1月24日(木)
雪の降った翌日の朝はきもちの良い朝となった。歩いて出社することに。雪解けの水がひかりをはねかえし、空を風がおおきくわたっていく。力強いはだか木のむこうに青い空があった。
アマゾンより本がとどく。阿部嘉昭(あべ・かしょう)著『僕はこんな日常や感情でできていますーサブカルチャー日記』(晶文社)というもので、この著者をこの本ではじめて知ったのであるが、略歴をみるともうずいぶんと著書がある。映画関係の編集プロダクションにつとめ、製作、企画、宣伝をやり、その後「キネマ旬報社」に入社、退社して評論活動を開始し、いまは大学の先生もしておられるようだ。この本は自分のブログに書き記したものを一冊に編集したもので、その批評はすべてのカルチュアを対象とすると言っていいくらい守備範囲がひろい。本の折り返しのところに「阿部嘉昭は、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、ブログという『私語り』の世界に身を投じ、批評を展開してみる」と。(へえー、ブログの世界に身を投じたんだ…、ブログってそういうところなんだ…)
どうしてわたしがこの本を取り寄せたかっていうと、山本左門さん(また、あの左門さんよ、さっきも実は電話があった…。りんごのお礼かなって思ったら、まだりんごは届いていなくて、わたしが送ったわよって言うと、信じないの。すごいのが届くよっていうと、「ボクをからかってんじゃないの」っていうから、「いいえ、ほんとよ。でもね、左門さん、女からりんごを貰うとヤバイよ」って言ってやった。どうしてって、だって大昔、イブからもらったりんごでアダムの堕落がはじまったんじゃなくてってね…。)その左門さんの句集『星蝕』が批評されているのだ。句集評は『星蝕』のみ。詩集では久谷雉さんや杉本真維子さんなどのぞんじあげている名前がある。その『星蝕』評がなかなか面白いし、鋭いのだ。「俳句はヤバイ文学形式なのだ」というタイトルではじまり、どうヤバイかがまず語られる。引用しようと思ったが長いので興味のある方は是非一読を。それでもすこし引用すると「短歌なら女性的な歌唱の一息がとりわけ身体性の魅惑となるが、俳句は脱論理的な『ぶっきらぼう』の怖さにいたり、真の上位文芸ジャンルとなる。身体性は歪む」。わたしが面白いと思ったのは、左門さんは不本意かもしれないが、しょっぱなの「日本的怪物『禅味』がこのあたりで暗躍する。実はその機微が作者・山本にわかっていないのでは?そう思わせる作例が少しあった」とし、「澁澤忌」や「桜桃忌」を用いた俳句を「句が自充してしまっている」と批判する。(このへんの「忌日の句は、死者ー配剤の『付けすぎ』を逃れることが大事だとおもう。」などと語ることばは俳人ならずしても鋭いと思う。)そして、「おぼろ夜や少女の入りし試着室」「紫陽花の邸必ず誰か病む」など何句かあげて「『寺山調』の弊もあるよう」とする。それ以外は「『切断に優れ、何かゴツッとした読後感を漂わせる怪物句も成立させる」とし、「全共闘世代は最も俳句に向かない」(わたしも実はそうおもう)その「山本が悪戦苦闘の長征ののち『いまある』のでは?」とする。このへんの考察がとても面白い。そのあとはたくさんの句をとりあげて、秀句鑑賞をしていく。わたしは正直この批評では前半の秀句鑑賞までにいたるところがとても面白かった。(ごめんなさい、左門さん)しかし、句集『星蝕』にこんなに真剣にとりくんだ評があっただろうか…。多くの俳人に読まれなかった『星蝕』が、阿部嘉昭というきわめて情報環境に意識的かつ意欲的な評論家によって思いもかけず浮上したことを、版元として、また山本左門とたぶんおなじ青春の時間をいきた全共闘世代の人間のひとりとして喜びたい。