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3月3日(火) ひな祭り 旧暦1月15日
今日はひな祭り。 我が家のおひな様にふたたび登場ねがった。 そして、星野立子の忌日である。 さらに、ふらんす堂の創立記念日である。 おかげさまで39歳になりました。 そういう記念すべき日なのに、今日は朝から相変わらず抜けたことばかりしていて、あきれております。 校了にした本のページを30ページもまちがえていて、そりゅあもう大慌てあっちこっちに連絡して大汗をかき、 連絡事項のところを間違えて注意されること何度か。 お昼は小ぶりなおいなりさん3個とあおさの味噌汁だったのだけど、なんとこのインスタントの味噌汁にお湯をそそがなくてはいけないのに、冷水をたっぷりそそいでしまって、もうどうにもならずつめたい味噌汁をのむはめに。 お祝いすべき日なのに、まったく呪われているような一日だった。 ヤレヤレである。 さあ、気をとりなおして新刊紹介をしたい。 46判ソフトカバー装帯有り 184頁 2句組 著者の伊藤幸二(いとう・こうじ)さんは、1951年埼玉県生まれ、2010年「隗」入会、大山雅由に師事。2013年ふらんす堂吉祥寺句会に参加。髙柳克弘に師事。2015年俳句中断、2018年ふらんす堂より句集『湾岸』(私家版)を上梓。本句集は第2句集となる。解説を髙柳克弘さんが寄せている。 街角に虫屋はこゑを売つてをり この句集には、伊藤氏が人生の時間の中で、 よく歩き、ものをよく見て、 世界の不思議について深く考えた句が詰まっている。 髙柳さんの解説の文章より、帯にひかれた句と一文であるが、この句集を端的に語っているのではないだろうか。 解説をかかれた髙柳さんは、この句集にまことにじっくりとむきあっている。 一句が呼び起こすものを、髙柳さんは表現者としての総体をもってうけとめ鑑賞している。 解説を書くために費やされた時間をわたしはあらためて思うのである。 その解説の一部を紹介しておきたい。 昏れて消え冬の灯にまた生まれ 日の入りとともに、何が消え、そしてひともしごろに、何がふたたび生まれているのか。主語は「光」であろうか。あるいは、別のものかもしれない。作者にだけ感じることができる、魂とか、精霊とか、そういったもののようにも思える。素直に読めばそういうことかもしれないが、主語探しを拒むようなところがある。賛否両論ある句かもしれない。しかし、私は圧倒的に「賛」に与したい。あやふやで、見ることはできないけれど、たしかに「在る」。そうしたものを感じ取れる力を、この作者は備えている。 本句集の担当は、Pさんである。 街角に虫屋はこゑを売つてをり 空に手を入れて空より林檎もぐ 風花や悲しき歌はゆつたりと 浮輪にはこどもの息とちちの息 連凧の春を大きくくねらせて 空に手を入れて空より林檎もぐ 青い空と赤い林檎がみえる。そして白い手が。「空」が二回繰り返されている。この句によって「空」というものは、手をいれることができるものであることを認識するのである。そしてそこからなにかをとりだすことができるということも。空はそう、すぐそこにあるのだ。シンプルな行為がシンプルな表現によって一句となった。もがれた林檎の命がかがやいている。 浮輪にはこどもの息とちちの息 浮輪がこんな風に詠まれるとは。よくわかる一句だけど、これはどう鑑賞をしたらいいのだろう。浮輪っておおかた人間がふくらますものだ。あたりまえのこととなっているけど、「この浮輪子どもと父がふくらまし」なんて行為として詠んだら当たり前で俄然つまんない一句となる。この句のおもしろさは、首尾良く膨らんでいる浮輪を目の前にして、父と子の息をその浮輪のなかに見ているといったって見えるわけじゃないけど、でもあるんだよと息が。という風に、すまして「子どもの息とちちの息」って息の存在を呼び起こしていることだ。かわいらしいような、とぼけているようないい味の一句だ。 しやぼん玉はじけて消えて空消えて この句はわたしが好きな一句である。「空消えて」が余韻として迫ってくる。この句は髙柳さんが丁寧に解説をしている。「現実的には、しゃぼん玉に映った空が消えたということなのだが、頭上の空ぜんたいが消えてしまったようにも思える。」こういう感覚はわたしにはよくわかる。しゃぼん玉って、消えるためのものなのである。わずかな時間この世にあらわれて、そして見事に消える。しゃぼん玉を目でおっていると、その消えた瞬間すべてが消え去った、空ごと消え去ったそんな思いにさせる。その喪失感、「空消えて」まで言ってくれないと、気持ちが納得しない。 手といふ手なげて玉入れ秋晴るる この句にも「手」が登場する。本句集にはあるいは「手」が多く詠まれているかもしれないって、ふっと思った。この句は、運動会の玉入れの様子がよく見えてくる。赤白の玉を投げ入れるのだが、それはもう手の活躍なくしては考えられない。元気な手がみえてくる。躍動する手だ。「秋晴るる」の季語がいい。気持ちのよい運動会の一日。ほかに手が登場する句に〈てにうけてつきのひかりのおもさかな〉というのがあって、心ひかれる一句である。 句集名となった一句は、 恐るるはゴッホの椅子と蕪一個 この句については、髙柳克弘さんの解説を読んでほしい。「「ゴッホの椅子」や「蕪一個」を「恐るる」という表明には、どんな意味があるのだろう。」と髙柳さんは記し、ゴッホの絵がかたるもの、そしてそこから敷衍して小林秀雄の「ゴッホの手紙」にみる見解を紹介しつつ、「恐るる」の意味をさぐっていく。髙柳さんならではの読みがあって、おもしろい。「蕪」についてもふれながら「この作者の独断と偏見こそを買いたい。独断と偏見は、一般社会では厭わわれるが、それを失くした俳人などに、どんな存在意義があるというのだろう。」と。 二〇一八年刊行の『湾岸』をもって俳句を卒業したつもりでした。その後三年ほどスイミングにうつつを抜かし、同時にひさびさ登山を再開しました。関東近県の二・三千メートルクラスの山を週二回位登ってしまうと、いよいよ登る山がなくなり、以前から興味のあったトレイルランニングを始めるようになりました。丹沢や奥多摩、奥武蔵、山梨などの登ったことのない低山を走るようになり、これがなんとも快適で楽しく、日に九十キロ位走ったこともありました。特に誰とも会わぬナイトランは極上の楽しみになりました。山の中を獣のようにかけめぐる楽しさは、まさに生きていることのダイナミズムそのものでした。 そんな風にトレイルランニングを楽しんでいるときでも、実は『湾岸』に詠んだ一句が、宿題のように頭の片隅を離れず、軽く責め立てられるような日々を送っていました。それを解決しないかぎり、明日はないかのような感じでした。そんなある日、図書館で見た角川源義の一句に触発されて、また俳句を詠んでみようかと思うようになりました。そして俳句とは虚を楽しむ言語表現と思えてきて、見えないものを見る視点に立って、これからも虚と実の間で俳句表現の可能性を追求していこうと考えるようになりました。そんな思いのいくつかをこの句集から汲み取っていただけたら有難いです。 「あとがき」を紹介した。 本句集の装幀は、山根佐保さん。 伊藤幸二さんにふさわしいスタイリッシュな仕上がりとなった。 表紙。 見返し。 上梓後のお気持ちをうかがった。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? 今回の句集はふらんす堂句会に参加して、高柳克弘先生の教えを受けていたころの主に俳句中断以前の作品が半分以上含まれているために3章に区分けしました。 本来なら一つのテーマに沿って一冊の句集としたかったが、それが難しかったのでこの第二句集はある意味通過点と考え、また次へ向かうためのステップとも考えました。 しかしこうして本という形にしてみると、自らの発展の仕方が如実にわかり短い作句時間を考えれば、ひとつの大きな成果だったという感慨が生まれてきました。 (2)この句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい 自分としては若いころから考えていた「物質の透過性と不可侵性」ということを表現したかったことが、今回本にした最大の目的でした。 その点でいえば「箸は手に」の章の15句程度ですが、かろうじて表現できたかなと思っています。 そのほか虚と実という文学的課題を もう少し深められればよかったのだけど、今日の時点で出版しておくことが節目と思えたので今回の作品が、今の限界かとも感じています。 だが物質による人間存在のあやうさは表現できたと確信しています。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 あとがきに書いたように、俳句とは虚をたのしむ遊びというコンセプトをもちながら 先人からあらたに教示いただくような作業を続けておこうと思っています。 同時に人間という存在が 自然と融合しながらまたその自然から疎外されているという、そのアンビバレンツな状態の解消ということを俳句表現の中に探っていくことが最大目的だと思っています。 伊藤幸二さん。 昨年の10月1日にご来社のときに。 わが死後も月そこにある麦酒かな 伊藤幸二 早咲きの桜。 神代植物園にて。
by fragie777
| 2026-03-03 20:08
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Comments(4)
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
創立記念日、おめでとうございます!!
雛祭の日に創業されたとは、tってもチャーミングですね。 39歳は、まだまだ働き盛り、女ざかり。 ますますのご発展をお祈りいたします。
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