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3月18日(火) 旧暦2月19日
武蔵野に咲いていた辛夷。 今季はじめて見あげた。 この野趣感がすごくいい。 好きな花である。 昨日、京王プラザで行われた俳人協会賞の贈与式について、ご報告をします。 詳しくは、俳人協会のホームページにてご覧いただくのが一番よろしいと思います。 受賞書籍は、以下の通り。 第39回俳人協会評論賞は、小川軽舟著『名句水先案内(角川文化振興財団)、村上喜代子著『大野林火論ー抒情とヒューマニズム』(コールサック社)の二冊。 第39回俳人協会評論新人賞は、中本真人著『新潟医科大学の俳人教授たち』ーブックレット新潟大学82ー (新潟日報メディアネット)の1冊。 受賞者のご挨拶などは、抜粋にて紹介します。 石田郷子氏。 名栗の話をさせていただきたいと思います。『万の枝』の背景になったというか、舞台になった山里なんですね。最近ムーミンのことで脚光を浴びている埼玉県飯能市にあります。そこの旧名栗村、いまは名栗地区と呼ばれています。名栗川というのは入間川の源流になります。幕末に打ち壊しという百姓一揆が起こった村です。なんと、俳句が盛んだったそうで、昭和30年頃までのお堂に奉納してある俳句がいっぱい残っております。水原秋桜子先生、石田波郷先生もいらっしゃっているような縁のある土地だというのは引っ越してから知りました。名栗というといかにも自然に満ちあふれている山里というイメージをもたれると思うのですが、実際にはそんなことはなくて、山が全部杉で覆われている状態なんですね。川も年々細っている、という状況です。そういう環境という問題を目の当たりにして暮らしております。そういう気持ち、危機感を持った気持ちというのを本当は『万の枝』の句の底流に流れているんですが、まだ伝えきれていないだろうなと思っています。これから目指していくとしたら、そういうことを言わなくても感じ取ってもらえるような、そういう俳句を作っていきたいと思っています。 今回、俳人協会賞という大きな重い賞をいただいて、そのような思いをあらたにしております。 谷口智行氏。 山桜の季節になりました。熊野人は「山桜は二度咲く」というふうに信じてきました。早咲きの山桜と遅咲きの山桜がふたつあるとずっと信じてきたんですが、近年、ある学者によって、早咲きの山桜は別種ということ分かりました。熊野桜と命名されています。熊野の人間はそれを聞いたからといって別に驚かない。「ああ、そうなんだな」と。句集のあとがきに「しみじみと、ひたすらに、意味を消す」と書きましたけれど、まさにその通りで、植物学的な意味などどうでもよくて、それが熊野人らしいと僕は思います。そこに文字とか形ではない自然信仰というものがあったとすれば、別種と分かってもそれはかまわない訳です。 今回の受賞は僕にとっても、主宰する運河にとっても喜ばしいことですが、この賞が自分の作品を保証してくれるなんて思っていません。萎縮もしません。変な自信をつけたりもしません。「しみじもと、ひたすらに」それを受け入れていきたい。自分の信条や行動を律してやっていきたいと思います。しみじみと、ひたすらに、俳句の神様に感謝いたします。ありがとうございました。 浅川芳直氏。 僕の句集は欠点だらけの句集であります。今の俳壇的には上手な句、それから何か新しいものがある句というのは、僕らの同世代の中には流れているように思います。みどり女先生の言葉に「下手でも真面目な句」というのがあります。僕も「下手でも真面目」というのを目指しております。 西山睦先生、蓬田紀枝子先生をはじめ「駒草」のいろいろな先人の方々の影響を受けながら学んでおります。欠点だらけの不器用な句集ですが、そういう句集に賞をいただけて嬉しく思います。 新しくなくても古くならない句を作りたいと思います。これからも不器用なんだけれども、誰かの心に響くような俳句を作っていきたいと思います。 桐山太志氏。 賞の選考経過において、『耳梨』については「安定感があって、正攻法は良い」というお褒めの言葉もいただきましたが、反対に「型にはまりすぎてないか?」や「新しみに欠ける」など、という評もいただきました。確かに自分でも自分の作品は硬いな、と思っていますが、先ほども藤本美和子先生からも「型をこれから極めて下さい」という励みになる言葉をいただきました。鷹に入ってから俳句を始めました。基本の型というのが大事な道しるべとして疑わずにまっすぐす進んで来ましたので、それを極めながら幅広い句を詠んでいって懐の深い俳人になりたいな、という贅沢な野望を抱いています。 新人賞というのは期待込みの賞だとお思いますので、これからも精進していきたいと思います。 小川軽舟氏。 今回の『名句水先案内』という本の私的な動機は、さまざまな俳句感によってつくられている多彩な句集を読ませていただいて、その中から私なりに選び鑑賞するということで、自分の選を鍛える。皆さんの胸を借りて武者修行に出たという私的な動機がありました。雑誌の連載を書き進めながらも、この句でいいんだろうか、この解釈でいいんだろうかということを常に思い悩みましたけれど、最後は一読者として、私に喜びを与えてくれる俳句を選び、鑑賞できたつもりでございます。 そういう意味では、取り上げさせていただいたすべての俳句、作者の皆様に心から感謝を申し上げたいと思います。おそらく、書いてある内容には突っ込み処が満載だと思いますが、突っ込んでいただくことによって、2010年以降の俳句が更に鍛えられ、深まっていくんだと思います。その契機になる本ということで、ご評価いただけたんであれば、それに勝る喜びはございません。 本当に大きな賞をいただきまして、ありがとうございました。心から御礼申し上げます。 村上喜代子氏。 私は林火の晩年の弟子です。6年間師事していましたが、地方に住んでいたため、直接な指導も受けておりませんが、たった6年ですが、林火との機縁を感じます。 林火は根っからの詩人でした。臼田亜浪に師事したことで、誠の精神を学びました。 いつも「まことまこと」と言っていました。それから虚子を研究することによって、句に骨格を与えたんですね。そしてさらに芭蕉の軽みを目指した人、というふうに私は理解しております。俳句や俳壇に新風を吹き込んだひとでもあります。 林火に出会えたことは本当に幸運なことだったと思います。 中本真人氏。 現在の新潟大学医学部にあたります、旧制新潟医科大学で教授をつとめた俳人達、中田みづほ、高野素十、浜口今夜、及川仙石を中心に師の高浜虚子との関わりなどをまとめました。高野素十の俳句の業績につきましては、あらためて申し上げるまでもないかと思います。新潟医科大学におきまして、素十は法医学教室教授を務め、戦後は短期間ですが学長も務めました。中田みづほは、「まはぎ」を通して長きに亘り新潟の俳句界を指導しただけではなく、特に脳外科の分野で先駆的な業績を上げました。浜口今夜と及川仙石につきましては、素十の瑞穂の同僚として、その理解者としてその活躍を支えました。本年は中田みづほ没後50年にあたります。そのような年にみづほについて書かれた拙著が賞を受けることになりましたことは、非常に意義深いことと思っております。今回の受賞を励みとして、文章はもちろんのこと、実作にも一層努力したいと考えております。 受賞者の皆さま。 俳人協会賞のご受賞おめでとうございます。 こころよりお祝いをもうしあげます。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() #
by fragie777
| 2025-03-18 18:24
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3月17日(月) 旧暦2月18日
雑木林のなかに一輪のみ咲いていた椿。 こんな風に。 ひとつだけ見つけたときは、きっうれしくなる。 嬉しいお知らせがひとる。 中村和弘句集『荊棘(おどろ)』が、第17会小野市詩歌文学賞を受賞。 第40回詩歌文学館賞とのダブル受賞である。 中村和弘さま。 ダブル受賞のご受賞おめでとうございます。 こころからお祝いをもうしあげます。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() なおこの小野市詩歌文学賞の短歌部門では、黒木三千代歌集『草の譜』(砂子屋書房)が受賞。 黒木三千代さま。 おめでとうございます。 こころからお祝いを申し上げます。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 今日は午後3時より、京王プラザホテルにて、俳人協会賞の授与式があり出席する。 たった今戻ったところである。 ふらんす堂からは、スタッフのpさんと文己さんが一緒に出席。 たくさんの俳人の方にお目にかかったのだった。 このレポートは明日あらためてこのブログで紹介したいと思う。 いまは、家にかえってわたしはアイスクリームを食べながらこのブログを書いている。 アイスクリームの冷たさが疲れた身体にはとてもいいのである。 美味いなあ。 ひとつだけちょっと笑ってしまうようなことが。 あるご高齢の俳人の方とお話をしていて、 「ところで、お母さん、まだお元気?」ってわたしに聞かれる。 「えっ!」と返事に窮していると、 「お名前はなんといったかな、yamaoka kimikoさんだったかな」と。 「あらまっ、それってわたしなんですけど」ってお答えしたところ、 その先生、一瞬絶句され、 「ええ、あなたが、、」とさらに驚かれた。 「はい、私です」 「本当に、、」と目を丸くされる。 (いくらR女だって、いったいどれほどのR女と思っておられたのかしらん) 喜んでいいのか、がっくりしていいのか、ちょっといや、かなり複雑な気持ち。 そのお方は超真面目でおっしゃったことだけはもうしあげておきたい。 イカレタR女かもしれないけれど、 まだまだ元気なyamaokaなのである。 ![]() #
by fragie777
| 2025-03-17 22:57
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3月16日(日) 旧暦2月17日
昨日の野遊び。 木瓜が咲いていた。 近くには赤い木瓜も。 行く先々にカルガモがいた。 カルガモの雄と雌だとおもうのだけど、どちらが雄でどちらが雌かわかります? カルガモはほかの鴨たちに比べて、雌雄がとてもわかりにくいんですって。 たぶん、右が雄で左が雌。尾羽の色が濃くてはっきりしているのが雄らしい。雌のほうが全体に淡いとも。 すぐにわかっちゃう方がいたら、 ほめてさしあげます。 ![]() ちょっと見ただけではわからないということ。 う~む。 たしかに。 今日の朝日新聞の「風信」に、田島健一著『平成の一句』が紹介されている。 1月1日の「元日やまつさらの空賜ひたる」(桂信子)から12月31日の「除夜の鐘僧の反り身を月光に」(山田弘子)まで、1日につき1句、1年分の365句を紹介。 今日は、ブログを家で書いているのだけど、あたらしいパソコンのWindows11に向かっている。かなり勝手がちがうこともあって、たとえば、FnとCtrl キーの位置が変わって、Ctrl キーを打ったつもりが、Fnキーを打ってしまってえらいこっちゃ現象となり大慌てをしたりする。コピーしたものが消えちゃったりして、もう慣れるまでたいへん。 ということで、写真をとりこむことからはじまって、難儀をしてしまった。なんせ、R女だからね。 やれやれ。😥 実はこの3月に家を引っ越します。 ということで、その引っ越しの準備もあったりして、わたしはたいしたことはしないのだけど、もうヘトヘト。 ![]() 今日ははやく寝ることにします。 昨日の野遊びは寒かったけど、でもいい気持ちだった。 友人たちははるか先へ、 いつも、そう。 #
by fragie777
| 2025-03-16 21:19
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3月15日(土) 菜虫化蝶(なむしちょうとなる) 旧暦2月16日
ぺんぺん草が咲きあふれる武蔵野で半日を過ごす。 セグロセキレイもやってきた。 今日は昨日とはうってかわって春寒の一日となった。 寒いのであるが、あたりを見回せば春色にみちている。 迎春花も咲いていた。 今日は夕方より、深見けん二氏の奥さま・龍子(りょうこ)夫人のお通夜に伺う。 場所は、所沢にある昌平寺である。 冷たい雨がふりしきる夜となった。 龍子夫人にはいつもあたたかく見守っていただいた。 享年91歳 会場には、ふらんす堂より上梓された龍子夫人のエッセイ集『ある日箱の中から』が飾られていた。 甲野未央というペンネームで、俳誌「屋根」(斎藤夏風主宰)に連載をされていたものを一冊にしたものである。 ご本人の生い立ちや深見けん二先生のこと、こ家族のことなどが生き生きと語られている。 わたしが本をみていると、ご子息の深見俊一氏がいらっしゃって 「yamaokaさん、この本を母からもらったとき、こんな手紙がそえてあったのです」とおっしゃって、本をひらいてその手紙をみせてくださった。 やったぜ! おしゃれなクリスマス・サプライズ! 魔女の好みの本が出来ました 皆さんで読んでください 家族も登場します。 龍子 「母らしいでしょ」と俊一氏。 茶目っ気があって可愛らしいお方だった。 会場には、深見けん二先生やご家族のとの写真がかざられ、そこに深見先生が龍子夫人を詠んだ色紙が並べられていた。 春の風邪心の風邪と妻はいふ けん二 衰へる妻傍らに雛祭 けん二 この色紙を眺めていると、 「yamaokaさん」と声をかけられた。 深見先生、龍子夫人が亡くなるまでお世話になった介護施設「もみの木」の高木オーナーである。 ご夫妻が全幅の信頼をおいていた方である。 「龍子夫人にとって、三月三日は特別な日だったんですよ」と。 龍子夫人は、ふらんす堂の創立日(3月3日)を覚えていてくださってこの日には毎年かならずお祝いを送ってくださっていたのだった。 「もうお気をつかわないでくださいませ、恐縮してしまいます」とご子息の俊一氏に申し上げたのであるが、 「母がそうしたいと思っているのですから、母の好きなようにさせてください」というお返事だった。 そして、今年の3月3日はお便りがなかった。 その3月3日に龍子夫人は亡くなられたのだった。 わたしは思わず涙がこぼれたのだった。 あらためて、深見先生ご夫妻のあたたかな思いをいましみじみとかみしめている。 龍子さま たくさんたくさんの応援とお気持ちをいただきました。 心より感謝しております。 深見けん二先生は、首をながくして龍子夫人を待っておられることでしょう。 どうぞ、けん二先生によろしくお伝えくださいませ。 yamaokaが言葉にならないほど感謝もうしあげていると。 ご冥福をこころよりお祈り申し上げます。 #
by fragie777
| 2025-03-15 22:30
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3月14日(金) 旧暦2月15日
桐朋学園の寒緋桜。 ![]() ひと目をひく華やかさである。 午後4時になると、わたしのパソコンは急遽動きがにぶくなる。 毎日である。 いま原因をさぐるべく、スタッフがいろいろと見てくれたが、原因となるものはわかるようだが、うかつに消すこともできない。 ということで、やはりキャノンさんに診断をしてもらうことに。 パソコンはすでに古くなっており、そろそろ交換時期にも来ているらしい。 経費がかさむし頭の痛いことである。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装おびあり 208頁 二句組 著者の山田喜美(やまだきみ)さんば、昨年の6月1日に84歳で亡くなられている。本句集は遺句集となる。昭和15年(1940)岡山市生まれ、昭和55年(1980)3月「鷹」に入会、藤田湘子、小川軽舟、後藤綾子に師事。昭和62年(1977)「鷹」同人。現代俳句協会会員、俳人協会会員。大学を卒業してより、昭和44年(1969)で退職をされるまで教育者として歩んでこられた方である。 本句集は、ふたりのご息女(小李花さん、愛理さん)が、句集刊行をのぞむお母さまのために編んだものである。1冊になるあたっては、小川軽舟主宰、辻内京子さんのご尽力よるところが大きいと「あとがき」に記されている。 序文は、軽舟主宰が山田喜美さんへの思いをこめて書かれたものである。「千里遙望」という句集名も軽舟主宰がつけた。 山田喜美さんの俳句は阿(おもね)るところがない。これが喜美さんの俳句をずっと読んできた私の一貫した印象である。 という書きだしではじまる序文を抜粋して紹介をしたい。 散る桜海に届かず殯(かりもがり) この句は、東日本大震災の起きた二〇一一年の春に投句された。 殯は火葬の風習が広まる前の古代の葬送の儀式である。遺体をすぐには埋葬せず、棺に納めてしばらく安置した。この句の場合は、葬式までを死者と過ごす数日のことなのだろう。死者を悼む思いが厳粛な心の風景として描かれていると感じた。 しかし、私はここで鑑賞を終えることができなかった。津波の災禍が連日報道されていた時期である。火葬が間に合わず、遺体を土葬にしていると聞くと、そのことがこの句の殯と重なり、海まで続く津波の痕の泥濘に散る桜が思われた。そこまで書きながら、喜美さんは関西の人だから、これは私の勝手な思い入れだとは承知しているつもりだった。 ところが後日、喜美さんの短いエッセイが関西支部報に載った。喜美さんは阪神・淡路大震災のとき、ドライアイスを抱いて体育館で何日も火葬を待つ死者に胸が塞がったが、とても俳句には出来なかった。それが東北では土葬されたと聞いて心が休まった。神戸の体育館で浮かんだ殯の言葉が、今度の地震でこの句に甦ったのだ、と書いてあった。 そこまで深い背景のある思いを、喜美さんはたった五七五の言葉の力を信じて俳句に託した。そして、その思いは、散文で事情を記すのとは違う何かを確かに伝えて、私に感動をもたらした。俳句の作者と読者は、このように心を通じ合えるのかと驚かされた。これはひとえに、喜美さんが何者にも阿ることなく、自分の思いを俳句に表すことに真摯に努めてきたからだろう。 この句との出会いを、軽舟主宰は「『鷹』の選者をしてきた中でも」「忘れられない経験だった」と記している。 本句集の担当は、Pさんである。 「お母様のためにお嬢様おふたりがこころをこめて作られました。 装幀で使用した想画は喜美さまのお姉様がデザインしたテキスタイルです。喜美さまへの愛情のつまった一冊です。」とPさん。 冬野なりふりむけば墓ざわめきぬ 春の雲広き川幅悲しめり 十の指ひろげて秋の風通す 涼風や神戸は西へ長かりき 白露の欠けたる玉のなかりけり 月涼し漣われに集まり来 裸木の名を失ひて立てりけり 露草や混みて静かな精神科 冬野なりふりむけば墓ざわめきぬ 「墓ざわめきぬ」という措辞にドキッとする。茫漠として色を失った冬の景色のなかにいる。突如ふりむいたところは墓場だ。深閑としているかと思えば、墓がざわめいたというのだ。いったい、、、これは作者が一瞬にして感知したざわめきか。死者の声か、あるい墓石そのものが動いてたてる音か(そんなこともあり得る)、この一句のおもしろさは、ひとえに「ざわめき」という言葉にあると思った。音でもあり、空気が揺れ動く運動でもあり、得体のしれないものが立ち騒ぐような気配でも有り、作者の心象のざわめきでもあるようなさまざまな動きや音や気配を思い起こさせる。正面からざわめきに真向かっていないぶん、背が感知するものは侮れない。 白露の欠けたる玉のなかりけり この句については、軽舟主宰が序文でもとりあげている。「白露の句も写生ではない。欠けた露というあり得ないものを思うことで、すべての露が円らに存在する世界が感動をもって現れる。」と。もうこの鑑賞で充分であると思う。この句、とても当たり前のことを叙しているようであるが、「すべての露が円らに存在する世界が感動をもって現れる」と鑑賞されることによって、白露という微少なるものが、果てなき宇宙の気息へと照応しているかのように読み手の心をゆたかにひろげてくれる。鑑賞の力によって読み解かれたものでもあるが、当たり前のことをシンプルに詠んでいるようで森羅万象の真実へと導いてくれるのは、俳句の定型の力でもあると思う。 露草や混みて静かな精神科 わたしも立ち止まった句である。「混みて静かな」という措辞は、「露草」でもあって「精神科」でもあるのだろう。上五中七は、露草を詠みとめていることとして安らかにうけとめられるが、「精神科」という言葉によって心がざわつき不安定になる。心の医療ケアとしての精神科、心を病んだ人たちが治療をもとめてやってきている。「混みて」というのだから、たくさんの患者さんがいるのである。しかし、「静か」である。この沈黙の静けさが、心の病を圧しているように思われ、息づまるような感じを読み手にあたえる。そのかたわらに、混み合って静かに咲いている露草の色がひそやかに心にとまるのだ。 海に魚空気に私春夕 これはわたしが面白いと思った句である。「海に魚空気に私」って、まあ当たり前のことかもしれない。「魚に海が必要なように私には空気が必要」と散文化してしまえばなんとも陳腐な一節となる。しかし、定型の枠内にまことに素っ気なく言い置いてみると、この開き直り方がとてもいい。しかし、こんな当たり前のことをあえて俳句にしようなんて、まさに春の夕べであるからこそ。身体もくつろぎはじめゆるんでくる、気持ちもおだやかに解き放たれていく。「ひとつ、魚と私のことを考えて見よう」なんて作者は思ったかもしれない。ちょっと人を喰ったようであるが、春の夕べをゆっくりと楽しんでいる人間がみえてくる。わるくないなあ。唐突かもしれないが、田中裕明さんのわたしの好きな句「春の海魚と鳥と寝るならば」を思い出したりしたのだった。 集めたる木の実に用のなかりけり この句もおもしろい。「木の実」が季語であるが、木の実をこんな風につれなく詠んだ句はめずらしい。多くの俳句は「木の実」という季題に対して心を寄せて詠むのがおおい。こう詠まれてみるとたしかに夢中に拾い集めた木の実であるが、これを食するわけにもいかず、とりたてて何かの用にたてられるものでもない。木の実木の実といって夢中で拾いあつめてしまったけれど、いったい、これらをどうするの、と手の中で溢れている木の実にため息をついてうんざり顔。小川軽舟主宰が、山田喜美さんのことを「阿(おもね)ない人」と序文で書かれていたが、そう、どんぐりというかわいい木の実にも阿ない人なのだ。この先、木の実をひろったあとに口をついて出て来そうな一句である。 校正スタッフのみおさんは、〈雨粒にいちいち応ふ春の水〉「いちいち」が何とも言えず春らしくて水なのにかわいい!」と。 母・山田喜美が句集を出したいと言い出したのは、闘病の末、母と同居していた妹愛理が、主治医よりホスピスか在宅医療かと問われ、自宅へ戻すことを決め、母が病院から家へ戻って来て間もなくのことでした。 句集完成にはとても間に合わないけれど、母を少しでも喜ばしたい一心で、妹が「鷹」同人の辻内京子さまにお願いをし、辻内さまに大変なご尽力を頂き、句集作成を進めました。 病状としては末期でしたが、母の感性と俳句愛は、全く衰えていませんでした。 これが、母が俳句の話をした最後となりました。 このような貴重な時間を与えて下さり、軽舟先生と辻内さまには感謝してもしきれません。 ご息女・山田小李花さんの「あとがき」を抜粋して紹介した。 小李花さんは、お母さまの喜美さんがメモ書きに書いた李白の詩、「下江陵」を紹介し、 軽舟先生が、ご自身の俳号の由来がこの李白の漢詩にあると書かれていた文章を読み、母が書いたものでした。 母が若い頃から李白、杜甫を敬愛していたことは、私達が幼い頃よりたびたび聞かされていました。 軽舟先生がつけて下さったタイトル「千里遥望」と繋がった瞬間でした。 「千里」は、私達家族が長く暮らした千里ニュータウンの千里であり、李白の漢詩の世界の「遥かなる千里」でもあります。 母は、天国でどんなにか誇りに思い、喜んでいることでしょう。 編集作業上の連絡は主に愛理さん。このようにして、本句集は、ふたりのご息女のお力によって上梓されたものである。 装釘は君嶋真理子さん。 喜美さんのお姉さまのデザインされたテキスタイルを用いて君嶋さんが装釘した。 渋いけれど深みのあるデザインである。 枠内は白抜きではなく薄く緑をひいてある。 表紙。 螢追ひ肘雫せるこの世かな 「千里遥望」の句集名は、喜美さんが心血を注いだ千里山教室の地を遥かに望んで贈る私の惜別の言葉である。思えば喜美さんは、自分自身に拘りながら、その自分を超えるべく千里先を遥かに望んで俳句を探求する人であった。(小川軽舟/序) 今回、お言葉はいただけなかったが、生前のお写真を送っていただいた。 山田喜美さん。 お会いしたかった!!です。 #
by fragie777
| 2025-03-14 19:37
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