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2月10日(火) 旧暦12月23日
向日葵の枯れ。 重たい頭をささえつづけてこうして無残に時間に耐えている。 なんというか。。。 井上康明著『飯田蛇笏の百句』が出来上がってくる。 執筆者の井上康明さんがじっくりと取り組んでくださった一冊である。 ご依頼をしてから、ほぼ十年の月日がながれた。 感慨深い思いで手にする。 本文より数句と鑑賞を紹介をしたい。 人口に膾炙している有名句がたくさんあるが、できるだけそうでないものを。と言っても知る人はもちろんいるのでしょうけど。 ふるさとの雪に我ある大炉かな 『山廬集』明治四五年 郷里へ帰って数年、その暮らしにも慣れてきた頃である。雪の日、作者は大きな囲炉裏に坐って火を見つめている。降り積む雪のなかに、境川村の人々の暮らしがあり、その向こうに山国の山野がある。ふるさとの広大無辺の時間と空間のなかの「我」という存在を作者は確かめているのだろう。大炉にはふるさとへの安らかな信頼が託されている。 明治四十二年、二十四歳で早稲田大学を中途で帰郷し、その三年後、明治四十五年の作。前年結婚、この年長男が生まれた。 秋鶏が見てゐる陶の卵かな 『霊芝』昭和一一年 陶の卵とは擬卵である。擬卵は、本物の卵を採ったあとに置いて、産卵を控えさせ、雌の鶏の体力を護るためのものだという。鶏はそんなことは知らない。何となく疑わし気に擬卵を見ていると作者は描写する。秋鶏という季節の描写が、乾いた日差しと実りの季節の明暗を思わせ、鶏の視線のいぶかしげな様子を際立たせる。鶏のまるで人のような視線は、秋だからこそだろう。鶏と擬卵、それを見ている作者と位置関係が明快であり、秋の昼下がりの空間が現れる。 夏真昼死は半眼に人をみる 『白嶽』昭和一六年 夏の昼、死にゆく人がうっすらと目を開けてこちらを見ている。生死の境界をたしかに捉えた冷厳な世界である。次男數馬は、日本歯科医専卒業後、研修医として勤務していたが、この年六月二十六日、肺結核により二十七歳で病没した。句集には「病院と死」と題した連作七十五句があって、五十六歳の蛇笏の悲傷を伝える。これはそのなかの一句、子は死の世界に居て、この世に居る父である作者を見つめている。蛇笏は、生のなかに死を見、死のなかに生を見ている。悲しみを超えた、冷徹な俳人としての世界である。 夜の蝶人ををかさず水に落つ 『椿花集』昭和三七年 異様に切迫しているようでいて、どこか余裕がある一句である。蝶は春の季語だが、この蝶は、夏のおおぶりな揚羽蝶のような蝶ではないか。夜になって舞い遊ぶ蝶が水に落ちたという。「人ををかさず」という表現は、人と関わりなく、という意味だろう。この一語によって、一句は人の肉体を連想させ、濃密な世界がそこに展開する。「夜の蝶」は女性を思わせながら、深い夜の闇を想像させる。美しい文様の夏蝶が、水に落ちていく情景を想像する熱気ある世界である。 巻末の解説は、 芋の露連山影を正うす をりとりてはらりとおもきすすきかな くろがねの秋の風鈴鳴りにけり 山国甲斐に過ごした飯田蛇笏の俳句は、雄勁荘重ななかにかすかな華やぎが漂う。その俳句の背後には、深く自然が横たわっている。その自然は、季節の廻りとともに移り変り、そこに暮らす人々に豊かな恵みをもたらす。神々しいほどの清らかな静けさを湛える自然の奥深さも、時として妖しく、時として猛威を奮い人々を怖れさせる。 という書き出しではじまる。 そして時間軸にそって、蛇笏の人生とその俳句のありようを丁寧に解説していく。 本著は、飯田蛇笏への入門書として、また研究書として、すぐれた一冊となったのではないだろうか。 それにしても名句が多いなあ、蛇笏には。 死火山の膚つめたくて蛇いちご 飯田蛇笏 すきな一句である。 明日はお休みらしい。 嬉しい。。。
by fragie777
| 2026-02-10 18:45
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Comments(2)
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