9月22日(土)

伊丹市にある柿衞文庫よりいまもどって仕事場で郵便物の整理やらをしてこうしてパソコンに向ったところである。はじめておとずれた柿衞文庫は白を基調とした美しい建物であった。写真がそれであるが、伊丹市立美術館と併設していて、ちょうど長谷川潔の銅版画展をやっていて思いもかけずそれも観られたのは幸運であったというべきだろう。この度の「女性俳句の世界」では豊富な資料の展示によって、わたしたちはこれまでなかなか目にすることのできなかった俳人たちの直筆やその書物にふれることができ、女性俳句の今日までのながれをそのさまざまな資料をとおして実感することができるのだ。

宇多喜代子氏による「桂信子とその時代」という記念講演のなかで、まず第一に宇多さんが「このたびの特別展をみてなにを感じたかというと、それは『現物の力』である。」と語っていたが、色紙、短冊、書簡などの筆跡をとおして「もの」のもつ迫力がそこにはあった。それぞれの作家の初版本などもとうぜんのことながらそこには展示されていたわけであるが、わたしなど職業上の興味もあって、手に取ってその風合いやら肌触りなどをたしかめてみたい誘惑にかられた。。

年月をへても美しい色や精巧なつくりの書籍があり、人の手をなんども介在してつくりあげられたそれは人間のぬくもりを感じさせるものであった。そういうものは今日ますます失われつつあるわけだが、宇多さんも「これからの時代がどうなっていくか、皆目わかりません」と断定し、生原稿というものが存在しなくなりつつあるいま、「筆跡をたどるのがむずかしい時代となっていく」と語っていたが、そういうことがこれからの俳句のありように、あるいは人間のありようにどう影響していくのか、わたしも分からない。

この写真は建物から中庭をながめた風景。今日はおもいもかけず俳人のふけとしこさんにおめにかかる。ふけさんとこには、「ほたる」という10歳になる雌猫がいて、いつも洗濯機の上にのっているらしいのだが、「ほたるちゃん、元気ですか?」って聞いたとたん、ふけさんにっこりして「みて!」といって携帯のほたるちゃんをみせてくれた。身体をのばしきってまあ、悠然とねそべる貫録ある雌猫がそこにはいたのだった。平石和美さんにもおめにかかることができた。飯島晴子論を書くため、わたしの郷里の秩父を取材したときのことをゆっくり伺いたいのであるが、あわただしく再会を約束して別れをつげたのだった。あす、あさってとわたしはその郷里にいく予定である・