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3月19日(木) 旧暦2月1日
目がかわいい。 が、鳴き声はややうるさい。 新刊紹介をしたい。 著者の矢野景一(やの・けいいち)さんは、1950年和歌山県生まれ。1973年藤崎実を師として「杉」に入会。森澄雄に師事。1981年「杉」同人。1991年第19回「杉」賞受賞。2010年森澄雄逝去。2016年「杉」退会。2017年「海棠」を創刊。主宰。現在、日本俳人クラブ評議員。和歌山県俳句作家協会会員。讀賣新聞和歌山版文学俳句欄選者。本集は、既刊句集『真土』『紅白』『游目』『和顔』『圭復』の五句集より400句を精選し収録したものである。 エッセイは「おもふこと」と題した芭蕉への考察。解説は、「自らを励ます一巻」と題して小田切輝雄さんによる句集『紅白』評と、坂口昌弘さんによる「うつくしき一句の欲しき」と題した句集『圭復』評を収録。 収録作品よりわたしの好きな俳句をすこし紹介しておきたい。 紀の国の闇を重ねて仏法僧 『真土』より 嬰とおなじにほひ聖夜の妻眠る こゑの鳥すがたの鳥や水温む 大宇陀の空みつ水にあめんぼう 黄水仙はつはつ汝を見そめし日 『紅白』より 梅ひらきゐるつつましく生きし村 襟固く合はせをさなし流し雛 ひるがへるとき空が飛びつばくらめ 遠雷やフランスパンのねぢれやう てのひらに立たせて雛納めけり 人をみてひとおもひをり夜の秋 盆踊払ふ右手は闇にあり 経(たていと)の雨緯(よこいと)のつばくらめ 『游目』より おぼろ夜のわが家に声をかけて入る 涙ぬぐふやうにも生まれたての蠅 沢瀉やひとりのための道の幅 『和顔』より あたたかき息してをりぬ和紙の雛 しやぼん玉売あの世にも職あらば うつくしき一句の欲しきお元日 『圭復』より 明日千里距(へだ)たる人と桜みる 蝌蚪むるる水のゆるんでゐるところ 好きな句を一句のみ鑑賞します。 こゑの鳥すがたの鳥や水温む 「こゑの鳥」「すがたの鳥」という措辞が巧みであるとおもった。「こゑの鳥」なら、鶯が代表格か。では「すがたの鳥」は、雉とか山鳥かしら。雉も山鳥も鳴くけど姿が美しい。季語「水温む」がいい。それらの鳥たちがやってきて、その声を水辺でひびかせ、あるいはその姿を水辺に映しているような景がみえてくる一句だ。「こゑの鳥」も「すがたの鳥」も水辺で春の訪れをよろこんでいるのである。 そして、「雛」さまを詠んだ句に好きな句がおおかった。 エッセイの「おもふこと」は、猫を飼う話から説き起こしての芭蕉論である。 読み応えのある論である。俳人としての矢野景一にかかわる本質論である。 かなり長文の考察であるので、抜粋して紹介をしておきたい。(やや乱暴な抜粋ですが、おゆるしを) 「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」というのがある。 この言葉は、先入観固定観念を捨てその対象をしっかりじっくり観察すれば、対象物と一体となることができる、と解釈されるのが一般である。はたして芭蕉はそう思っていたのだろうか。こういう解釈には、明治に子規によって広まった写生の考え方が見え隠れするように思う。斎藤茂吉が唱えた「実相観入」そのものではないか。 芭蕉は対象を観察しようと考えたのだろうか。竹の葉の付き方、節のかたち、幹の太さなどをもっとよく観察するようにと勧めたのだろうか。芭蕉が脱却しようとしていたのは固定観念というような漠然としたものではなかったのではないか。(略) 「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」ということを芭蕉が言ったのは何故か。うまく表現するための手段として学べと言っているのではない。「対象を深く鋭く観察しろ」にはそうしなければいい句は出来ないという含みがある。そう脅迫するものがある。芭蕉はそういう方法論や技術論として、ましてテクニック論として言っているのではない。そんなことを言っているのではない。それは芭蕉の目指した根本理念と通底している。『笈の小文』の「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり」の古人が追い求めたものに他ならない。(略) では根本理念は何だったのか。(略) 松竹は松竹としてこの宇宙に存在している。この大きな宇宙のこの一点、この一刻に、松は松として生きている。竹は竹として生きている。ほかに計らいなどはない。それが造化のありようである。「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」とは「松は松としてどのように生きているのか、それを習え」、同様に「竹は竹として生きているが、その竹の生きざまを竹に習え」といっているのだ。とすれば人も人として松や竹のように人そのものとして生きればよい。いろんな知識や慣習などにとらわれて、人の本然のあるべき姿を忘れて生きている。本然の自分を取りもどす生き方をすることだ。西行・宗祇・雪舟・利休、分野は違うがその一生を、素の人間としての生きざまを貫いた芸術家たちだったと。 人の本然のあるべき姿をしるには入口はひとつである。それは自分を通して知るしかない。それは徹底して自分の生き方を究めること。それは自分とは何か、かもしれないが、人とは何か、であろう。それは腹の足しにもならないから、追究し続けることは難しい。自分が自分らしく生きることに努めるしかない。(略) 芭蕉が言ったから貴いのではない。己も今を生きる一人間であるなら、自分の生の根底を見つめながら生きるのが本然の姿ではないか、それを大事にしたい、というのが私の思いなのだ。 解説は、ほんの少しとなるがそれぞれ紹介をしておきたい。 小田切輝雄さんによる句集『紅白』評は、「自らを励ます一句」と題したもの。 澄雄先生の讃「生は愚にして、紅し/詩は直にして、白し」は本当にいい言葉ですね。景一君があとがきに言う「自然の懐で生きるものが自然に任せて作品を作る」という願いに、先生が唱和したという思いがします。 家苞の鶯餅の押おし競くらす 呼ばるるを待てるこころや春の暮 笑みをれば人も笑み来る春の宵 かなしき尾ひきつつ花火ひらきけり 地球てふ星より生まれ朝の蝉 並走電車に羅の人を見き やはらかな土踏んでゐる天の川 いつときに一列秋の橋灯る 初秋刀魚はげしく焼かれゐたりけり ゆふべ猪来しか鹿垣やや傾ぐ 折り返すしぐれにあへるところより 人おもふこの埋火のごときもの これらの句のこまやかさ、やわらかさは、僕にとっても新しい出合いです。景一君の穏やかな元気な声が聞こえてきます。 十月をただ歩く旅してみたし たとえば明日香の里を是非いっっしょに歩きたいものです。柿と林檎を齧りながら……。 坂口昌弘さんの評は、「うつくしき一句の欲しき」と題した句集『圭復』論。 うつくしき一句の欲しきお元日 この句は殆どの俳人の一生の理想であろう。 他人の評価を気にすることや、受賞するかどうかよりも、自分で納得できる一句を求めて俳人は死ぬまで努力するのではないか。 芭蕉ですら、「一世のうち秀逸の句三、五あらん人は作者なり。十句に及ばん人は名人なり」と述べる。一生で、三句から十句良い句ができれば優れた俳人であるが、まずは一句、自らが納得する句を残すべく元日に祈ろう。 お二人とも力のこもった句集評である。(すこしでごめんなさい) 今後、自分なりの納得のいく句を、たとえ一句でも生むことができれば、こんな喜びはない。それを目標に自分を見つめた句を詠み続けたい。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 戦争は明日かも蟇よ穴出るな 矢野景一
by fragie777
| 2026-03-19 19:46
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