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ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko

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2018年 07月 06日 ( 1 )

  • ヴィヴィドな書簡集。
    [ 2018-07 -06 19:02 ]
1

ヴィヴィドな書簡集。

7月6日(金)  旧暦5月23日


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凌霽(のうぜん)の花。

人をはっとさせる花である。


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西日本はひどい雨降りである。


「高知県、三日間で降水量が千ミリ超えるんだって」とインターネットのニュースを見ながらスタッフが呟いた。

「千ミリなんて、想像つかない」と別のスタッフが呟く。

日本列島が溺れてかけている。








新刊紹介をしたい。

宇井十間・岸本尚毅共著『相互批評の試み』。


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四六判ペーパーバックスタイル 126ページ 

本著は、往復書簡というかたちをとった評論集である。俳句総合誌「俳句」2012年1月号から12月号にかけて連載したものを一冊にまとめた。宇井十間(うい・とげん)さんは、1969年生まれ、「小熊座」「豈」「海程」に所属、本書では金子兜太や佐藤鬼房などの俳句を念頭に新しい俳句の在り方をさぐっていく。岸本尚毅(きしもと・なおき)さんは、赤尾兜子を経て波多野爽波に俳句をび、虚子の写生をその方法とする俳人、まずは宇井さんの問いかけ(問題提起)に答えるかたちで自身の俳句的立脚点を洗い直しながら、さまざまな俳句的テーゼを検証しようと試みる。そして宇井さんへあらためて問題提起を発していく。そういうやりとりが書簡のかたちをとってすすめられていく。読者はその場に立ち会っているような臨場感をもてるのが魅力的。


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目次を紹介しておきたい。

一、俳句の即物性について⑴
二、俳句の即物性について⑵
三、日常性について⑴
四、日常性について⑵
五、重くれと軽み⑴
六、重くれと軽み⑵
七、多言語化する俳句⑴
八、多言語化する俳句⑵
九、叙情と劇の間⑴
一〇、叙情と劇の間⑵
一一、一様性から多様性へ⑴
一二、一様性から多様性へ⑵

全部で12項目より成り立っているが、語られている内容は、7つである。
三の「日常性について」についてちょっと紹介したい。⑴において、宇井さんは、俳句は「思想詩」であると語る。

 鰯雲日かげは水の音迅く 飯田龍太
 かたつむり甲斐も信濃も雨のなか   〃

これほど日常性とかけ離れた作品も、あまりないでしょう。飯田龍太は、おそらく現代俳句のいわゆる伝統系と呼ばれる俳人の中でもっとも高い評価を受けている俳人の一人と思われますが、その作品のエッセンスはしばしば日常性の叙述とは対極にあります。ここで表現されている「生活」は抽象化され、概念化された生活であり、それはむしろ思想に近いものです。もっと端的に言うと、神話化され形象化された山国の生活を描いていると言ってもよいと思われます。〈日かげは水の音迅く〉という事実をそのまま記述しているだけのように見えますが、そのような迅さに焦点を当てているのは、果たして誰でしょうか。かたつむりという微細な事実と甲斐信濃の巨視的な地理学との対比を明瞭に意識しているのは、誰でしょうか。名高い〈春の鳶寄りわかれては高みつゝ〉にしてもそうで、表現されている世界は、すでに龍太(及び読者)の中で高度に抽象化された思想性そのものです。生活者の視点からだけでは、甲斐や信濃は見えません。同じく「迅さ」に着目することもできません。
飯田龍太を思想家などと言うと、あるいは彼の作品を愛誦する人々からは批判を受けるかもしれませんが、私はいつも彼の作品にある種の思想的な深さを感じてしまうのです。

あえて俳句は思想詩であるという仮説を立ててみましょう。思想と言っても、特別なことを言っているのではありません。概念によって成立する詩というくらいの意味です。仮説の真偽そのものはしばらく措くとしても、そのような思考実験によって見えてくるものも少なからずあるはずです。

宇井さんは、⑴で、高野素十や中村草田男の句を引用しながら、その「思想詩」としての俳句の考察を展開していく。
それに対して岸本さんがどう答えたか、このやりとりは、本集においても読みごたえのあるところだ。
興味のある方は、是非本書を繙いて欲しい。飯田龍太の句を同じように引用しながらのクダリは、けっこうグッとくる。
是非に読んで欲しいところだ。
(もちろん、グッとくる箇所は各自によって異なると思う。当然のことながら)


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良い俳句作品は、それに見合うような良い読み手を必要とする。良い読み手が育つためには、読み手の言葉もまた評価されるような文化が必要である。そもそも、一般に作品を批評するということは誰かと対話をするということではなかったか。

本書のはじまりの部分の宇井十間さんの言葉である。
「対話」によって見えてくるもの。
それがきっと本書にはあるはずである。


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往復書簡という形は両者の関心や視点や見解の相違を露わにする。相手の思考を確認しながら論を組み立てる過程を読者に示すことにより、読者が「宇井と岸本はあんなことを書いているが、自分ならこう考える」と思ったとすれば、本連載は十分に有益だったと思う。


岸本尚毅さんの本書におかれた末尾の言葉である。

まさにこの通りであると思う。
それぞれの違いを明らかにすること、そして自分はどう考えるか、ふたりのやりとりのなかにいつの間にか引きずり込まれ、自身の考えを問い直す、
そう、
それができたら上出来というものである。








雨はまだ降り続いているだろう。

水の豊かな国である日本。

それがこのような水攻めに遭うとは。

嗚呼。。。



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▲ by fragie777 | 2018-07-06 19:02 | Comments(0)
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