心がとまった。 不思議な一句である。 巨峰の大きな房を、あるいはその一粒でもいいのだけれど、掌に受けた。 たちまちに夜の闇がその掌からはじまっていったと、鑑賞してしまえばそれまでであるが、てのひらが夜となったというその表現が面白い。 夜の質量を感じさせる一句だ。 大峯あきら先生が亡くなったというあまりにも突然の急逝に気が動転してしまって、今日は銀行回りをしなくてはいけなかったのだけど、すっかり忘れてしまった。 明日、しなくては。。。 #
by fragie777
| 2018-01-31 19:38
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1月30日(水) 雞始乳(にわとりはじめてとやにつく) 旧暦12月14日
冬の空はことさら青い。 今日の72候は、雞始乳(にわとりはじめてとやにつく)である。「季節のこよみ」によると、 春の到来を感じた鶏が、卵を生み始める時期とされます。鶏は鳴いて夜明けを知らせるため、日本でも古来、神や悪霊が来往する夜と人間が活動する昼との境目を告げる霊鳥と見なされてきました。「天の岩屋戸神話」でも岩屋に隠れた太陽神・天照大神(あまてらすおおみかみ)を外に連れ出すのに一役買っており、太陽再生信仰との結びつきが見られます。このうようなことからも、鶏は、長く暗い冬の終わりと春の到来を期するにふさわしい動物といえるのではないでしょうか。 国立・谷保天神の鶏。 彼等(彼女等)も春を待ち望んでいることだろう。 新刊紹介をしたい。 46判変型(104㎜×147㎜)フランス装 168頁(巻末に別丁がつく) 著者の涌井ひろみ(わくい・ひろみ)さんは、1956年東京生れの東京練馬区在住、現在は女子中学高等学校で音楽をおしえておられる。短歌は、東京新聞の短歌欄に投稿することから始めた。本歌集には2005年から2017年までの作品を収録。東京新聞の短歌欄の佐佐木幸綱氏による入選が100首になったのを機に歌集の上梓を思い立ち、「再スタートの気持で歌集としてまとめました」と「あとがき」にある。 音楽は過去の素晴らしい作品を再現する芸術でもありますが、短歌には器の中で自分の世界を創り出すという別の強い喜びを見出したのかもしれません。歌を始める時「先ずは好きな植物や日常を土台にしよう」と自分に課しましたが、今百首を並べるとその世界の狭さにうなだれます。 この間短歌の講座で三年間栗木京子氏に添削をお願いし、日本中で開催される短歌大会に行けば歌人の方達のお話も伺えると、できるだけ動きました。百首の他、各地に出かけた想い出の歌の中から十三首、さらにテーマ毎に詠ってみようと試みた五十首、三十首、十五首が五つの二百六十八首をのせました。 「あとがき」を紹介した。 点眼はかなしき習(なら)慣ひ君が目に毎朝おとす碧(みどり)のしづく タイトルとなった短歌である。 本歌集には「碧のしづく」が象徴する清冽なひとすじの詩情がつらぬかれている。 それは岩をも砕くような激しいまでの清冽さと言ってもよい。 また、 ありふれた日々の想ひを一瞬に更新していく言葉のちから この「言葉のちから」を信じる著者である。そして、生きてきた時間をとおして著者の体内に醸成されたものが、短歌形式によって濾過され結晶し宝石のようにかがやく言葉となって生み出されていく。 この作者の体内にあるものはたっぷりと豊かである。 蓄積が濁ることなく、瑞瑞しい言葉となって生み出された。 帰りきて旅路の鈴は鳴りやまずあいるらんどの書物にあそぶ おほてらとよみし八一もここにてをさいばんのひにはしらぬくもる フクシマと姿を変へしふるさとよ山は青しと歌ひつづける ヒロシマを季語にとぢこめあんをんたりき今ぱつくりと傷口ひらく バルテュスの少女の足は雨ふくむ欅木のごと今なほのびる とりたちよここには森がありました生死行き交ふ春の夕暮れ 「モルダウ」をくちずさみつつ教室を出てゆく子らに川風のふく 哀しみをかかへて生きる人々のかぶる帽子が見える朝あり 二〇一五年の「オペ日和」以降は夫の手術、闘病と重なっていきます。歌は私の縦糸で毎日を支えてくれましたが、夫という横糸との両方で私達の年月が織られてきたことを今痛感し、ラインでのわずかなやりとりを共に編むことに致しました。「碧のしづく」の題は百首の中で夫が大事にしてくれていた一首からとりました。 ふたたび「あとがき」より。 本歌集には、別丁の頁が巻末に付けられている。 癌が再発し闘病をされているご夫君とのラインでのやりとりをそのまま再現したものである。 やがてご夫君は長野のホスピスへ入院され、離れて暮らす著者との会話はラインである。 その一部始終が記されている。 本歌集の担当はPさん。 Pさんの好きな作品を紹介したい。 くるりんと束ねたる髪ほぐす朝うなじ涼しく木犀香る 金木犀咲きそむる日は透きとほおり遠き過去より琴の音きこゆ 駆けしのちほてり残れる首すぢをかき抱く時馬は樹となる 指先のチョークにまじる淡き色今朝がた摘みしバジルのみどり やはらかな響きでくるむ夏掛けをくんとはねのく新しき足 オペ日和あるとしなたら冬晴れの小鳥さへづる今日かもしれぬ 野を渡る風はりんごの匂ひして私の中の少女あらはる 山みればあなたを思ひ山みれば今日がその日でなきこと祈る 寝る前に青菜をゆがく湯気の中「大丈夫かい」となつかしき聲 韻律が美しいことも、著者が音楽を専攻されていることと無関係ではないと思う。 眼と耳が研ぎ澄まされている。 澄んだ天空に一瞬美しいバイオリンの旋律がはしる。 そんな緊張感がつらぬく歌集である。 また、一瞬一瞬をいかに大切にしながら生きておられる著者であるかが、作品を通してせつせつと伝わってくる。 本歌集の装丁は和兎さん。 フランス装の小さな歌集である。 題簽は二瓶里美さん、装画は、石原葉子さん。 ともに涌井ひろみさんのお知り合いである。 扉。 キラキラとした思い出のつまった宝石箱のようである。 読みなほす本のヒロイン若きまま年ふりつもり花眼の我居り この一首はすごくわかる。 ホントにその通り、である。 ヒロインは若きまま、そしてわたしも「花眼」である。 でもね、眼は「花眼」であってもこころはちっとも古くなってないって、思う。 「赤毛のアン」や「若草物語」を読んでも、すぐに乙女に変身してしまう自分がいるのだ。 ギルバート・ブライスは相変わらず私の心をウルウルとさせてくれるのだから。 涌井さんもきっと、そうなのでは。。。 #
by fragie777
| 2018-01-30 20:22
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