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10月3日(金) 水始涸(みずはじめてかるる) 旧暦8月12日
芒。 先日遊んだ名栗はもうすっかり深秋を感じさせた。 こちらは力芝。 山里では秋はいよいよ深まっていく。 「ふらんす堂通信」編集期間まっただ中。 「『編集コラム』を書いてください。そうすれば君嶋さんにイラストをお願いできます」というPさんの催促もあって、「コラム」と『編集後記」は仕事の合間にどうにか書き上げた。 「コラム」のお題は、「わたしの好きな秋の味覚」。 これは案外だれにでも簡単にかけるかもね、ただ、好きなものが重なってしまうかも、と思ったのであるが、案外ばらけたらしい。 ほかのスタッフのすきなものを知るのはイラストつきのゲラになるまでのお楽しみである。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯有り 208頁 2句組 俳人・対馬康子(つしま・やすこ)さんの第5句集である。2013年から2018年までの作品を収録。対馬康子さんは、昭和28年(1953)年香川県高松市生まれ。昭和48年(1973)中島斌雄「麦」入会するとともに東大学生俳句会に参加し、山口青邨の線をうける。平成2(1990)年有馬朗人主宰「天為」に創刊参加。現在は「麦」会長。「天為」最高顧問。現代俳句協会副会長、国際俳句協会理事、日本文藝家協会会員など、多くの役職をもち、現代俳句大賞、角川俳句賞などほかの選者をつとめる。俳句のために日々忙しく尽力をされている方である。 句集名は「百人」。 百人に死は百通り薔薇の香水 よりの一句である。 「百人に死は百通り」という措辞は、ある意味それほどドキッとする措辞ではないが、下5に対応する「薔薇の香水」の字余りとその意味内容が、読み手にかすかな衝撃をあたえる。「薔薇の香水」とは。。人間のさまざまな死のありようがあって、そのことは多分、作者にとっては現実の目の前にある「死」というリアルから出発したものであるとわたしは思うのだが、その「死」は、その人間の「生」と同様、置き換えることのできないものなのである。おもうに「薔薇の香水」とは作者にとって特別なもの、としてある、百人の百通りの死は、一人のかけがえのない人の死という意味を刻み込んだ謂いであり、「薔薇の香水」もまた、特別な思いをもって死者へふりそそがれるものなのだ。 実はこの句をスタッフのPさんに伝えたところ、Pさんが漫画「刃牙(バキ)」に出てくるライバル花山薫が死にそうな母に薔薇をしぼってふりそぞぐその光景を思い出したということで、ひょっとしたら対馬康子さんは、その漫画「刃牙」を読まれていたのでは、とPさんは感激しそうになって、「いや、そんなことはあり得ませんよね」とすぐに打ち消したのだった。余計なことながら、Pさんは、「刃牙」が大好きらしい。しかし、対馬さんは漫画「刃牙(バキ)」とは無縁なお方であると断言していい。 死者に薔薇はこよなく似合うものかもしれない。 武甲嶺の男神と出会う冬花火 この句は、わが郷里・秩父の夜祭りのことを詠んだ一句であるとおもうので、是非にとりあげたかった。前書きはないのであるが、ぜったいそう。「武甲嶺」とは「武甲山(ぶこうざん)」と子どもの頃から呼んでいる山であり、甲をふせたかたちの雄々しい山である。「男神」がいい。武甲山を統べるのは「男神」である。この夜祭りの夜のみに「男神」はその姿をみせるのである。寒風が吹き荒れる夜空に華やかに花火が打ち上げられる。その一瞬に武甲山を背景に『男神」がその威容をみせるのである。秩父夜祭りをかくもドラマティックに詠んでみせた一句である。 妻でなく母でなく午後のアネモネ 著者が自選十五句の一句として選んでいる一句である。わたしも好きな一句である。「妻でなく母でなく」という措辞は、つまり作者は「妻であり、母である」人なのである。そして日々その役割を果敢にはたしている人でもあるといえる。であるからこそ、その役割から解放されているということをあらためて認識しているのだ。「午後のアネモネ」が面白い。「アネモネ」という言葉の響きは、けだるい脱力を感じさせる響きがあり、しかも「午後」というすでに一日の終焉へと向かう時間へのさしかかりにそのアネモネを見つめているのだ。アネモネに眠気を誘われているような、そんな一句である。役割の武装から解放された至福のひとときでもある。 眉太き島の子差羽観測隊 この著者の俳句としては、即物的に詠んだ一句であり、わたしの好きな一句である。ひらがなは「き」と「の」だけ。動詞もなく、漢字を多用した端的な一句である。しかし、景はよくみえてくる。島にくらしている子どもがいる。眉の太さがすぐに目に入った。きかん気の元気そうな子どもである。あるいは子どもたちとも。そこに差羽観測隊がやってきた。「差羽」は、鷹の一種である。島の子どもにとっては「差羽」以上にこの観測隊のほうが珍しいかもしれない。島の空気とはちがった空気を身にまとっている一団である。やや距離をおいて子ども(たち)はその一団を眺めている。差羽観測隊の相手は鷹である。どうしたって気合いがはいる。その気合いと子どもの太い眉が対峙している。 襤褸市の画集に開き見たる丘 これも景がよくみえてくる一句である。「襤褸市」は「世田谷ぼろ市」のことで冬の季語である。「430年以上の歴史を持つ伝統的な蚤の市です。世田谷代官屋敷を中心に開催され、700店舗以上の露店が軒を連ね、骨董品や古着、日用雑貨、植木、食料品など、多様な商品が販売され、多くの人々で賑わいます。」とある。あたたかな冬の日差しの一日、ぼろ市に行っていろいろと物色してみる。すると一冊の画集が目にとまった。ページをめくっていく。やがて作者の心をとらえたのはあるページに描かれた「丘」。それは衝撃にちかいほどの「丘」であった。この一句において作者が詠みたかったのは、この「丘」ではないだろうか、とわたしは思ったのだった。「丘」をみつめる作者には、背後のぼろ市の賑わいも消え、人の声も周囲のあらゆるものが消え去っていく。作者にとってもはや丘のみが存在している。この一句では「丘」とのみ表記されていてそれ以上のことは言っていない。だから、読者はそれがどんな丘であるのだろうか、と想像をたくましくするのである。ゆえにそれぞれが「丘」のイメージをふくらませてもいいのだ。わたしは、すぐにゴルゴタの丘をおもってしまった。この一句、最後におかれた「丘」によって、それまでの叙述がすべてこの「丘」にむかって収斂していき、やがて吸収されてしまい「丘」のみが残る、そんな一句であるとわたしは読んだ。 花野人とは雲影を行きし人 好きな一句である。「花野」は、俳人が好んでよむ季題であるが、こんな風に詠まれたことはないのではないか。「花野人」とは美しい響きである。秋草が咲き乱れている花野は、華やかであるというよりも静謐なあかるさと寂寥感のただよう趣のある場所である。花野に佇てば誰でも詩人になれそうな、そんな詩心を呼び起こすような野である。その花野をいく人影をみつけた。あるいは自身が花野を歩いているのかもしれない。その花野を行くひとを「雲影を行きし人」ととらえたのである。花野をおおう薄雲であろうか、その下を歩いていく花野人。人間にたくして「花野」のもつ情趣をすっきりと詠んでみせた一句である。 ほかに、 沈みゆくまでのそれぞれ冬の夜 直線は光りを運ぶ更衣 何にでも物に名前のある日永 かなかなや夢にからだを置き忘れ 逆光の目を全身で泳ぐなり 眼帯の夜は白鳥の香をまとう 句集『百人』は、平成二五年(二〇一三)から三〇年(二〇一八)までの作品を収めた私の第五句集です。平成二六年十二月に前句集『竟鳴』を刊行して以来、十年を超える月日が過ぎました。本句集では「麦」や「天為」に発表した作品を中心に、前半の平成三〇年までを区切りとしました。 この時期は、両親が亡くなった後の二年間実家の家業の手伝いをしていた流れのままに高松市に居を残し、さらにインドネシアに長く単身赴任していた夫西村我尼吾が住むジャカルタと東京荒川区の自宅との三拠点生活となり、あわただしいながらも、俳句活動に邁進した時間でした。 句集名は、「麦」の仲間を始め、支えて下さっている多くの方に厚く感謝の意味を込め「百人」としました。白川静先生の『字統』によれば「百」は偉大な指導者や強敵のどくろの色とされる白色に一線を加え、「全体」を表すことばであると記されています。(略) コロナ禍の令和二年に有馬朗人先生が旅立たれました。有馬先生のお名前にも「人」の字があります。先生の深いご恩に感謝申し上げる日々が続いています。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装丁は、間村俊一さん。 対馬康子さんのたつてのご希望だった。 さすがに洗練され格調のある一冊となった。 帯をとれば、また異なる図版があらわれる。 扉のレイアウトもかっこいい。 俳句は「内面の具象」。俳句により己のこころを表すには、素材だけでなく意識・内容において常に「俳諧自由」でありたい。そして百世、百慮の一人一人の俳句人生とつながり合いたいと考えています。(「あとがき」より) 上梓後のお気持ちをうかがった。 ○句集を手にしたときの思いは。 閒村さんの素晴らしい装釘、また字組や索引も含めすべてが美しく、思いの詰まった一冊に仕上げていただき夢のようでした。白く眩しかったです。
○句集にこめた思いは。 百は数の単位であると同時に、「もろもろ」「あらゆる」という総称の古い呼び名でもあります。日々生きてゆく人々の死に対する多様な思いが、俳句の奇跡により、愛と美の象徴であると同時に棘を持つ薔薇の香水の香りとなって立ち昇るような、得も言われぬ「つながり」が生まれるのではないか、そんな思いを込めました。
○句集上梓後のヴィジョン ふらんす堂さんと前々からお約束している評論集をかたちにしたいです。そして、今までもこれからも目指すところは「内面の具象」です。 ![]() 対馬康子さん。 ご来社のときに。
対馬康子さま 第五句集のご上梓、おめでとうございます。 うれしいご縁をいただきました。 評論集、是非に刊行させてくださいませ。
予言の書春の氷をめくりけり 対馬康子 あたらしくふらんす堂にやってきたDICの色見本帳。 いい色がある。 胸が高鳴る。
by fragie777
| 2025-10-03 18:57
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Comments(1)
何とも申し上げようのない格式高い御本ですね。恐れ多いとしか思えません。内容もさぞかし・・・
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