|
カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
5月29日(金) 旧暦4月13日
盛りをすぎていたが、白い花が咲いていた。 バイカウツギである。 ことしもどうにか見られた、 ことを良しとしよう。。。 5月もまもなく終わる。 明日は、髪をカットする予定。 さっぱりとして梅雨の季節をむかるつもり。 新刊紹介をしたい。 四六判変形並製カバー装クータバインディング 152頁 2句組 著者の伊東芳子(いとう・よしこ)さんは、昭和5年(1930)兵庫県うまれ。昭和27年(1952)伊東史郎と結婚して二男を得る。昭和38年(1963)夫の転勤より、東京杉並と横浜に20年在住。平成8年(1996)「実の会」俳句会入会。平成9年(1997)同会、新樹賞を受賞。平成15年(2003)俳誌「野の会」入会。平成21年(2009)野の会賞を受賞。平成30年(2018)「野の会」無鑑査同人。令和7年(2025)現代俳句協会東京都大会佳作賞を受賞 現代俳句協会会員。 本句集は、伊東芳子さんのはじめての個人句集であり、ふたりのご子息(伊東良平氏、伊東完二氏)がお母さまのために出版されたものである。今年96歳となられる芳子さんは、立川の老人ホームで作句の意欲も衰えずお元気で暮らしておられる。 「序に代えて」として、「野の会」の主宰であられた鈴木明氏の文章が寄せられている。 一部のみ抜粋となるが紹介したい。 冬の月母の知らない日を生きる 日々の生活に根差した芳子俳句は、評価が一定して高い。《略)掲句の母は、御主人の母、つまり作者の姑御。百歳を超え、十数年前、作者が七十代に亡くなられた。長男の嫁として半世紀を超えて支えた長い歳月。そしてその母亡きあとの今日までの「母の知らない」日常。過ぎ去った日々の気の遠くなるような忍耐、忍苦の時間。句の中身は一時代前かも知れないが、これも一つの女性生活史である。 本句集の担当は、Pさん。 クレパスの桃色ちびて弥生尽 天の川美しく老いるなんてうそ 扇風機つましく昭和を復習す 君の名をステテコに書く油性ペン 冬の月母の知らない日を生きる 帰りには杖にもなるし春日傘 クレパスの桃色ちびて弥生尽 「弥生尽」とクレパスの「桃色」がよく響きあっている。理屈っぽく解釈すれば、桜など春の風景でさんざんクレパスの桃色をつかってすっかりちびてしまったという事実と「弥生尽」の「尽」の語感がだめ押し的におかれて春も過ぎ去っていく気分が充分である。さらに、ややたけなわの春を通過して人間も春に疲れてしまった、そんな気配をも感じとってしまう一句だ。ちびた桃色のクレパスだけでなく、春爛漫に消耗しているそんな感情もただよう一句。 天の川美しく老いるなんてうそ わたしのこの一句は、好きである。鈴木明氏は、序に代えてで、この一句も引用している。「彼女が俳句を通してみる冷徹とも言える現実把握の見事さ」と。この句、「天の川」と冒頭におかれた季語がいい。遙かに夜空をあおぎみつつ、そんな風におもった感慨なのだろうけど、なにかそこには、「美しく老いたい」と思い続けてきた一人の女性を浮き彫りにする。「うそ」と叙しながら、歳をとることの無残さに絶えながら、それでもすこしでも美しく老いたいという切々とした気持ちを思うのだ。天上にいる遙かなる者にむかって、抗議している、そんな切なさも。。 扇風機つましく昭和を復習す おもしろい一句だ。この句をみたときフッって笑ってしまった。クーラーが普及していなかったころ、わたしもそういう時代を通過してきたが、扇風機の活躍はめざましかった。21世紀のいま、扇風機はすでに過去のものとなってしまった。しかし、破棄はしないで使ってもみる。「つましく」が扇風機の肩身の狭さを言い得ている。そして首を振ってこその扇風機である。おぼつかない動作で首をふりながら風をおくっている扇風機をみていると通り過ぎてきた昭和という時代が懐かしく思い出される。下5はその懐かしさを復元しているのだろうと思うけど、「復習す」という措辞によって、扇風機の首振りも思わせて巧みである。この句の面白さは、「つましく」と「復習す」この言葉を見いだしたことにつきると思う。 君の名をステテコに書く油性ペン 人によってはもっとウエットになるところを、諧謔たっぷりに詠んだ一句。「君」は長い間連れ添ってきた夫である。ご子息ふたりによる「跋に代えて」によると、「当初句会にも一緒に通っていた夫も徐々に認知症を患い、自宅で介護をしていたが限界を超えたため施設に入所、二〇一七年に九十二歳で永眠した。」とあり、施設に入所するときのことを詠んだ一句である。きっと芳子さんは、このような一句を詠むことによって、精神のバランスを保っていたのではないだろうか。感情に呑み込まれず、冷静にあかるく現実に向き合う。作句はそんなこころのバランスを失わないように助けてくれたのではないだろうか。 家族のため生きて「家族」を卒業す 本句集を読むと、ほんとうに家族のために生きてこられた伊東芳子さんであることがわかる。「跋に代えて」にこのような文章がある。「昭和二七年(一九五二年)に会社員だった伊東史郎と結婚し、二男をもうける。嫁として史郎の両親と同居していた芦屋から、昭和三八年(一九六三年)に史郎が東京に転勤となったため杉並に移り、その後横浜に引っ越しをする。子供が大学を卒業し就職をした時期から、高齢となった夫の両親の世話をする為、毎月横浜から芦屋への往復をすることになる。阪神・淡路大震災が起こった一九九五年一月も、ちょうど初釜が終わった後滞在していた家は一瞬で全壊となり、屋根の無い座敷で野宿同然の一週間を過ごした後、命からがら義母と共に横浜に逃げ出して来た」なんとも凄まじいまでの体験をされている。このように「家族のため」に生きてこられた芳子さんであるからこそ、「『家族』を卒業す」と言えるのだろう。生きてこられたことの一つ一つの現実を俳句という形によって、残す。他者に語るというよりも、俳句に詠むことによって自身を納得させてこられたのではないか。なかなかあっぱれな方であるとわたしは思ったのだた。 校正スタッフの幸香さんは、〈ペディキュアの少し剥げたる野分あと〉が好きですと。 母である伊東芳子が俳句を始めたのは一九九五年。今年で三十年を超える。 一九九六年から二〇一二年までの前半約十五年間に詠んだ俳句を合同句集『俊英五人集』として刊行しているが、今回はその全句一〇一句と、二〇一二年以降に詠まれた一四四句を併せて単独句集とした。『五人集』は季節ごとに纏められているが、それ以降の一四四句は敢えて年代ごとの時系列に並べた。晩年の作品中心ではあるが、本人の自分史とでも言うべき句集になればと考えている。(略) 芳子は夫の死後、立川の老人ホームに移り元々思い描いていた独りの生活を送っている。子孝行やと口癖のように言われる。詠んでいる通りあまり「寡黙なる余生」ではないかも知れないが、九十五歳になった今も作句の意欲も衰えず自分の世界を存分に表現出来ているのであれば結構な事である。鈴木明先生を師と仰ぎ、いつも俳句に出会えた幸せを語っているが、俳句を始めて三十年経って今回このように一つの句集として纏められたことは本人にとっても良かったと思う。 伊東良平・完二両氏による「跋に代えて」より抜粋して紹介した。 本句集の装丁は君嶋真理子さんであるが、カバーの装画と本文の挿絵は、伊東良平氏によるものである。 それが、この本にスマート感をあたえている。 「椅子」は伊東良平氏によるもの。 カバーをはずすとブルーの表紙の本となる。 見返しは赤茶色。 本文の挿絵。 二点とも伊東良平氏。 思えば、子育てよりはるかに長い年数を舅姑の世話と夫の介護で過ごして来た訳だが、その時に俳句に携わり心の安寧が保てたのではないかと想像する。 芳子俳句には日々の生活の当たり前の日常の中から情景を切り取って自分の思いを託し詩にするものが多い。 その中で近親者に対する想いは、俳句の中で控えめながらその優しさが溢れている。(伊東良平・完二/跋に代えてより) 伊東芳子さんより、感想をいただいた。 長い道のりではありましたが、一冊にこめた思いが句集という形になりました。この静かな喜びは何にも替え難いものと感謝しています。 今は出来た句に私なりに推敲をするひとりの時間を楽しんでいます。 伊東芳子さん この句集ができあがるまで、伊東良平さんは、打合せのために何度もふらんす堂へ足を運ばれたのだった。 伊東芳子さま 句集のご上梓おめでとうございます。 ご子息さまたちのすばらしいプレゼントとなりました。 ますますのご健吟をおいのりもうしあげております。 吾亦紅愛のかたちも変わります 伊東芳子
by fragie777
| 2026-05-29 18:58
|
Comments(0)
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||