|
カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
10月17日(金) 旧暦8月26日
蕎麦の花(ソバノハナ) 神代水生植物園にて。 「はい」ってPさんから,あめ玉をひとつ渡された。 「あら、なつかしい。味覚糖(みかくとう)だわ」と言ってうけとった。 「そういう名前じゃありません。純露(じゅんつゆ)です」とPさん。 姿かたちはまったく同じなのにとおもいながら、透明なフィルムをはがしたところ、あら、いやだ、手からすべりおちて机のしたに行ってしまった。 かがんで机の下の闇からそれをひろいあげたところ、飴の表面ねばねばしているので、きっと細かなホコリが密着してるだろうとおもって水道水で洗った。 そして、口に放り込んだのだった。 舌にのせたとたん、やっぱり。 その味はむかしながらの「味覚糖」だった。 新刊紹介をしたい。 小西昭夫(こにし・あきお)さんの既刊句集『花綵列島』『ペリカンと駱駝』『小西昭夫句集』の三冊からと『小西昭夫句集』以後よりの精選句集400句を収録したものである。ほかにエッセイ「寅さんの俳句」、内田美沙、小西雅子による解説を収録。小西昭夫さんは、愛媛県伊予郡の生まれ。愛媛大学俳句会で俳句をはじめられた。「雫」(西田真己主宰)会員。「子規新報」編集長。愛媛県松山市在住。 学生時代に「愛媛大学俳句会」で俳句を始めた。作り始めたころは、歴史的仮名遣いで書いた句もある。現在は文語的表現をするときも現代の仮名遣いで表記しているが、本書では発表時のままの表記にした。旧制松山高等学校の流れをくむ「愛媛大学俳句会」は自由な場だった。その俳句観は「俳句は十七文字前後の詩」というものだった。早い話がメンバーは無季俳句、自由律俳句、口語俳句、有季文語定型とおのおのが書きたい俳句を書いた。わたし自身の俳句に対する思いもさまざまに揺れたが、結局はまた「俳句は十七文字前後の詩」というところにたどり着いた気がする。自分がどんな俳句を書くかは自由だが、自分がよしとする物差しでしか他人の俳句を読もうとしない俳人が多いことには閉口している。俳句はもっと豊かである。 「あとがき」を紹介した。「俳句に対する思いもさまざまに揺れた」結果、「俳句は十七文字前後の詩」というところに落ち着かれたようである。 この「俳句は十七文字前後の詩」とは、「無季俳句、自由律俳句、口語俳句、有季文語定型」であるということである。 ということで、17文字前後ということを意識されながら自由に俳句を書かれているのであるとおもう。 愛妻家小西昭夫氏蠅叩く 帯にある一句である。臆面もなくご自身を「愛妻家」と呼び、どうどうたる小西氏である。「蠅叩く」の下五でちょっとずっこける。面白い一句である。 この句集の担当のPさんが言うには、小西昭夫さんは、実際も愛妻家であって(あくまで俳句をみてではあるが)「愛妻家」としての句がたくさんあるという。 みつけてみよう。 立春の妻を見ておりうしろから 空港に妻を送って夏休み がちゃがちゃも来ている妻の誕生日 梨むいて二階の妻を呼びにけり 骨折の妻と二人の春惜しむ われは黒妻は赤なる雑煮椀 愛妻家なれど冷奴を愛す やはり妻の句はたくさんある。そして「愛妻家」と自身をよぶ句もふたたび現れた。こうして見ていると「妻」を詠んだ句はどれも普段着の顔をしていて、いいと思った。このなかでわたしが特にすきな句は、〈梨むいて二階の妻を呼びにけり〉である。日常の風景がとてもさりげなく詠まれているように思えるのだが、どうだろうか。 収録の小西昭夫さんによるエッセイは、2021年の9月19日四国ユネスコ大会で講演したものを収録してある。「寅さんの俳句」と題して「渥美清の俳句」について触れたものである。(風天は、渥美清の俳号) さくら幸せにナッテオクレヨ寅次郎 風 天 山吹キイロひまわりキイロたくわんキイロ生きるたのしさ お遍路が一列に行く虹の中 などの句をあげて、 最初から結社とは無縁だった風天俳句は、ある意味無茶苦茶です。季語がいくつも在ったり、違う季節の季語を平気で使う。十七文字にもこだわらない。無茶苦茶ですが自由で風通しがいい。風天俳句を読みますと、これこそが本来、俳句の持っていた豊かさではないかと思わされるのです。俳句は俳句が本来持っていた自由さ、豊かさを取り戻さなければならないのではないか。それが、寅さん、いや風天俳句を読みながら強く感じたことでありました。 とあり、ご自身の俳句観を語っている。 内田美紗さんの解説は、句集『ペリカンと駱駝』について評している。「句集『ペリカンと駱駝』のやさしい頑固さ」と題して、小西さんの俳句にみる「やさしい頑固さ」に触れている。 泣きながら駱駝のわたる天の川 ビール飲む腰を痛めたペリカンと カッコイイ鳥や動物はいろいろいるのに、なぜペリカンと駱駝なのか。思うに、小西昭夫は、ペリカンの嘴に垂れ下がったり駱駝の背中に盛り上がったりしている、まるでじゃまもののようなふくらみに、切ないほほえましさを覚えるのだろう。人の性格はしばしば犬好きと猫好きに分けて語られ、頷けもするのだが、ペリカンや駱駝に惹かれる小西昭夫は、さしずめ〝やさしい臍曲がり〟というところか。 それにしても、こう詠まれると、駱駝はたしかに泣いているし、ペリカンはまさに腰を痛めていると納得させられるわけで、昭夫俳句は、おもしろがっていると思わせながら存在の本質に迫ってもいるのだ。 「愛妻家なれど冷奴を愛す」「立春の妻を見ておりうしろから」など妻の句は多数。妻に引け目でもあるのだろうか。どんな男か顔を見たいと思った。なるほど。会って話すと彼の句の抒情性に納得する。 と書くのは、解説のもうひとりの小西雅子さん。同じ名字であるが、小西昭夫さんの妻ではない。 担当のPさんの好きな句を紹介しておきたい。 セーターを脱ぐ一日を共に脱ぐ 満月を仰げば重さ抜けてゆく 父といて焚き火に枝をつぎ足しぬ 行く年をはみ出して浮く白鳥は 浮力あるごとし桜の小学校 マニキュアの指が尻から枇杷をむく セーターを脱ぐ一日を共に脱ぐ ほんとうにこんな感じのときってある。Tシャツでもなく、ジャケットでもなく、身体をあったかくおおってくれていたセーター。下から上へむかって腕を交差してめくりあげていくときって、脱皮していくような感覚である。ゆるゆるとセーターをめくって脱ぎ捨てたときの開放感は、ほかのどんな衣でも味わえないとおもう。「脱ぐ」「脱ぐ」と繰り返されることによって、脱力感は二倍となる。今日一日よ、さらば。っていう感じ。 浮力あるごとし桜の小学校 桜がこんな風に詠まれたことってないのではないだろうか。満開の桜はその淡い色によって満開であればあるほど重さをうしなって浮遊する感がある。桜のマジックである。この一句は満開の桜咲く小学校を遠望したのである。きっと沢山の桜の木が植えられている、桜の木が小学校をぐるりと取り囲んでいて、桜のなかに学校の建物がみえる、そんな景かもしれない。桜であればこそ、納得のいく一句だ。 マニキュアの指が尻から枇杷をむく エロティックな一句である。小西さんの俳句はそこはかとないエロティシズムを感じさせるものがかなりあるのだが、これはそこはかとないのではないエロティックな一句であると思う。「マニキュアの指」という措辞によって、まず真っ赤なマニキュアをした細い白い指が目にうかぶ。真っ赤でなくふとい指を目にうかべてもいいのだが、どういうことか、白い細い真っ赤な指を思ってしまう。小西さんもそう思わせたいのではないか。そしてその措辞につづくのは「尻」という言葉、であるから、真っ白な人間の尻をおもいうかべてしまう。これだって真っ白な人間の尻でなくてもいいのだが、実際人間の尻ではなく、枇杷の尻なのであるが、一瞬の人間の白い尻を経ての枇杷の尻なのである。しかも「むく」という言葉が「皮」が省略されていることによって、エロティックに働く。マニキュアの指に尻からむかれることによって枇杷もまたエロス的存在となっている。エロスしたたる一句である。 出し忘れた手紙のように枇杷の花 小西昭夫
by fragie777
| 2025-10-17 19:14
|
Comments(0)
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||