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10月2日(木) 旧暦8月11日
こういう花にであうと、きまって誰かがいう。 「あっ、この花、どっちだっけ。アキノウナギツカミ? ママコノシリヌグイ? それともミゾソバ?」 「ああ、どれだろう?」 なんて会話があって、 かならず物知りがいて、 「ああ、これはね、ママコノシリヌグイだよ」って決定する。 ということで、ママコノシリヌグイ。 ミゾソバとの区別は、わたしもどうにかできるのだけど、ママコノシリヌグイとアキノウナギツカミとの違いは葉のかたちと葉の付き方にあるようだ。 ちなみにミゾソバもよくにているけれど、茎にとげがない。 花野をあるいていると必ずといっていいほど出くわす野の花である。 大阪で開催され評判のよかったイベントを新宿の紀伊國屋書店でも開催いします。 といってもすでに定員は満席で、あとは立ち見となるとのこと。 このイベントについての問い合わせは、ふらんす堂まで。 電話03-3326-9061(10時から18時まで) メール=info@furansudo.com この時に、新刊の川本千栄著『土屋文明の百首』を初売りします。 今日は橋本鶏二(1907~1990)の忌日である。 白桃を二つ一つの如く置く 橋本鶏二 第八句集の句集名となった句。鷄二によれば、二つを一つの如くすることは、激しい衝撃を伴うことであるが、それは元来俳句そのものの文学的な本質に通うことでも あった。この句は「一つの如く」と詠んでいるわけで、一つになったのではない。鷄二はそこに白桃のみずみずしい豊満さへの未練があると述べている。それを「柔和 美」として表そうとしたのがこの句。セクシュアルなイメージを醸し出す句でもある。(『二つを一つのごとく』) 「一口にて申せば『鷄二は作者である。』といふに尽きるかと存候」。虚子は『年輪』の序にこのように書きました。これはもちろん鷄二に対する讃辞なのですが、「作者」という言い方に虚子の微妙な心持をうかがうこともできます。虚子の唱える客観写生からの逸脱を、さらには主観的な作為があることを、暗に指摘しているようにも感じられます。事実、当時の「ホトトギス」には鷄二の見事な俳句に、「こけおどし」や「身振り」を感じる俳人もいたようです。しかしそのように述べた虚子の真意は何であれ、まさに「鷄二は作者である」と言う他はありません。写生とは言葉を鑿として、一塊の言葉を詩として作り出す営みなのですから。(解説・「写生とは何かー橋本鶏二の場合」より) 万年筆にインクをつぎ足した。 そして、手をよごした。 どんなに細心の注意をはらって気をつけても、きまって汚す。 今日は右手の人差し指と親指、左手の親指を汚した。 いいほうである。 白いブラウスをよごしたりジャケットを汚したりしてきた栄光(?)の過去がある。 万年筆のインクを補充するのに、決して手を汚さない人。 そういう人をわたしはいま一番尊敬します。 あはっ。。。
by fragie777
| 2025-10-02 18:32
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