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12月22日(月) 冬至 旧暦11月3日
冬紅葉。 おおかた散ってしまってこの色だけが華やかだった。 仕事納めまであと一週間もないことに気づいた。 ちょっとやばいわ。 こうしてはいられない、と、思い切って立ち上がったとたん、 わたしはセーターをひっかけてしまった。 今日はモコモコのセーターを着ている。 おおきく飛び出した毛糸をどうしようかまよったあげく、 鋏で切ってしまった。 多分わかりゃしないと思うわよ。 なんせ、モコモコだからね。。。 新刊紹介をしたい。 A5判変型半上製カバー装 204頁 著者の益岡茱萸(ますおか・ぐみ)さんの第2句集となる。第1句週『汽水』は、2015年にふらんす堂より上梓されている。第1句集より10年の歳月が経過したことになる。益岡茱萸さんは、1957年生まれ。経歴には「コピーライター・ディレクターとしての活動の傍ら、星野高士氏を師とする広告制作者の句会に参加。以来、俳句を楽しむ生活に。玉藻同人。」とある。 句集『汽水』で自費出版文化賞詩歌部門賞受賞。宝井其角俳句大賞、星野高士準賞などを受賞。東京コピーライターズクラブ会員。日本文藝家協会会員。現代俳句協会会員。日本伝統俳句協会会員 句集名の「雨の器」は、〈空蟬の雨の器となりにけり〉より。 我が家のベランダで蝉が事切れていた。此処で旅を終えたのも何かの縁。塵にするのは忍びないと、家人がイエロージャスミンの鉢の土に骸を置いた。あまり見ないようにしていたが、水を撒けば目に入ることもある。数ヶ月の間に、徐々に土に還っていった。さながら鉢の中の九相図である。そして綺麗に形が消えた時、まるで誰かを看取り終えたように、安堵した。 「あとがき」を紹介した。 好きな句を数句のみあげてみたい。 顔寄せて私の息と百合の息 夏草や廃車を咀嚼する勢 こころ変はり透けてゐるなり絹扇 肩に手のありて花火を待ちにけり 美濃紙の起伏を愛す秋初め 溺れつつ水に戻るや初氷 弁たたぬ人好もしくいぬふぐり 網戸より覗き見えたる大辞林 白鳥より秋蝶白しウトナイ湖 二合半で別れる極月の背中 木蓮の傷なき白のひと日なり 持つて行き持つて帰れるバナナかな 生姜市禊紙にて拭ふもの 秋麗や花嫁光りつつ過ぎる 狂歌なれば菫野の果てうち捨てよ 顔寄せて私の息と百合の息 「百合」の生々しさがつたわってくる一句だ。百合ってそういう花である。とくに白百合は。「顔寄せて」とあるが、百合の香をかぐために顔を寄せたのだろうか。ちょうど百合と作者がむきあうかたちになった。その時作者はイキモノとしての百合を強く意識したのか。百合のまえでの自身の息づかいを意識し、向き合っている百合そのものからも息づかいを感じたのだ。人間の生に拮抗するように生きている百合。それを「百合の息」と言い止め、それ以上語らないゆえに百合の存在感がおもく伝わってくる一句となった。 肩に手のありて花火を待ちにけり 次第にくれてゆく薄闇のなかで花火があがるのを待っている。ひとりではなく、ともに待つ人がいるのである。どういう関係の人かといえば、肩に手をおくことを許す関係である。作者は花火をまちながら肩におかれた手をつよく意識している。手のひらのぬくもりが肩をとおしてつたわってくる。「肩に手のありて」という措辞からみえてくるものは、相手を受容する大人同士の信頼関係である。「肩に手のありて」というつつましやかかつ丁寧な述べ方によって、作者がこの関係に充足していることがわかる一句である。 網戸より覗き見えたる大辞林 「網戸」が季語。面白い一句。こまやかな編み目から部屋のなかをのぞいたところ大辞林がどんと置いてあった。「網戸」から見えた大辞林であるというところがおかしい。戸が開かれていてテーブルの上に大辞林があったとしてもそれだけでは俳句にならない。「網戸」という季題を巧みに効果的に用いた一句だと思う。網戸から部屋をのぞけば、それはいろんなものが見えてくる。しかし、多分、この時は、網戸の存在感にまさるものはなかった。それをつかさず一句にした。それにしてもこの大辞林、あまりにも堂々としていると思いません? 俳諧性のある一句。 木蓮の傷なき白のひと日なり 好きな一句である。白木蓮を詠んだ句。白木蓮の花びらは堅くて厚くてそして傷つきやすい。すぐに痛んでしまう。ある日、白木蓮が咲いていた。傷一つない白木蓮である。そのことが作者のこころを打った。この句の巧みさは、「傷のなき白木蓮の」という措辞ではなく「木蓮の傷なき白の」と、木蓮とその色の白をわけて詠んだことによって、読者に傷のない木蓮の「白」をことさらに印象づけたことだ。それによって「ひと日なり」の「ひと日」が、作者にとってかけがえのない一日となったのである。 持つて行き持つて帰れるバナナかな これもなんというか人を食ったような一句であるが、おもしろい。バナナねえ。そうか。っておもってしまう。出かける用ができた。半日以上拘束され慌ただしい時間になりそう。食事する時間なんて持てないかもしれない。しかし、空きっ腹では仕事をしたくない。頃合いをみて食べられるものとしてバナナをバックに放り込んだ。バナナというのはなかなか扱いやすい形態をしているし、空腹も満たせて食べやすいし、栄養もあるし、食べ物としてすぐれものである。で、結局、そのバナナを取り出すこともなく、そのまんま持ち帰る事になってしまった。ヤレヤレである。バナナは持って行ったときとおなじように明るい黄色をしてバッグの奥で出番を待っている。 校正スタッフのみおさんの好きな句は、〈餅花は大きな声を嫌ひけり〉「本当は作者が大きな声嫌いなのではないでしょうか」と。 第一句集『汽水』を出版して、十年が経った。その間の忘れられない出来事といえば、身近な人々が多く鬼籍に入ったことだろうか。肉親や先輩ばかりではない、大切な仕事の片腕や、思いもよらぬ若い友人も。共に語ることのできなくなった想い出は、消えることはないけれど、ただ寂しく漂うばかりだ。 「あとがき」を紹介した。 本句集の装丁は、三橋光太郎さん。 いままでにはない造本の句集となった。 三橋光太郎さんが撮影した写真でまず紹介します。 本の後ろに敷かれているのは、このカバーを開いた裏側である。 カバーは裏表を印刷し、左右上下におりたたんだもの。 すき間から裏側をみせている。 裏側の神はグリーンからピンクへとグラデーションで変化してゆく。 本体からはずされたカバー。 前の見返し。 薄グリーンの用紙。 後ろの見返しはピンク。 グリーンとピンクはカバーの裏側の色とひびきあわせている。 扉。 以下はyamaokaの写真。 カバーをとった表紙。 秋の夜の吹きても熱き加賀棒茶 『雨の器』には、人以外の生き物の句が多い。命の儚さへの思いを、彼らの短い生に託したのかもしれない。(あとがき) 上梓後のお気持ちをうかがったところたいへん丁寧に答えてくださった。 ○句集を手にしたときのお気持ちは? 装丁のお打ち合わせの中で、当初出ていたグラデーション案を思い切って裏返しにして、紙のスリットから色が覗くような形になりました。この仕上がりが想像以上に美しかったです。雨の色のような、明け方や夕暮れの光のような、空蝉の背中の裂け目にも見えてきます。贅沢な裏地の着物のような洒落っ気もありますね。素敵な装丁にしていただき、大変感謝しています。 〇句集にこめた思いをお聞かせください。 星野立子に「わが心言ひ得し言葉爽やかに」という句がありますが、そんな一句が授かればといつも思っています。そして句集を見ていただいた方から「私の心でもある」と言っていただくこともあり、そういった共感が何より嬉しいです。 広告の仕事では、個人的であればあるほど普遍に近づくと信じておりました。これからも自分の心を掘り下げていけたらと思っております。 〇句集刊行後の今後の俳句へのヴィジョンを。 句集を刊行することは、小さな卒業のような気がしています。 俳句は50近くになって始めたので、第一句集「汽水」で小学校を卒業して、第二句集でやっと中学を卒業したあたりでしょうか。その先の高校や大学に行けるのか今はわかりませんが、なるべく長生きをして、自分の俳句がどう変わっていくのかを楽しんで見ていきたいです。 益岡茱萸さん(右)と装丁家の三橋光太郎さん。 9月9日のご来社のときに。 「このようなのはどうですか」と三橋さんがいろいろと提案。 それを熱心に聞かれている益岡さん。(ご本人の希望によってこの写真を) 高橋睦郎さんが、お電話をくださった。 「『雨の器』読みました。いい句集でした。目のつけどころが面白かったです」と。 そして、笑いながら、「益岡さんにむけてちょっとへんな句をつくりました。」と。 ぐむわよといつてぐみのみぐみにけり 睦郎 益岡茱萸さんにこのことをお伝えしたところ、 畏れ多くて、絶句しております・・・・ ほとんど気絶しております・・ ということでした。。 今日は冬至、 柚を買って帰ろう。
by fragie777
| 2025-12-22 19:37
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Comments(1)
ニットのほつれは切っちゃダメです!
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