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10月8日(火) 旧暦9月6日
今日は雨降りだったけれど、あえて歩いて仕事場へ。 二つの選択肢がある場合、わたしは楽でない方を選ぶことにしている。(エッヘン) というのは、真っ赤な嘘で、いつも楽な方ばかりをえらんでしまうのね。 あえてシンドイ方をえらぶこともまま気が向けばあるけど、めったにない。 今日は、きっと気が向いたんだろう。。。 雨雫の美しさにしばしウットリ。(歩くとこういう良きこともある) 仕事場についたときはすぶ濡れ。 仕事場ではバランスボールに空気を入れた。 ちょっとへたった感じだったのだけれど、空気をいれたらけっこうシャンとした。 (yamaokaも頑張れよな…)ってピョンと乗って自分に気合いをいれる。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯有り 226頁 二句組 著者の遠藤勲(えんどう・いさお)さんは、1940年東京台東区生まれ、現在は国分寺市在住。工学博士でいらっしゃって立派な略歴をお持ちの方であるが、ここでは、句歴を紹介したい。2008年6月「天為」(有馬朗人主宰)東京例会に入会、2012年4月学士会「草樹会」入会、2013年9月「天為」同人。2021年「天晴」(津久井紀代代表)入会。現在「天晴れ」同人。本句集は第1句集であり、津久井紀代代表が序文を寄せている。抜粋して紹介したい。 フレームの中でくつろぐ冬の蝶 遠藤さんの代表句である。 この中には遠藤さんのすべてが描かれていると思う。 冬の蝶はさしずめ遠藤さん自身であろう。「くつろぐ」という措辞には来し方の「思い」がいっぱい詰まっているのである。(略) 『助六』は遠藤勲さんの第一句集である。二〇〇八年から二〇二四年までの三百八十五句が収められている。(略) 遠藤さんは浅草生まれ、浅草育ちの江戸っ子である。 どこか粋で、スマートで、紳士で、「男に二言なし」というタイプである。それでいてどこか人懐っこくて、朗らかで頓智が面白くて、我々の句会を盛り上げてくれている。 友達と集ふ浅草花満開 浅草や人の壁なす酉の市 熊手市屋台に匂ふアセチレン 羽子板の助六がゆく花川戸 題名を「助六」としたことも宜なるかなである。遠藤さんの俳句には一貫してこの幼年期を過ごした下町の風景が根っこにある。 俳句をはじめられたのは、有馬朗人氏との出会いによるものであり、有馬氏にすすめられ、その「天為」の句会で津久井紀代氏とお会いし、現在は「天晴」で学ばれておられる遠藤勲さんである。 本句集の担当は文己さん。 道草をすぐに覚えて新入生 風船を持ちて寝る子の重さかな 海老天をさくと食べれば天高し 豆撒きの声が街角まがりけり 道草をすぐに覚えて新入生 序文で津久井紀代代表も触れている一句である。「子供の句に佳句が多い」と書かれ、その一句にあげている。この「新入生」は多分小学生だろうか、ランドセルを背負ってあれこれとダラダラ歩きながら、面白いことへ興味津々である。しかし、こんな光景が詠めるのは平和な社会であるからこそ、犯罪が多い国などは、学校までの送り迎えを親が車でする。少子化へと向かっている日本においても、こういう長閑な風景は失われていくのかもしれない。子どもたちが道草しながら冒険ができる世の中ではありたいと思う。道草といえば、わたしは小学校のとき、途上にある農業高校へ寄って、豚や羊の子どもたちを眺め給食のパンの残りをやったりした覚えがある。すごい匂いがして、いまでも甦ってくるくらい。新入生ならずとも「道草」っていろんな局面で素敵だとわたしは思う。今朝、わたしも雨粒をうっとり眺めたりして道草をしたわ。効率ばかりを最優先したら、息苦しくなってしまう。そうは思いません? 海老天をさくと食べれば天高し とても気持ちの良い句。そしてなんて美味しそうな「海老天」なんだろう。この句にふれて「海老天」を食べたくなった。この「さく」という音、衣がからっと揚がって、海老本体はプチッと歯ごたえがあって、噛みしめればほんわか甘い、ああ、美味しそう。「天高し」の季語、「海老天」の「天」と「天高し」の天が一句に効果的に響き、「天高し」が飲食のいとなみを清々しく祝福してくれるようだ。 呟ける妻の背中や春浅し 序文で、「遠藤さんの俳句には家族を詠んだものが多い。特に奥さんを詠んだ句には愛情あふれるものがある」と書かれていて、掲句は〈夏来る糊のききたる割烹着〉〈秋めくやハミング聴こゆる厨かな〉などの句とともにあげておられるなかの一句。掲句は妻を見る視線が面白い。背中が呟いているというのである。呟きの内容ははっきりとは聞き取れない。しかし、呟いていることは背中が語っている。「春浅し」の季節ゆえに、妻のつぶやきもうちに籠もったようにきこえて来る。もう少し暖かくなったら、きっと妻はこちらを向いて、晴れやかに話しかけてくるかもしれない、それを待とう。そんな感触を思う一句だ。 鬼やんま中央線と競ひけり 面白い一句である。中央線は東京駅から出発して新宿をとおり八王子方面へ向かう電車だ。快速や特別快速しかない高速の電車である。その電車と速さを競うとしたら、これはもう鬼やんましかいないだろう。誰も異論を挟めない。この一句は、「鬼やんま」へのオマージュでもある。そして実景でもあるのだろう。中央線と競っているヤンマを見たのだ。「中央線」と具体的な線名を詠み込んだことによって更に効果的になった。「中央線」を知らない人もいるって? 知らなくっても、「中央線」よ、中央をつっぱしる電車である。速いことまちがいなし。鬼やんまに選ばれた中央線は光栄である。 綿虫を煙のやうに吐く民家 「綿虫」をこんな風に詠んだ句は知らない。たくさんの綿虫が飛んでいたのだろう。自然豊かなところにある民家だろうか。「煙のやうに」が面白い。綿虫であればこそわかるけれど、いやなかなかこんな風景にはお目にかからないかもしれないが、実景として納得できる一句だ。「民家」から煙のように吐かれる「綿虫」を一度見てみたいと思う。「綿虫」という季語の枠をひろげた一句とも。 スタッフの幸香さんは、〈天辺に巣のあるらしき大欅〉に特に惹かれました。 俳句を始めてから十六年が経った。有馬朗人先生が武蔵大学学園長でいらっしゃった時、先生のご推挙により二〇〇三年から五年間埼玉県産業技術総合センターの総長を務めた。 退官の折、ご挨拶に伺ったところ俳句を勧められ、俳句の道に入った。 早速、有馬先生主宰の「天為」に入り、先生の元でひたすら俳句道に邁進し、その後同人になった。 理系の学徒であった小生にとって、俳句は難解であり奥深いと感じた。ともあれ小西甚一著『俳句の世界』、加藤楸邨著『芭蕉全句』、尾形仂著『芭蕉・蕪村』等を乱読した。句会の先輩である荒尾保一氏の勧めで学士会「草樹会」に入会した。その後、有馬先生が逝去され、津久井紀代先生が主宰された「天晴」に加入した。 句集題「助六」は、好きな歌舞伎の演目であること、浅草で助六の屋号を受け継いでいる中学の同級生がいたことによるものである。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装釘は君嶋真理子さん。 装画は、遠藤さんのお孫さんの今村友音さんと娘さんの今村香里さんのお二人による合作のもの。 なんとも楽しい装画である。 余談であるが、俳人の大木あまりさんが電話をくださって、この「助六」をとても気に入ったということ。 「悪ガキみたいでさ、わたしこういう子どもがほしかったのよ」とあまりさん。 思わず大笑いをしてしまった。 表紙にも。 扉。 げに我は逃げ水を追ふ漢かな 滑稽句の代表である。 どこかおかしくてどこかまじめで、正直で、どこか泣けてくる、それが遠藤さんなのである。(津久井紀代/序) 遠藤勲さん。津久井紀代代表(後列右)、遠藤侑子夫人。 ことしの6月26日にご来社のときのもの。 遠藤勲さま 第一句集のご上梓おめでとうございます。 ご家族の方々の御協力によって、素敵な1冊となりました。 更なるご健勝を、そしてご健吟をお祈り申し上げております。 たたら踏み光の春を待ちにけり 遠藤 勲 #
by fragie777
| 2024-10-08 20:25
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10月7日(月) 旧暦9月5日
露草。 矢川緑地にて。 しっかり雨に濡れていた。 岩田奎著『田中裕明の百句』の再版が決まった。 こちらはかなり冊数を(ふらんす堂としては思い切って)作ったのだが、コンスタントに売れている。 Amazonの売りが途中から反映できなくなってしまったのが、なんとも無念なのだが、 それでもいろんな形で注文を貰っている。 電子書籍でも販売することにした。 優れた鑑賞の1冊である。 執筆者の岩田奎さんのお力と、海亀のちからか。。。 そして田中裕明さんの俳句の魅力のゆえか。。。。 まだ在庫がいくらかあるので、初版本にこだわる方はお早めにご注文を。 新聞記事を紹介したい。 9月30日づけの宮崎日日新聞では、伊藤一彦著『若山牧水の百首』が、岩波文庫版の『若山牧水歌集』(伊藤一彦編)とともに写真入りで紹介されている。 岩波文庫版については、紙の本が売れない現在、毎年版を重ねているという。 『若山牧水の百首』については、「名歌から未発表作までを紹介」と題して、「奥深い叙情性あふれる」とある。 抜粋して紹介したい。 (略)〈白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ〉などの代表作の他、これまで取り上げられる機会が少なかった〈だんだんにからだちぢまり大ぞらの星も恋より降り来るごとし〉などの秀歌も選出。 また、最後の100首目は、2018年に発見された歌集未収録作で、調べと内容の良さが際立つ名歌(略)で締めくくっている。 伊藤さんは、「100首目の未発表作品は特に絶品。牧水の豊かな人生に触れてほしい」と話していた。 とあり、この未収録作品については、紹介してあるのだが、あえてここではナイショにしておきたい。 興味のある方は、この名歌にふれるため是非にお買い上げいただきたい。 10月5日づけの毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、綾部仁喜句集『樸簡』より。 新米の袋の口をのぞきけり 綾部仁喜 坪内さんの家では、新米を炊くとまずおにぎりをつくられるとか。想像しただけで美味しそう。わたしも昨日はおにぎりのお弁当をもって出かけた。自分でつくったのではなくて、仙川商店街にある「てしま」さんのおにぎりである。テレビ取材もよくあるおいしいおにぎりをつくる店だ。 お昼もよくここのおにぎりを買う、たいてい一箇。しかし昨日は二個、唐揚げ、玉子焼きが一個づつつくやつを買った。そしたらちょっともてあまし気味だった。おにぎりは最近一個で充分になってしまった。 綾部仁喜句集『樸簡』はとうに品切れであるが、目下『綾部仁喜全句集』を、「泉」の藤本美和子さんのお力をかりて営為編集中である。 刊行まで、もう少しのところまで来たという感触。 今日の讀賣新聞の「枝折」では、岡田一実著『篠原梵の百句』が紹介されている。 『人間探求派」の一人として活躍した篠原梵(1910~75年)の100句を収める。物事や情感を簡潔な象徴や解釈で捉え、新たな地平を切り開いた。〈影が斜めに横に斜めに独楽とまる〉 先週末、成城で時間をすごしたのであるが、ここには気に入っている文房具屋&雑貨屋さんがある。 必ず立ち寄ることにしている。 文房具って好きだ。 買わなくてもいろんな文房具を見ているだけでもたのしい。 が、 買ってしまった。 二つ。 その一つを紹介したい。 一見、ボールペンのようう。 細かな英語で書かれた説明書きが乱暴に捲かれており、よく判読できなかった。 しかし、売れているのである。のこり3本。 値段は1350円とペンにしては高め。 購入することに。(こういうとこが、まことにミーハー) サインペンのようであるが、インクは白。 しろい紙にその白のインクで書いてみた。 このペン、 頭の先がライトになっている。 で 書いた紙を照らしてみた。 こんな感じ、 なんか浮き出てくる! さっき書いた文字が浮き出たのだった! これはすごい。 スタッフに公開した。 秘密文書をつくるのにいいかも。 なんだかゾクゾクワクワクする。 このペン、スタッフに配ってヒミツを取り交わそうか、、、 しかし、気づいたのだ、 ヒミツにすることがないなあ。。。 って。 もう一つの文房具については、「ふらんす堂通信」のコラムで紹介する予定。 #
by fragie777
| 2024-10-07 18:35
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10月6日(日) 旧暦9月4日
国立・矢川緑地をあるく。 (今日はケムシをアップします。ケムシ嫌いな方は、これ以上見ないでください。) 芙蓉が相変わらず綺麗だった。 白芙蓉。 ピンク色も定番である。 芙蓉の葉にいたケムシ。 フタトガリコガヤの幼虫。 綺麗な色をしている。 そして、 ひゃ、これもケムシ。 ちょっと不気味。 エビガラスズメの幼虫。 グロテスクな蛾なのだけど、可愛いなんていって手に止まらせている人もいる。 芙蓉の傍に咲いていた朝顔。 小ぶりで清楚である。 いい色をしている。 朝顔って色でずいぶんと印象が代わってくる。 こんなにいろんな色を持っている花もめずらしい。 このあと行った湿原は、秋草が生い茂り、露草と溝蕎麦が一面に咲きあふれていた。 今日は、奥坂まや著『鳥獣の一句』より今日の日付の句。 百舌に顔切られて今日が始まるか 西東三鬼 朝早くに家を出たとたん、百舌の高音が耳を打った。一身を賭して縄張りを守ろうとする鳴き声には、鬼気迫るものを感じることがある。作者は心に何か屈託をかかえていたのだろう。百舌の猛り声に、一挙に存在を切り捨てられるような思いがしたに違いない。カラッポになってしまった自分を引きずって、それでも今日一日、生きていかなければならない。朝はまだ始まったばかりだ。(『夜の桃』)季語=鵙(秋) 先日、百舌鳥の雛鳥をみたが、今日は目白の群れをみた。 涼しくなって、鳥たちも元気がでたようだ、 秋の森。 #
by fragie777
| 2024-10-06 20:53
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10月5日(土) 旧暦9月3日
家の前の畑に咲いていた白曼殊沙華。 雨に濡れて華やかである。 毎年咲くのであるが、年々その数を増している。 成城に出る用事があって、お昼に人気店の中華飯店で醤油ラーメンを食べる。 なつかしい味の醤油ラーメン。 本当に久しぶりにラーメンを食べながら、モデルの富永愛さんは、一年に一度しかラーメンを食べない、と言っていたことを思い出す。 わたしは今年に入って二度目か。。。 (富永愛さんと張り合ってどうする!?) いやいや、彼女のストイックさに学びたいのだ。 そう言ってるはなから、 成城飯店に隣接するやはり人気店の洋菓子屋にはいる。 一瞬逡巡したが、やばり食欲の秋である。 栗をつかった「ガトー・アルプス」とホットコーヒーを頼む。 このケーキ、すこぶる美味かった。 今日のカロリー計算をしたら、かなりヤバイと思う。 まあ。いいわ。 「田中裕明賞」の授賞式も終わったことだし。。。(関係あるのか! いや、あるのよ。ほんとうにホッとしている) ひさしぶりにゆったりした気持ち。 今日は、髙柳克弘著『蕉門の一句』より、今日付の句。 野の露によごれし足を洗けり 杉 風 元禄二年中秋、友人と隅田川沿いに遊んだ折の句。草葉に結んですぐに消えてしまう「露」の伝統的な本意は、なんといっても無常の思いにあり、『俳諧雅楽集』にも「哀なるこゝろ 消安き心」とあるとおり、それは俳諧においても変わらなかった。杉風の句では、野遊びの足を汚すものとして、実感に即した「露」が詠まれている。たとえば百人一首で有名な「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣手は露に濡れつつ 天智天皇」の歌のように「露に濡れる」という表現は多々あるが、「露に汚れる」といったのは新しい。(『角田川紀行』)季語=露(秋) この句、わたしの好きな一句である。野の露に足をよごすのは、昔も今もかわらないのね。 この句から立ち上がってくる景にこころひかれるものがある。 萩がかかえている露の玉をどうにか写したかったのだが。。。。 きれいよね。 #
by fragie777
| 2024-10-05 21:08
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10月4日(金) 旧暦9月2日
秋蝶。 今日は高野素十の忌日である。 昨日は飯田蛇笏だった。 日原傳著『素十の一句』より今日の日付のものを紹介したい。 蟷螂(とうろう)のとぶ蟷螂をうしろに見 高野素十 「芹」所収昭和五十一年八月号 今日は素十の忌日。昭和五十一年十月四日早朝に神奈川県相模原市の自宅で亡くなった。享年八十三。掲句は素十の絶句とされる。「とぶ」を前の蟷螂の動作ととるか、後の蟷螂の動作ととるかで読みが分かれるが、前者とするのが素直な解釈であろう。蟷螂は飛ぶのは上手くない。翅を広げて短い距離をふわりと飛ぶのみ。句の後半は飛ぶ蟷螂に成り変わって後方を見ているような感じがする。絶句の末尾が「見」の字であるとは、写生を信条とした素十の俳句人生を象徴するところがある。季語=蟷螂(秋) 写生に徹し、写生の句で生涯をとじた俳人だった。 新刊紹介をしたい。 46判ペーパバックスタイル 212頁 二句組 藤井あかり(ふじい・あかり)さんは、1980年神奈川県うまれ。2008年「椋」入会。石田郷子に師事。2010年第1回椋年間賞受賞。2015年第5回北斗賞受賞。第1句集『封緘』(文学の森刊)上梓。2016年、『封緘』により第39回俳人協会新人賞受賞。本句集は第2句集となり、「椋」の石田郷子代表が序句を寄せている。 さやけさの風の扉を押しにけり 郷 子 句集名となった「メゾティント」とは、百科事典マイペディアによると、 銅版画技法の一つ。凹版の一種で,版面をのこぎり歯状のロッカーで縦横にひっかいて無数の線を作ったのち,この線の凸部をつぶして図柄を出す。つぶされた部分はインキが付かないため白く浮かび上がる。微妙な明暗の変化が得られ,絵画的効果に富む。17世紀中ごろドイツで発明され,18―19世紀の英国で特に盛んに制作された。日本では長谷川潔,浜口陽三が有名。 とある。 つまりは、本句集の装釘は、そのイメージを思わせるものだろう。 ほかの色をよせつけず、白と黒によって繊細な明暗をあらわし、つよく訴えかけるものがある。 向日性というよりも深淵なるものへとむかう奥行きがある。 そしてこの句集名となった「メゾティント」のイメージは、この句集の世界を貫くものである。 本句集は、編年体形式ではない。章分けもなく、1頁二句組によって並べられた俳句が、読者のまえにつぎつぎと立ち現れていく。著者の藤井あかりさんによって読ませる句集として、あえていえば演出されたものである。そういう意味でも斬新である。並べられた俳句は、ある意味連作のようにしかし連作俳句のようにあからさまではなく、次の句が前の句の気配をかすかにとどめながら展開していく、しかし、あまりにもそれはさりげないはからいのようであるが、誤解をおそれずにいえばどこか不穏な物語性を秘めている。しかし、そのことが季節の自然な循環のなかでなされていることによって、ある安らぎをあたえている。ともいえようか。並べられた俳句が反響しあいながらも、一句一句の独立性はきっかりと保たれている。そこにこの人の力量を思う。 主体は人間にありその身体を喚起させる俳句がおおく、季語もまた人間の身体を一度くぐり抜けて(スキャニングされて)作品化される、そのような思いをもったのだった。〈残雪を隔ててならば向き合へる〉〈秋蝶の映りたる気がして水面〉「秋蝶が映りたる」のではなく「秋蝶が映りたる気がして」なのである。 俳句によって何を表現したいかをすでに明確にしている藤井あかりさんにによって編集された本句集は、完成度が高く、ドラマ性をひめながら読み手を飽きさせない。 藤井あかりさんは、すでにひとりの俳句作家としての顔を持ち得ているのではないだろうか。 句集の流れのなかに身をおいて読まれることをおすすめしたい句集である。 本句集の担当はPさん。 たくさん好き句があったようだが、すこし減らしてもらった。 青葉木菟仮死から蘇るまでを 紫陽花を生けてより日々過ぎやすく 青葉騒栞の少し前から読む 秋蝶の翅より薄き瞼かも 手廂を外したるとき秋燕 林檎剥く眉間を昏くしてゐたり 冬館ランプは光から古び 胸に火の回る速さや冬河原 沈黙の舌の分厚き日永かな 虎鶫棺の中と同じ闇 手花火を終へ原稿に戻りたり すれ違ふ秋風よりも颯と人 君にとつての雪が私の詩 歌ひをる喉を冬の泉とも 秋蝶の翅より薄き瞼かも この一句はわたしも好きな一句である。「瞼かな」と断定するのではなく、「瞼かも」と推測しているのである。そのことはこの作者のある志向を示している。その秋蝶の瞼に思いをとどめたということ、そしてその瞼はきっと秋蝶の羽よりも薄いはず、とさらに繊細な部分に心をさしむける、「瞼かな」という写生の一句であればよく見た一句となるが、しかし、実際のところどうであるかは観察するのは難しい。作者にとっては「薄き瞼」をもつかもしれぬ「秋蝶」の命のかそけさが胸に響いているのだ。それを「羽より薄き瞼かも」という措辞によって、表現したのだと思う。 林檎剥く眉間を昏くしてゐたり 眉間を暗くして林檎を剥いている。心に屈託があるのだろう。林檎という瑞々しい果物も眉間の暗さでその明るさを失っている。気持ちの重さが、剥かれている林檎の皮の重さと響き合うかのように、ある沈鬱な時間が流れていく。「眉間を昏く」が巧みであると思う。 沈黙の舌の分厚き日永かな 「日永」という季語に身体感覚を取り合わせた。「舌の分厚き」の措辞に驚くとともに、「日永」の季語と取り合わせたことにも驚く。押し黙る口中に舌が分厚くある、この舌の分厚さが不気味に邪魔くさいようであるが、こんな風によまれると俳味もある。舌が分厚いと感じるまでの沈黙とはなかなか生半可ではない。しかも日永である。じっと舌の分厚いまま耐えるしかないのか。 君にとつての雪が私の詩 「君」は、いろいろな関係性が考えられるが、句集の流れからするとつぎに〈子にいつか来る晩年や竜の玉〉があるので、あるいはご自身の子どものことを詠んだ句とも。目の前の雪を無邪気によろこぶ子どもの姿が愛おしくそして美しくもある。すぐ溶けてしまう雪のごとく、目の前の景も一瞬である。であるからこそ永遠にとどめておきたい一瞬の景なのである。「私の詩」の下5によって、この作者の内奥の核に突き当たったようにおもえてくる一句だ。 歌ひをる喉を冬の泉とも わたしも好きな一句である。「冬の泉」は喩となっているが、ここでも肉体が詠まれている。しかも「喉」。「冬の泉」であることによって、歌う身体の力強さとあふれるような生命力を表出している。「喉」という一点に読者の目を釘付けにしつつ、そこから冬の泉が湧きいでるかのようにも思わせる一句だ。 鶏頭にもう一度日の暮れにけり これはわたしの好きな一句である。比較的自意識のつよい句がおおいなかでところどころ季語をすっきりと詠み込んだ句が配してある。この句もそのうちの一句。「もう一度」という措辞が、鶏頭というたくさんの俳人たちにいろいろと詠まれてきた花の、複雑な奥行きをもった存在感によく合っている。鶏頭は時間に耐える花かもしれない、そんな強靱さも思う。 校正スタッフのみおさん。 一冊通しての濃密さに圧倒されました。 〈無くなりてをりぬ暖かかりし場所〉読んでいるこちらも胸が詰まるような淋しさ。 本当に濃密な一冊であると思う。 装釘は和兎さんとなっているが、多くは藤井あかりさんのご希望を和兎さんが具体化したものである。 書体は、藤井あかりさんの俳句の世界にふさわしいものをと選んでみた。 「いつもお導きいただき、この度は序句を賜りました石田郷子先生に、心よりお礼申し上げます。」(あとがき) 「秋水に幼な子の名を訊きかへす 郷子」と前書きがあり、(石田郷子さんの句集『万の枝』に収録された一句である。) 立つ風と書きて子の名や露時雨 と俳句で応えている。 そんな師と弟子のやりとりがしみじみと素敵である。 このあかりさんの一句、季語の「露時雨」に作者の心の深さがみえる。 上梓後のお気持ちをうかがった。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? 製本所では我が家がすぐ近所と分かり、台車を押して届けに来てくださることに。「良かったらすぐ開けて見てください」と言われ、その場で包みを解きました。「きれいに仕上がっています」と伝えると、「良かった」と安堵されたその表情を見て、本当に色々な方が関わってくださったのだと改めて感じました。 (2)この句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい 元々この句集には表題句があったのですが、入稿間際にその句を落とすことにしました。新たな表題を考えたのですが、「メゾティント」以上にしっくり来るものが見つからず、この技法に対する長年の憧れから、自分の句に少しでも通じるものがあればと祈るような気持ちで、そのままとしました。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 第二句集で最後になるか第三句集を出すことがあるか、今はまだ分かりませんが、もし出すとしたら表題はもう心にあるので、その幻の本に向かって書いていきます。 藤井あかりさん。 藤井あかりさま 第2句集のご上梓おめでとうございます。 一篇の小説をよむかのごとく、ドキドキしながら拝読しました。 表題はすでにある「幻の句集」、 いいですね! つぎもふらんす堂で是非に刊行させてくださいませ。 ドキドキしながら待っております。 冬の虹忘れてそして忘れ去る 藤井あかり 藤井あかりさんにとって、季節は救済なのではないか、 句集を拝読して、ふっとそう思ったのだった。 今朝の仙川商店街。 #
by fragie777
| 2024-10-04 20:33
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