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5月13日(水) 旧暦3月27日
薔薇の季節である。 五月はとくに薔薇が美しい。 神代植物園の薔薇園はたくさんの人がやって来ていた。 わたしは薔薇園の薔薇よりも、それぞれの家で育てられた薔薇を見ることが好きなのだけど、いつか垣根の薔薇を撮っていたら家の中を覗かれていると勘違いをされたことがあって、人家の薔薇を写真に撮ることはしないようにしている。 神代植物園の薔薇園はどの薔薇にも名前がつけられていて、噴水もあったりしてかなり壮大な薔薇園である。 薔薇園の端っこで撮った薔薇たち。 あまり中に深入りはしたくなかったので。 わたしの母は薔薇をというか、花を育てるのが趣味で、山草から蘭まで育てた人だった。 薔薇ももちろん。 わたしは全然だめ。 花をそだてるセンスは皆無と言ってもいい。 自慢することじゃないけど、。。。 今日は、百句シリーズより薔薇の句とその鑑賞を紹介したい。 舞踏の人薔薇(ソウビ)花前に語るかな 明治三十二年(一八九九) いわゆる鹿鳴館時代は明治十六年から二十年にかけて。それはあたかも硯友社の草創時代に当るが、彼ら文学書生たちには鹿鳴館で開かれる舞踏会や祝宴は遠い雲の上の話だ。また、紅葉が華族階級の腐敗や浮薄な欧化主義に批判的であったことは、先にふれた小説「夏痩」などからわかる。ではあるが、掲句には舞踏会や〈舞踏の人〉に対する否定的な感情はうかがえない。この句の世界に近いのは、そう、芥川龍之介の短編「舞踏会」(大正九年/一九二〇)である。同作の設定は明治十九年の十一月三日で、舞踏場を飾るのは薔薇ではなく菊だったけれど。 BONNE・NUIT( おやすみ)といふ名の薔薇は散終り 『露地の月』 名古屋で薔薇を見たときにBONNE・NUITという赤い薔薇があったのだという。 杞陽はフランス語だけでもいいかと考えたようだが、やはりルビを振ったものを作品にしたいと思ったようだ。「ルビがあるのと無いのではどうも差があるやうに思ふ。」と書かれている。 当時、フランス語にルビを振った作品はあまり見かけない。このように、杞陽の句は様々な冒険が見て取れる。それでいて表現に無理がないのは、おやすみという言葉に、散り終わった薔薇の風情がうまく溶け合って気品のある一句となっているからだろう。 (昭和四十八年作) 青空の青ふかく薔薇傷みけり 『定本 木下夕爾句集』昭和二十四年~四十年 薔薇は剣吞な美しさを持っている。華麗な花は人を惹きつけておきながら、棘で近づく者を遠ざける。けれども、花に触れると毀れそうな繊細さも併せ持っている。 そんな薔薇に対して、青空は遥か上にただただ青く広がって薔薇を見下ろしている。つまり薔薇に無関心を貫き、深淵なる青を湛えているだけなのだ。絢爛と咲いた薔薇は自尊心を傷つけられ、茫然自失となったのだろう。 と、この作品からこんな小さな物語が想像できる。恋愛感情のまじるアイロニカルな作である。
by fragie777
| 2026-05-13 17:33
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Comments(2)
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
しなもんさま
薔薇の写真を喜んでいただき、嬉しいです。 薔薇はやはり写真ばえがしますね。 (yamaoka)
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