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11 月19日(水) 旧暦9月30日
神代水生植物園の山桜の紅葉 老木のこのワイルド感がいい。 紅葉の色も落ち着いていて良き色である。 新刊紹介をしたい。 待たれていた一冊である。 正岡子規の詩歌における革新運動はしられるところであるが、それではその理念にもとづいていかなる短歌を発表してきたか。 いくつかの代表短歌以外にわたしたちは案外知らないのだ。 もう少し知っておきたいとわたしは思った。 「正岡子規をやりましょう」とお会いしたときに、坪内稔典さんは引き受けてくださったのだ。 本書より、短歌と鑑賞をいくつか紹介をしたい。 夢さめて先づ開き見る新聞の予報に晴れとあるをよろこぶ この歌は雑誌「ホトトギス」(明治三二年四月発行号)に載せた「病牀喜晴」一〇首にあるが、子規の短歌の仕事は新聞「日本」が中心だった。前年、「歌よみに与ふる書」「人々に答ふ」を「日本」に連載した。その当時は、「歌は俳句の長き者」(「人々に答ふ」)と思っていたが、実際に歌を詠むことを通して、子規は短歌と俳句の違いを体得する。万葉ぶりを理想としながら、日常の言葉(俗語)を用いて日常の些事に詩をみつける、それが子規の短歌だったと言ってよい。朝、新聞を見る。『竹乃里歌』(明治三二年) 四年寝て一たびたてば木も草も皆眼の下に花咲きにけり 「始めてによりて立ちあがりて」と前書きのある歌。子規は明治二八年以降、病臥の日々が次第に増えるが、その実感がこの歌だろう。これから亡くなるまで、木も草も自分の眼の位置に、あるいは眼の上に存在することになる。ちなみに、講談社版『子規全集』の年譜によると、この年の八月二八日、を買った子規はそれをついて隣の陸羯南(くがかつなん)(「日本」の社長)の家へ行こうとしたが、途中で断念、背負われて引き返した。それでもこの年は人力車で何度か外出している。先の年譜によるとこの年の子規の短歌の総数は三六八首。『竹乃里歌』(明治三二年) 真砂(まさご)なす数なき星の其中(そのなか)に吾に向ひて光る星あり 雑誌「短歌往来」(令和四年七月号)が「天体のうた 星座のうた」という特集をしている。その特集で近・現代の「天体のうた」三〇首を選んだ山本夏子は冒頭にこの歌を挙げている。また、伊波真人、横山未来子も「天体の愛誦歌」としてこの歌を取りあげた。三人もが話題にしたのはこの歌だけであり、この星の歌の人気の高さを示しているだろう。芥川龍之介もかつて「侏儒の言葉」の冒頭でこの歌を話題にした。高浜虚子は昭和六年に「われの星燃えてをるなり星月夜」と詠んだが、子規の歌を意識して「われの星」を仰いだのかも。『竹乃里歌』(明治三三年) 朝な夕なガラス戸の外に紙鳶(たこ)見えて此頃(このごろ)風の東吹くなり 「朝な夕なガラスの窓によこたはる上野の森は見れど飽かぬかも」(029)と発想が近いが、「風の東」という表現が面白い。東風をこのように表現したところ、子規の工夫か。明治三三年二月の子規庵歌会に出したこの歌は、一一人のうち七人が採った。子規は新聞「日本」に載せた歌会記に「思ひの外に多くの点を得たり」と書いている。彼はこの年の一月から三月にかけて「叙事文」を「日本」に発表、「実際の有のままを写す」写生を提唱した。写生は「読者をして己と同様に面白く感ぜしめん」とする方法だ、と子規は説いた。『竹乃里歌』(明治三三年) くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる 「庭前即景」(四月二一日作)一〇首の三番目に出ている歌。私はこれを子規の短歌の代表作と見ている。三つの「の」の生み出す滑らかさは薔薇の芽や春雨の感触だ。斎藤茂吉は評論集『正岡子規』(創元社)において、子規の短歌は「俳句調から万葉調になり、内容の複雑から内容の単純」へ至った、と述べているが、この歌などはまさにその例だろう。内容は薔薇の芽に春雨がかかっているというただそれだけ、それだけが五七五七七の調べによって鮮やかに際立つのだ。茂吉はこの歌などに子規の「生」を指摘するが、「生」を言う必要はないだろう。『竹乃里歌』(明治三三年) くれなゐの旗うごかして、夕風の吹き入るな べに、白きものゆらゆらゆらぐ、立つは誰ゆ らぐは何ぞ、かぐはしみ人か花かも、花の夕 顔 「なべに」は「~と同時に」。(095)の歌にもあった万葉語だ。やはり万葉語の「かぐはしみ」は、きれいでとってもいい香りがする、という意味だろうが、赤い旗のそばで人か花か混然としたそのかぐわしいものの正体は、実は夕顔の花だよ、というのがこの長歌。まるで夕顔の君、あるいは夕顔の少将が赤い旗のそばに立っている気配だ。この歌、「病牀六尺」(九月五日)の記事の末尾にあり、旗は知人に貰った中国製、夕顔は向島百花園から届いた鉢植えだった。結局、子規がこの世に遺した最後の歌がこの幻想的な長歌だった。『竹乃里歌』(明治三五年) 坪内稔典さんが、子規の代表歌とする「くれなゐの二尺伸びたる」の歌を、わたしは一番すきかもしれない。ここでは紹介しないが、「瓶にさす藤の花ぶさ」もよく知られた一首である。俳句でもそうだが、作られた短歌の背後には病臥でよこたわる子規がいるのである。 解説(「三年間の歌人」は坪内さんの人間の在り方論(?)にまでおよんでおもしろい。 その一部分を抜粋してみたい。 子規は中学生時代の漢詩をはじめとして、新体詩、小説、俳句、写生文、短歌、水彩画というように次々と異なるジャンルで活動した。しかも、それぞれにおいて雅号を用いた。明治三一年に書いた自筆の墓碑銘には「正岡常つね規のり又ノ名ハ処ところ之の助すけ又ノ名ハ升のぼる又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人伊予松山ニ生レ︙︙」と本名(常規)、幼名(処之助)、通称(升)、雅号(子規以下)を羅列している。彼はこれらの名によってその時々を生きた。別の言い方をすれば、いくつもの名によっていくつもの個を生きた。個人が彼においては複数だった。 やや余談に及ぶが、ボクらは一貫性の重視になんとなくとらわれている。個人は生涯にわたって一つ、と思っている人が多い。職業だって一つ、結婚だって一回がよいと思っていないだろうか。もちろん、名前も死ぬまで一つという人が大多数だ。でも、こうした一貫性の重視は明治以降の、つまり近代の特色ではないだろうか。ところが、子規は一貫性よりも多角性を生きたのではないか。何度も変身する(別の個になる)ことが子規の生きるエネルギーだった。一貫性を重んじる側から見ると、子規は三年しか短歌にかかわっていない、ちょっとやっただけではないか、と見えるだろう。実際、そうした見方をして、子規の俳句や短歌は浅い、厚みがない、という人がいることをボクは知っている。だが、何十年もすることと、集中して三年だけすることに、はたして質的な差があるのだろうか。むしろ、集中した三年の方がより大きな力を発揮するかもしれない。 複数の個を生きるにはある種の軽さ、すなわちフットワークの軽さがあるように思う。過去の色々を引きずらず、今を生きるのだ。この今を生きることが、彼の説いた写生の実践だったかもしれない。ありのままに、そして読者もまた面白いと思うことを表現する写生は、常に今に立つことだった。その今に立つことを複数の個を生きる軽さがもたらしたのではないか。 というわけで、竹の里人という三年間の歌人はすごいのだ。今なお彼は個人の在り方を示唆している、という気がしないでもない。 「何度も変身する(別の個になる)ことが子規の生きるエネルギーだった。」と坪内稔典さん。 ああ、そうだったのかもしれない。。 「変身」 とても魅惑的なことば。 しかし、わたしにはハードルがたかい。 一個のわれに四苦八苦している。 ところで、本書の担当はPさん。 「好きな子規の一首は?」と聞いたところ、 「この本の裏に引用しているもの」という答え。 それゆえに、「猿!」 了解したのだった。 訃報があります。 俳人の伊藤伊那男氏が、11月14日に亡くなられました。 享年76歳。 ご逝去をいたみ、こころよりお悔やみもうしあげます。
by fragie777
| 2025-11-19 20:29
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