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12月30日(火) 旧暦11月11日
チチッって声がするので見上げると四十雀が。 たくさんの言語をもっている四十雀である。 カメラをむけると飛び立ってしまう。 「週刊新潮」1月1・8日号の小澤實さんによる「新々句歌歳時記」は、片山由美子句集『水柿』より。 覚めかけてゐて初夢と思ひをり 片山由美子 「覚めかけている夢のなかで、初夢と意識している。あっさりとしているが、初夢をだいじに思っていることが伝わってくるのがいい」と小澤實さん。 夢といえば、先日野良猫の夢をみた。 子猫が4匹ほどいて、、わたしがせっせと餌をあたえている。 しかし、わたしは立ち去らなくてはならない。 どうしようって思っているところで眼が覚めた。 猫たちはとても可愛いかったな。。。。 今日は田中裕明(1959~2004)さんの忌日である。 もう20年以上が経ってしまったとは。。。 くらければ空ふかきより落花かな 『夜の客人』 くらい深空から桜の一片が落ちてくるという。夕暮だろうか。真夜中か。昼の曇天か。ここに現実と言葉の違いがある。現実なら、時刻や空模様は観測すれば一意に定まる。しかしこれは現実への当てはめも可能というだけの言葉の世界。平仮名表記は物理的な暗さへの限定さえ避ける。抽象的なくらさを前に夜とか昼とかは問題にならない。現実には枝があるのだろうが、それも詠まれていないから無視できてしまう。虚空の襞から突如花が降ってきたようだ。言葉に沿って読めば、これは冥い他界からの落花ということになる。現実と言葉の二重写し。季語=落花(春) まだよまぬ詩おほしと霜にめざめけり 「ゆう」二〇〇五・一 しんしんと霜が降りたあとの朝ではなく、もしかしたら霜夜に途中覚醒したのかもしれない。単純に自分が読んでいない詩文がたくさんあると解しても、もしくは自分自身がもっと詠んで詩人としての仕事を果さねばと解してもよい。じつはこの二つは同じことだ、詩とは自分の意識の外側からやってくるものなのだから。誰かが書いた詩をはじめて読むときのように、人は自分の詩の閃きに出会う。何にせよ定命のあるかぎり、すべてをよみつくせることはない。窓外の霜は、まだ出会っていない言葉の数々のようでもあり、死のしるしのようでもある。季語=霜(冬) 言葉の人であったけれども、世界の真理を究めようとする人であったけれども。裕明は、言葉は思考のみからなるのではなくて、実人生や身辺のくさぐさのことによって生れるものなのだということを、人生を進めるにつれて実感した詩人でもあったのではないか。(巻末・解説より) 今日はすごく働いた気がする。 なんだか、疲れてしまった。。。 明日は一年で一度のみだけど、料理らしい料理をつくる。 おせちはつくらない(つくれない) けど、わたしとしては一日ほぼ台所にたちつづけることになる。 何をつくるのかって。 ふふっ、 内緒よ。 烏には教えた。
by fragie777
| 2025-12-30 18:21
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