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12月3日(水)
わたしの郷里の秩父では今日は夜祭りの日だ。 寒風が吹き荒れるなか、蝋燭をともした何台もの山車が夜の急坂をのぼっていく。 酒くさい息をはきながら、ねじり鉢巻きの男どもが山車をひっぱりあげる。 花火が夜空を景気づけ、地を轟かすような荒くれ太鼓が底冷えの寒さをふきとばし、はげしい横笛の音がはらわたに沁みわたるように突き刺してくる。 そうはいうものの、もう10年以上もこの夜祭りを見ていない。 しかし、こうして誰もいない仕事場でパソコンに向き合っていても、夜祭りを思えば、耳の底からお囃子がわきおこってきて、部屋中に♪ダガダガダガダガ、ピーヒョロロ♪と太鼓や笛の音があふれてしまうのは雑作もない。 すごいよ、この音響!、おお、焼き烏賊のにおいまでしてきた…。 やはり秩父っ子の血がさわぐ…。 (いっけん、わたくし気取ってますけど、荒荒しいカカア殿下で有名な秩父の女でございます) 榎本好宏さんの句集『祭詩』が出来上がってくる。同じ「祭り」であってもこちらはぐっとインテレクチュアルな「祭り」である。「祭詩(さいし)』の集名の由来は、中国の故事による。「あとがき」によれば、唐の詩人、賈島(かとう)が大晦日の晩に、自作の詩をまつり、自らの苦心を慰めた、その故事「祭詩」によるという。 「祭り」とは、大勢でワイワイやるものとはかぎらず、このようにひそやかにして内省と思索にみちた「祭り」もあるんだっていうことを、荒くれ太鼓を聞いて育ったわたくしは思った次第でございます。 俳誌「杉」(森澄雄主宰)同人。師・森澄雄を思う気持ちが句集のところどころで静かな炎のようにある。「煮豆は森澄雄先生の大好物なれば」という前書きのある 花豆の烹ゆる時間をいただきぬ 師の今し月の名残りの寝べき頃 師の坐(いま)す母坐す梅に遠くして などの句とともに「その師が、長い病臥にあることが、私には辛い」とあとがきに書く。俳句における師弟関係が希薄になりつつあるという現在、ここには師を思う弟子の姿がつつましくある。 ほうたるが置いてゆきけり夜泣きの子 持てなさるとろろあふひの咲くやうに そして、「件の会」のお仲間11人の方が栞にあたたかなことばをよせている。この句集は、細谷喨々さんの句集『二日』につぐ、「リブロ・件」シリーズ第2回配本となった。 「俳句とは自分にとって何なのだろう」という師・森澄雄の自らにむけたつぶやきを、榎本さんも自身へと問い続ける日々であるという。 独活食うて世に百尋も後れけり
by fragie777
| 2008-12-03 20:06
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