2月19日(月)
さあてこのブログを書こうなあって思っているときにブックデザイナーの君嶋真理子さんから電話が入った。君嶋さんのダンナさん(日経新聞記者)が電話をよこして、「毎日新聞の夕刊に『季語別鈴木鷹夫句集』がとりあげられているよ」と教えてくれたということで、さっそくスタッフの中井がキヨスクまで買いに走る。君嶋さんは今朝も日経新聞記事をFAXしてくれて、坪内稔典氏が、三宅やよいさんの句集『駱駝のあくび』の紹介記事を書いておられることを教えてくれる。
「俳句という極端にまで短い詩は、時代の空気を吸って生き生きとする」という文章ではじまり、「腹ばいの春のいるかが来ておりぬ」「春浅きギョーザの耳を折りたたむ」「蜜豆を食べたからだに触れてみて」などの作品をあげながら、そこには「現代の明るい風景があり」「今を生きている言葉たち」であると紹介をされている。
いっぽう今日の読売新聞では長谷川櫂氏が「四季」に、井崎佳子さんの句集『風祭』より「つきながら紙風船のふくらみ来」を紹介しながら、紙風船が「春の季語になったのは春風に似合うからだろう」と解説されている。ウーン、確かにそうであるかもしれない。
いまもどった中井より、毎日新聞を受け取る。鈴木鷹夫氏の写真が載って「徹底して人間諷詠を」とタイトルのある酒井佐忠氏の記事である。中井がこの記事を読みながらそこに引用されている「『二階より素足降り来る桜鍋』の句いいですねえ」と言う。素足は美人の素足かもしれないね、などと言ってみる。
そして昨夜の大木あまりさんの高柳重信句集『夜想曲』の記事であるが、昨夜はあまりに遅く仕事場に行ったので、きちんと読まないで「片腕の」句が引用されている嬉しさで安易にブログを書いてしまったが、今日きっちり読めば、そこには高柳重信の俳句と大木あまりという詩人の魂のとのぬきさしならない関わりが書かれていて、「大胆と屈折が交錯するリアルで幻想的な『夜想曲』は、俳句の世界で迷子のように漂っていた私に、迷子じゃなければ自由な句は生れない、という遠い声を送ってくれるような気がしたのだ」と。イメージを強く喚起する大木さんの文体のもつ魅力、どの文章からも大木あまりの魂の匂いがしてわたしは甘美に魅了される。しかし、いつも思うのであるが大木あまりというこの俳人は「冷たい炎」の化身ではないかと…。
写真は山茱萸の花。わたしは好きだなあ、この花。