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9月18日(水) 十六夜 旧暦8月16日
いどむ翡翠(カワセミ) この目が好き。 昨夜は、月をみあげることもせずに家に帰って二階の窓をあけたところ、月に気づいた。 「ああ、月。。。。」と呟いてしばし見つめた。 16日づけの毎日新聞の新刊紹介は、櫂未知子さんによって矢島渚男句集『何をしに』、中川佐和子さんによって伊藤一彦著『若山牧水の百首』が紹介されている。 矢島渚男『何をしに』 第10句集。老齢に達したことで、かえって文体の自由さを獲得した感のある一冊であり、とにかくおもしろい。〈野兎の糞あたらしや父母の墓〉〈冬から冬へウイルスら意志あるごとく〉〈何をしにホモ・サイエンス星月夜〉 伊藤一彦著『若山牧水の百首』 「旅と酒の歌人」と言われて人々に深く愛されてきた牧水の歌。その牧水の歌の心情、言葉、韻律、作品の背景を丁寧な鑑賞文に記して、あらたなる魅力を伝える。〈だんだんにからだちぢまり大ぞらの星も窓より降り来るごとし〉 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装フレキシブルバック製本帯有り 180頁 二句組 俳人・飯田晴(いいだ・はれ)さん(1954年生れ)は、「魚座」にて今井杏太郎に師事、「魚座」終刊後、鳥居三朗主宰の「雲」創刊に参加。2016年「雲」を継承主宰。俳人協会評議委員、千葉県俳句作家協会理事、「墨 BOKU」の同人である。本句集は前句集『ゆめの変り目』に次ぐ第四句集となる。 第四句集『まぼろしの雨』には二〇一八年から二〇二四年春までの三一一句を収めた。集名は「古セーターまぼろしの雨棲みゐたり」に因る。 「あとがき」より。 古セーターまぼろしの雨棲みゐたり タイトルとなった一句である。なんとも不思議な一句。古いセーターを手にしたときに作者の前にひらかれた一瞬の景、そのセーターそのものが持つ記憶が作者をある世界へと誘っていくのか。懐かしい人の気配、そして雨の匂い、実在するものは古セーターのみであるのに、その実在以上に作者を呼びさますもの、それを五七五に詠み込んだのである。ものの手触りにみちびかれて思いも掛けないところへ、しかしどこか懐かしい場所へと誘ってくれる、それに自由に心をとき放つ作者がみえる。 本句集の担当は、Pさん。好きな句を紹介したい。 昼といふあかるさ地図になき枯野 野に降りるつばめは青となりながら まばたきの春や羊の白まつげ 冬沼のきらめきに鳥入らむとす 胡椒挽く春はひとりを楽しうす 水運ぶ秋のことばを聴くやうに 秋光の木々に紛れてゆく遊び 鍬深くつかふ一身もて冬に 身をひねる天日の鷹捉へむと ざくろ割れ死者のほとりの華やぎぬ 世は秋のひかりページの中に蝶 昼といふあかるさ地図になき枯野 理屈では鑑賞できない一句だ。ひたすらな真昼の明るさがみえてくる。地図を開いているのだろうか。手にした地図がみえてくる。あるいは枯野のまえに茫然と佇んでいる人間がみえてくる。地図には記されていなかった枯野が昼のひかりをあびてそこにある。枯野をまえにして明るさに呪縛されたそんな心持ちを感じているのか、動的な気配はなくひたすら明るさのなかにある静的な枯野が目の前にある。そしてそれは地図に描かれなかった枯野であるのだ。ある静止画の中にいるように時間が止まっているように思うのはわたしだけだろうか。 まばたきの春や羊の白まつげ 面白い一句。読みはじめるとまるで春がまばたきをしているかのように思い、それもありかと、しかし、「羊の白まつげ」との措辞にであって、そうか、まばたきをしていたのは、羊の睫毛だったのか、とこう鑑賞してしまえば、この一句のもっているふくらみは損なわれてしまう。「白まつげ」は、春ののどかさによく合っているし、この「白」がなかったらこの一句の明るさは失われてしまう。ゆっくりとまばたきをする羊の白いまつげ、そこに春のすべてを集約させて春を詠んでいるのだ。羊のねむそうな白い睫毛におっとりと春はのっかっている。 鍬深くつかふ一身もて冬に わたしも好きな一句である。農耕のくらしをしながら冬に向き合う人間を詠んでいる。その人間と土との深い絆を思わせる一句であり、それを「鍬深くつかふ一身」と農作業の具体的な動作によって一句にした。自身の暮らしをささえる大地への畏敬のこころを宿しつつ、冬という季節に全身をもっておごそかに向き合うそんな人間の姿がみえてくる一句である。 ざくろ割れ死者のほとりの華やぎぬ ドキッとする一句だ。「ざくろ」が割れた状態は、平穏というよりもやや凄みがあって、「ざくろ割れ」と上五におかれるとなんともこれから劇的な展開がはじまるのではないかと身構えてしまう。いったい、、、、とおもうと「死者」へと導かれ、やや、これはなんとも非情な世界へと導かれていくのかとさらに身構えると、「ほとりの華やぎぬ」とあって、こころが一挙に武装解除される、緊張感からある安らぎへと導かれる一句である。死者のほとりを華やかにさせるものなんてあるか、って思うのであるが、この句に出会って、ぱっくりと割れ、赤が衝撃的なざくろこそ、その任務がはたせる、ということに気づかせてくれる一句だ。ざくろの赤の明るさが強烈に残る一句である。 春夕べたまご割る手の濡れてをり これはわたしの好きな一句である。素直に詠まれた一句として受け取ったのだが、「たまご割る手の濡れてをり」というこの改めての発見、手が濡れるということは日常茶飯事にあるわけだけど、とりわけ卵というものに触れたときに手が濡れているということへの気づき、そのやわらかいものをつつんでいる薄い殻のざらざらした表面をたっぷりと濡れた手でふれたときの感触、作者はそれをこの一句によってはじめて実感したのである。卵を割るという行為は、一年のうちに何度もやってきたことなのに、どうして、と思えばそれはゆるやかに時がほぐれてゆく春の夕べであるからこそなのだ。作者の気持ちもゆったりとして、卵の半透明な白さをわるときに瑞々しく濡れて光る手を見出したのだった。〈てのひらは肉のつめたさ春夕焼〉という句もあって、春の夕暮れはことさらに、作者は手を意識するのかもしれない。 校正スタッフのみおさんは、〈街はテーブル春満月を載せてある〉「高台から見下ろしたらまさしく「テーブル」だろうなとうっとり。」と。 ほかに 梨買うてひぐれの方へ歩き出す 目のふちのつめたさ花野なほ暮るる 帰りには見えて泰山木の花 ほとけらに金のぬめりの蜥蜴出づ まばたきに何度でも消ゆ冬桜 不意にひらかれる扉は、私のあずかり知らぬ思いを届けてくれる瞬間でもある。思わざるところから立ち現れるいまとは別の時間や記憶、それらは私の水底世界のような処につながる回路を知っているらしい。それらが醸す面白さ、不可思議さを享受しての一集となった。 「あとがき」より。 本句集の装釘は、和兎さん。 「白」を基調とした装釘となった。 タイトルは金箔押し。 光沢のある用紙に白インキで印刷。 見返しも白。 表紙は淡い編み掛けの印刷。 扉。 栞紐のみ、ベージュ色。 角背がシャープである。 花筏われのみ遡りゆくか いま、というときを詠んでいるつもりでも、そのものがもつ時間や記憶を受け取っているのだと思うことがある。(あとがき) 飯田晴さんは句集上梓のあと、わたしどもへ丁寧な御礼の葉書をくださったのだった。 飯田晴さま 第3句集にひきつづきご縁をいただきまして、ありがとうございます。 第5句集へとつづく、更なる豊かな俳句の日々をお祈り申し上げております。 好きな句をもう一句。 桃の日の押入れに猫ねむりをり 飯田 晴 #
by fragie777
| 2024-09-18 20:42
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9月17日(火) 玄長去(つばめさる) 十五夜 旧暦8月15日
松宵草(まつよいぐさ) お知らせがひとつ。 「ふらんす堂通信」が電子書籍になりました! ふらんす堂通信電子書籍(Amazon Kindle)のリンクです。 その他サイトでも多数配信中です! 9月14日(土)に行われた「篠創刊40周年」(辻村麻乃主宰)のお祝いの会について、紹介をしておきたい。 出席したスタッフPさんのレポートです。 * 9月14日土曜日11時30分より、新宿京王プラザホテル南館4階扇の間にて、「篠」創刊四十周年祈念祝賀会が華やかに開催されました。 この日の記念として、またご来賓の方々のお土産として、『岡田史乃の百句』を弊社で刊行させて頂きました。 ご挨拶をされる辻村麻乃主宰 暑さが残るなか、お集まりいただいてありがとうございます。 岡田史乃が存命中のころには5年ごとくらいには祝賀会を催して参りましたが、晩年は入退院を繰り返していたのでなかなかできないままに、5年前に他界してしまいました。 そのため、こういった会は15年振りになります。 母の意思を継いで主宰を継承してからは5年が経ちました。会員のみなさまや家族の協力があってこそだと感謝しております。 命は有限で悲しい別れもありますけれど、俳句は生きている瞬間を十七音に残すことができるものだと信じております。 昔の句を詠んでも鑑賞によってリアリティのある映像に蘇って参ります。 みなさまの瞬間を詠み込んだ俳句に真摯に向き合うとともに、自らも今を刻んでいきたいと思います。 まだまだ力不足な点がありますが、これからも来賓のみなさまからのご指導ご鞭撻、「篠」一同ともに、精進していく所存です。どうか「篠」をこれからもよろしくお願いいたします。
ご来賓の一部の方々とのお写真 『岡田史乃の百句』については、14日づけのブログ「編集日記」でもすこしご紹介をした。 美しい一冊をもう少しご紹介をしておきたい。 装釘は君嶋真理子さん。 四六判変形ソフトカバー装クータバインディング製本 218頁 帯は高橋睦郎氏。 「生きることは悲しく、そのゆえにこそ美しい、、と改めて教えられる史乃さんの句であり、麻乃さんの読みだ」と。 こうして、四冊を改めて紐解いてみると(母娘癒着型であったので)母の句を読むことは自分を読み解くことにも繋がるとわかった。これからはここから飛翔して、この想像力を様々な方の句の鑑賞に生かして行きたいと思う。 「あとがき」を紹介した。 本書より、 去年今年詩人籠れる鍵の内 『浮いてこい』 その詩人、美術評論家、大学教授でもあった岡田隆彦は夜型で、部屋にこもって原稿を書いていた。ピアノを弾けるのは、父が起きている時間のみ。父はFENを聴きながら、ウイスキーと氷砂糖を横に軍手の指を切ったものを嵌め、専用の原稿用紙に万年筆という執筆スタイル。父自身の気分転換の時間に全米トップチャートのロックを教えてくれたり、自作の本の栞に猫の絵を描いて、私の部屋のドアの隙間から差し込んできたりするお茶目な面もあった。当たられることが多かった母は、私と父が仲良くすると機嫌を損ねることもあった。全ては懐かしい思い出である。去年今年が二年分の振り返りではなく去年から今年に変わる時のことだと岡田史乃が力説していたことは会員の皆さんの記憶に残っているだろう。 スプーンをくもらせてゆく春苺 『弥勒』 私は一人っ子だったせいか、食も細くいつものろのろと食事をしていた。なのでスプーンを凝視することも多く、この句は本当に共感できた。冷蔵庫に入れてあったのか、買った苺は冷たい。それをスプーンで潰そうとしたときに曇っていく瞬間を詠んだのであろう。果物が大好きだったので、私は練乳をかけるのが嫌で手で摘んでいた。しかし、母や祖母は苺には練乳、グレープフルーツには砂糖と必ずスプーンを使っていた。こう書いていると祖母宅でメロンなど色々な果物を出されたあの空間を思い出す。俳句はまさに瞬間を封じ込めるものだと言える。 金魚売突然大きな顔となる 『弥勒』 子ども部屋で金魚を飼っていた記憶があるので、お祭りだけでなく当時の赤坂に来ていた金魚屋さんからも購入していたのかもしれない。私の記憶では軽トラの荷台をお店のようにして風鈴や金魚玉などガラス製品を売りながら、ゆっくり移動していたと思う。「いらっしゃい」と言いながら金魚鉢越しに見てくるおじさんの顔がレンズの効果で大きくなって見えたのだろう。それをこういう十七音にすると恐ろしいような魔法の言葉となって蘇る。こんな句が詠めたらと今でも願う。 人間の子供のやうな芋の露 『ピカソの壺』 『ピカソの壺』が上梓された後に新聞に取り上げて頂いた句である。芋の葉の露は丸くころんとして光を孕む。それを「人間の子供」に喩えたところに作者の手柄がある。簡明な表現ながら、なんとなく嬉しい気持ちにさせてくれる句である。 本書は、初句索引、季語索引付きである。 俳人・岡田史乃の魅力ある俳句に出会える「岡田史乃の百句』となった。 辻村麻乃さま、篠のみなさま、40周年まことにおめでとうございます。 さらに50年60年へむけて、ご健吟・ご発展をお祈り申し上げます。 十五夜に一旦帰京いたします 岡田史乃 今日は仲秋の名月ということで、董振華さんが、月餅をもってご来社くださった。 共同通信発信の新聞にインタビュー記事が掲載されたこともお知らせくださった。 「日中友好に心血注ぐ」という見出しで董さんの写真があり、これまでの刊行書籍4冊の書影がある。 ふらんす堂から上梓した句集『聊楽』 『静涵』とともに『語りたい兜太、伝えたい兜太』、『語りたい龍太、伝えたい龍太』の二冊。いまは「語りたい俳人」と題してのインタビューをいろんな俳人に試みている。いずれ一冊になる予定である。 金子(兜太)さんと黒田(杏子)さんの俳句を翻訳して中国で出版し、自身の句集には中国語訳も載せた。中国や日本の友人たちとの通信句会「聊楽句会」も運営。日中を結ぶその営みは、俳句界で異彩を放つ。「『俳句による日中友好は君にしかできない』という金子先生の言葉を裏切ることはできません」 という記事でしめられている。 董振華さん 実はわたし、今日が仲秋の名月だってこと、知らなかった。 董振華さんからおみやげの「月餅」をいただいて、スタッフのPさんが、「おお、仲秋の名月ですね!」って言って、 おお、そうか!とあらためて。 帰りにはお月さまをみながら帰ろう。 知らなかったわりには、 今日のわたしは、なんというか、 黄色の麻シャツを着ている。 満月にもまけないくらいの黄色なのね。 ちょっとお見せしちゃうわ。。。 あはっ。。。 #
by fragie777
| 2024-09-17 19:22
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9月16日(月) 敬老の日 旧暦8月14日
吹く風の涼しい一日となった。 ご近所を散歩する。 荒地盗人萩(アレチヌスビトハギ) こちらは、ただの(?)盗人萩(ヌスビトハギ) そしてこちらは 多くの人の知るところの 萩(ハギ) いまは萩がきれいである。 萩の花はどこか野趣をひめたつつましさがある。 人のこころに訴える花というより、引き寄せられてしまう花というか。。 昨日9月15日は、深見けん二先生の忌日であった。 2021年9月15日に亡くなられた。 萩に手をふれて昔の如く訪ふ 深見けん二 今日は、深見けん二著『折にふれて』より、「主観を豊かに」の項を紹介したい。 主観を豊かに 虚子先生の昭和二十七年十一月号の「玉藻」に書かれた「雑感(二)」(『俳句への道』所収)の中に、「其人の現れ」という俳話があります。 「客観写生、客観描写といふ事を私はやかましくいふのであるが、客観描写をした俳句であつてもそれは遂に其人を隠すことは出来ないのである。その客観描写が堅実であるといふのは其人が堅実であるからである。」とし、客観描写が、瀟洒、高尚、軽浮、あくどい、俗悪であるのは、其人がそうなのであるとされ、「これが芸術の尊い所以である。」と述べています。更に終りは、「客観描写といふのは客観を描写する為に尊いのではない。その客観描写に依つて其人を現すが為に尊いのである。然らば何故特に客観いふか、これは俳句の性質からいふのである。」としめくくっておられるのです。 青邨先生は、「俳句は人」と言われました。これは、俳句は「私の文学である」と言われたことと表裏をなしています。 両師の俳句の魅力と、その文学としての高さは、お二人の人間の器量の大きさであり、文学的な素養の蓄積です。青邨先生は、俳句では内容と表現が兼ね備わったものが完成した作品であるが、それが出来ぬなら内容の豊富なものが望ましいとまで、昭和三年の講演会で言われ、虚子先生も客観写生の時、常に、主観の涵養、内容の新しさを説き続けられました。 主観を豊かにして、客観写生で主観を滲ませたいものとつくづく思います。 朝顔の一碧を咲きつらねたる 深見けん二 老眼鏡をかけたわが家の猫。。。 #
by fragie777
| 2024-09-16 20:38
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9月15日(日) 旧暦8月13日
今朝の空。 洗濯物を干しながら、ふうっと見とれた。 今日は根津美術館へ行く。 「鈴木其一」の作品を見られるのを楽しみに。。 ひさしぶりで青山の骨董通りをあるく。 ここはブランド店が両側にずらりと並んでいて、見ているだけも楽しい。(足を踏み入れたことはありませんけど) プラダはいつもながらの硝子張り。 通る人が映る壁面。 (へんな恰好して写真を撮っているヤツがいる) 根津美術館が見えてきた。 エントランスは写真スポットになっているらしく、写真を映し合って、そのまま帰っていく人も多い。 根津美術館は、コロナ蔓延下に訪ねて以来である。 あの時は、がらんとしていてほぼ貸し切り状態であったが、 今日はたくさんの人が来ていた。 思うに、外国人観光客が圧倒的におおく、およそ全体の8割くらいはそうだったかもしれない。 庭園をふくめて、観光スポットとして外国人の旅ガイドなどに掲載されているのかもしれない。 多分そう。 何度か来ている根津美術館であるが、こんな混み方ははじめてだった。 そして、展示であるが、なんとお目当ての鈴木其一の作品は「夏秋渓流図屏風」の一点のみ。 がっかりした。 しかも思っていた鈴木其一の作品とは大分ことなる派手派手しいもので、 かつて京都の「細見美術館」でみた「鈴木其一」の作品が記憶にあったので、そういう作品などがたくさん見られるかとおもって肩透かしをくった気分。(情報をちゃんと把握していかなかったのが悪いんですけど) 興味のある方は →「根津美術館」 この一冊を買えたのは、行った意味があったかも。 お昼に青山の「希須林」という中華料理店に入った。 美味しかった。 並ぶのを覚悟すればおすすめです。 #
by fragie777
| 2024-09-15 19:30
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9月14日(土) 旧暦8月12日
萩の花。 古来より詩人たちに愛され詠まれてきた花である。 萩咲いて家賃五円の家に住む 正岡子規 今日は京王プラザにて11時半より俳誌「篠(すず)」創刊40周年のお祝いの会があり、スタッフのPさんが出席。 さきほど報告が入ったが、辻村麻乃主宰の豊かな交流をおもわせるたいへん華やかな会である様子である。 この会の報告はPさんのレポートを待って、あらためて紹介をしたいと思う。 この度、「篠創刊40周年」の記念として、辻村麻乃著『岡田史乃の百句』を上梓された。 この本について紹介をしたい。 「岡田史乃は華やかな存在感のある女(ひと)だった。その華やかさを満たしていたのが大きな悲しみであったことがくきやかに見えてくる。娘辻村麻乃さんの百句読解。生きることは悲しく、そのゆえにこそ美しい、と改めて教えられる史乃さんの句であり、麻乃さんの読みだ。」 高橋睦郎さんの帯文である。 辻村麻乃さんは、百句を丹念に読みながら、そこに俳人岡田史乃を改めて見出しつつ、母・岡田史乃への思いをつのらせる。本書はおおいなる「母恋」の一書でもある。 かなしみの芯とり出して浮いてこい 『浮いてこい』 この句は岡田史乃の代表句といっても過言ではない。『浮いてこい』は、まず表題からしても口語がところどころ使われている。横浜で笹尾家の長女として何不自由なく育てられた史乃は、自宅まで頻繁に通って求婚をした隆彦の熱意に根負けして結婚したという。それが、「砂のような男」隆彦の情熱が冷めて、酒に酔っては帰らない。最終的に虎の門病院分院で治療をしていた隆彦に当時の周りの人間が動いて離婚届を書かされる。のちに二人は後悔して再婚しようとするが、日にちが満たないため税金対策と思われ婚姻届は受理されない。そんな色々のことがあった。体面的には女一人で私を育てていたため、その悲しみは「芯」となって終生残ってしまったのだ。季語である「浮いてこい」に動詞としての意味ももたせた句となっている。 冗談ぢやないわハンケチまちがへて 『弥勒』 この句は、子どもとして母、岡田史乃の句をパラパラと読んだ時に一番印象に残った句である。口語であるからというのもあるが、内容に、である。父と別れてからもまだまだ母は若かったので恋愛もしていたと思う。よって父ではない男性に焼きもちから怒りの感情を吐き出す母親を垣間見た気がして、複雑な気持ちとなった。恋多きSさんという方とのやり取りの中で生まれた一句であろう。『浮いてこい』に「別々に拾ふタクシー花の雨」があるが、気の強い女性の恋愛風景が見えてくる。 冬晴やできばえのよき雲ひとつ 『ぽつぺん』 なんでもない句であるが、それこそ「できばえ」の良い句である。安東次男に師事(兄弟弟子は高橋睦郎氏)し、『浮いてこい』『弥勒』まではその影響が濃かったが、この『ぽつぺん』には「貂」で勉強会を開いていた川崎展宏氏の影響も垣間見られる。というのもその作句信条に表現が平明であることが挙げられていて、この句など正にそれを受けているからである。平仮名表記が効果を発揮して、のびのびとした冬の空が今読む私たちの上にも広がるようである。 昨日会ひ今日も会ひたし娘のショール 『ピカソの壺』 この句は娘の私が一番驚いた。赤坂から我が家のある朝霞のケア施設に入ってもらってからは「近いんだから毎日来い」と言われ、行くと「帰れ」という不機嫌な日(のちに癌が二箇所に転移)もあった。会いたいのは娘たちの方で、私とは思わなかったからだ。あとで本人にこの句のことを聞くと「麻乃のことよ」と。読むと今でも涙を禁じ得ない。 岡田史乃さんは、生前4冊の句集を上梓された。その句集より一句ずつを紹介してみた。 わたしは出版社勤務の編集者時代に第2句集の『弥勒』の出版をお手伝いしたご縁がある。 岡田史乃さんは、なつかしい方である。 出版社にお見えになってはじめてお会いしたとき、その華やかな存在感に圧倒されたことを覚えている。 (わたしなど吹けば飛ぶようなチンピラ編集者でしたもの。。。) 川崎展宏さんが、岡田史乃さんについてわたしにお話してくださったときに、「岡田史乃にはね、〈鉛筆を短くもちて春の風邪〉といういい句があるんだよ」とおっしゃった。それ以降わたしは、岡田史乃さんにお目にかかると「鉛筆の句」が展宏先生のお顔とともに浮かんできたのだった。 その鉛筆の句も、本書に紹介されている。本書で是非に読んで欲しい。 では、本書より「萩の句」を一句。 両側の萩に触れゆく帽子かな 岡田史乃 #
by fragie777
| 2024-09-14 18:52
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