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9月30日(火) 旧暦8月9日
曼珠沙華と黒揚羽。 赤と黒というどちらも鮮烈ないろだ。 よく見ると、黒揚羽の羽はボロボロ。 生き抜いてきた黒蝶なのか。 新刊紹介をしたい。 46判ソフトカバー装帯有り 180頁 2句組 著者の板倉ケンタ(いたくら・けんた)さんは、1999年東京生まれ。2014年開成中学俳句部にて作句を開始する。2017年第9回石田波郷新人賞、2018年第6回俳句四季新人賞、2020年第8回星野立子賞。現在「群青」「南風」所属。本句集は第1句集であり、帯文は、「群青」の櫂未知子代表が、跋文をおなじく「群青」の佐藤郁良代表が、そして解説を「南風」の村上鞆彦主宰が寄せている。帯裏には、句友である筏井遙さん、岩田奎さんのおふたりがそれぞれ本句集より作品を七句ずつ選んでいる。そして装画は俳人でもある沼尾将之さん。板倉ケンタさんが大事に思うひとたちに祝福されての第1句集の刊行となったのである。人との関わりを大切にする26歳の若者である。 櫂未知子代表の帯文を紹介したい。 頑丈である。 そしてときに繊細で 華奢なたたずまいを見せる。 板倉ケンタの作品を前に 私はしばし立ちすくむ。 なぜなら、読者に挑み、 読者をときに選ぶからだ。 しかし、もしもそれが ケンタの望むところなら、 いいだろう,私は 受けてたたねばならない なかなか気合いのはいった帯文である。 佐藤郁良さん、村上鞆彦さんの文章を抜粋となるが、紹介しておきたい。 まず佐藤郁良さんから。 雪よりもつめたき雨にかはりけり スキーリフト夜はなにものとすれちがふ ケンタ君は、高校三年の秋に第九回石田波郷新人賞を受賞した。この二句は、その受賞作の中で多くの選考委員に激賞された句である。本人としては、この受賞を俳人・板倉ケンタの出発点だと考えているのだろう。それまでの句をきっぱりと捨てる。その潔さはいかにもケンタ君らしいと思ってしまう。(略) 棗の実ばらばらに古びてゆくぞ 棗は初秋に小粒な実をたわわに実らせる木だが、暗紅色に熟した実があるかと思えば、まだ色づいていない実もあったりと、同じ木の中でもかなり遅速があるのが特徴的である。その様態を「ばらばらに古びてゆく」という措辞で一句にした力量は、なかなかのものである。様々な植物に接し、理系的な視点からそれを観察する習慣があるからこそ、こうした特徴を見逃さず、言葉にすることができたのだと思う。 村上鞆彦さんは、 てふてふのゆふぐれは木がのびてゐる 藤の実の全長を雨つたひけり ゆったりと蝶がとぶ春の夕暮れ。木のみならず、すべてが弛緩したかのようなどことない気怠い感じを感覚的に捉えた前の句。ひらがなのやわらかな表記にも配慮がうかがえる。一方、後の句は、眼前の対象物に密着した写実の句。細長い藤の実の肌をつたう雨粒の光がはっきりと見えてくる確かな手応えがある。感覚と写実と、その後のケンタくんの作品の方向性は︑そのどちらかに偏向するのではなく、二つをいかに純化し綜合するか、その模索に多くの力が費やされてきたように思われる。 と記し、句をいろいろと引用しながら、板倉ケンタさんが表現や叙法にいかに腐心してきたかをつぶさに語っている。 筏井遙さんや岩田奎さんがそれぞれどんな句をえらばれたかは、それはヒミツ……。 本書を手にとるときの楽しみのために。。 本句集の担当は、Pさん。 遠ければ轟くごとし藤の花 くくられし古紙に雨ふる葵かな くちなしの花嗅いで去るひとの家 帚木の一花一虫余さず濡れ 気化するガソリン夏蝶がその匂ひ 五位鷺の神経挿さる冬の川 囀に皆伐の崖あかくあり 秋麗の馬の血よ馬走らしむ 雨粒のかさなりゆくは秋の百合 少年に青文旦の木暮かな 常磐木を冬の小鳥のあそびかな Pさんの好きな句を紹介した。 くくられし古紙に雨ふる葵かな 雨が降っている景である。その雨を作者はどこで実感したかというと「くくられし古紙」に降っている雨にである。堅くくくられた古紙、それは新聞紙か、そこに雨が降っている、古紙はたぶんすでにたっぷりと雨水をすいこんでいるかもしれない。そしてふりつづく雨、古紙が雨音を吸い取ってしまうせいか音はきこえない。静かだ。しかし、十分にぬれた古紙がはなつにぶい光りがあり、ひんやりとした感触が身体につたわってくる。その傍らに丈たかく咲く葵。雨にぬれて花はいっそう鮮やかさをましている。雨にひしゃげていく古紙の無残さに対して葵はどこまでも誇り高い。「かな」の切れ字をもちいて正攻法(?)で詠んでみせた一句。わたしも好きな一句である。 くちなしの花嗅いで去るひとの家 こういうことってわたしもやったことがある。「くちなしの花」ってちょうど人の嗅ぎやすい高さに咲いているのよね。だから、つい、よその知らない家の前をとおったりしたときに、「おっ、くちなしだ」なんて立ち止まって、その甘い香りをかいで、くちなしであることを認識し、満足して立ち去るのである。この下五の「ひとの家」という語彙も納得する。というのは、おおかたくちなしの花がさいているのは、どこかのお宅の玄関ちかくだったりして、山野に野生として咲くくちなしにはあまりお目にかからない。この一句、「くちなしの花」へにおいを嗅ぐという挨拶をしたかったのである。この句、ご本人の行為だとしたら、いいじゃない。若い男子がくちなしの匂いを嗅いでいそいそと立ち去るなんて。しかし、この人物が若いかどうか、いかなる性の人間かどうかということはもはや問題ではなくて、「くちなしの花」の句として立派に成立する一句だと思ったのである。 雨粒のかさなりゆくは秋の百合 この句も「雨」の句である。実はわたしは本句集をはじめから最後まで読んでみて、板倉ケンタさんの雨の句にたちどまることが多かった。「雨」をずいぶん読んでいるのである。そして詠まれた雨の句に好きな句が多かった。最初の二句目におかれた〈雪よりもつめたき雨にかはりけり〉の句にまず驚いたのだけど。この句、雪から雨にかわっていく瞬間を詠んだ一句であるけれど、それを「雪よりもつめたき雨」ととらえたのである。どこでとらえたかというと身体感覚がとらえたのだ。ほっぺたか、鼻の先か、まぶたの上か、あるいは手のひらかそれとも指の先か、そのことは詠まれていないが、ここには身体がとらえたひやっとする雨の感覚が雪の残像とともに余韻としていつまでも残る。こんな雨をいままで詠んだ人がいたのだろうか。好きな一句である。そして掲句も好きな一句だ。「雨粒のかさなりゆくは」という措辞が巧みである。雨がふりつづくという流動的なさまではなく、雨粒がかさなるという立体的なさまとして雨を詠んでおり、そのさまを読者に印象づけるとともに、「ゆけり」とかしないで「ゆくは」とその雨粒をささえるものを呼び出すかたちで「秋の百合」を登場させている。「百合」は夏の花であるが、「秋の百合」は、やはり夏に咲く百合の勢いはすでになく、やや哀れさが伴う。その「秋の百合」が雨粒の重さに耐えて咲いているのであるとも読んでもみたが。しかし、この一句からは、百合の哀れさのようなものはみえてこず、秋の気配のなかに雨粒をたたえて咲くきっぱりとした百合のすがたがみえてくるようにわたしには思えるのだけれど、どうだろうか。〈藤の実の全長を雨つたひけり〉〈青白き棗のまへを雨の降る〉という句もあって好き。〈雨降りの秋分の日よ雨の降る〉とここまで来ると雨のだめおし?!でも面白い。ほかにも雨の句がいろいろと。 うち棄ててある縄跳に遠くこゑ 「縄跳」が季語である。いつの季節の季語だったかしらと、いま歳時記をひいてみたところ、「冬」の季語だった。さらに歳時記をよむと「男の子の竹馬に対し、女の子の縄跳は昔、日本の冬を代表する子供の遊戯、運動の一種だったので……」とあって、そうなのかと驚いた。知ってました? この感覚は21世紀のいまには通用しないし、そして、竹馬も縄跳びも子どもたちの遊びから遠いところに行ってしまった。掲句は、じっさいに目の当たりにした景を詠んだのかもしれないが、すたれゆく「縄跳び」への挨拶句ともなっているのではないか。「うち捨てて」ではなく「うち棄てて」とあるのも残酷である。一時的に捨ておいて、ほかに行ったのではなく、「棄てて」とあることで永久にかえりみられない「縄跳」の運命を烙印されてしまったかのよう。そして、あるいはさっきまでその縄跳びで遊んでいた子どもたちだろうか、別の遊びに興じているその声がこのかわいそうな縄跳のところまで聞こえてくるのである。人の姿をよまず、縄跳のみに焦点をしぼって詠みながら、過ぎ去りゆく時代への郷愁が詠まれている、そんな思いもおこさせる一句である。 常磐木を冬の小鳥のあそびかな Pさんが好きな句として選んでいる一句であるが、わたしも気になった句。「常磐木」とは、常緑樹のことであって一年中葉が茂っている木のことだけど、冬になると裸木との対比でよくわかる。裸木になったところに鳥がとまるとその姿は捉えやすいがひとたび、常磐木のなかに入ってしまうとなかなか見つけられない。そんな常磐木をでたりはいったりしている小鳥を詠んだのだろうか。この句、わたしがたちどまってしまったのは、最後の「切れ字」を「けり」としないで「かな」としたことである。「けり」の方がすっと頭に入ってくるが、「かな」にしたことによって、なんだろう、一句を終わらせないというか、うまく言えないのだけれど、「かな」にしたことによって句にふくらみがでたというか、とにかく、「けり」よりも「かな」の方が句に厚み(?)とかとか、う~む、考えてしまうわけ。難しいけど、「かな」「けり」のことを考えさせられた一句だった。あるいは「あそぶかな」としないで「あそびかな」としたこともそこに作者の創意があるんだと思ったのである。こういう微妙なニュアンスを考えさせられる一句だった。好きな句である。 校正スタッフの幸香さんが好きな句は、〈風信子買うてどこまで歩かうか〉途方に暮れているような、あるいはどこまでも歩いていけそうな感じもします。 今、句集を届けたい人たちがいる。そのすべての人に届けるために、半ば拙速ながら句集上梓に至った。 櫂未知子先生、佐藤郁良先生には、俳句の物心がつく前から懇切にご指導いただき、「群青」という居場所を賜った。村上鞆彦先生、津川絵理子先生は「南風」の長い歴史の中に私を迎え入れてくださり、道を示してくださった。 先生方をはじめ、両誌の諸先輩方、句友の皆様、所属外でお世話になったすべての皆様に感謝申し上げる。 本書上梓にあたっては帯文を櫂先生、跋を佐藤先生、解説を村上先生に頂戴した。また、装画を沼尾將之さんに、七句抄出を筏井遙、岩田奎にお願いした。ご尽力くださった皆様に厚く御礼申し上げたい。 簡潔な「あとがき」だったので、全文を紹介した。 装丁は、山根佐保さん。 装画は、沼尾将之さん。 描かれているのは、「合歓の花」である。 見返しは白の用紙にみえるが、 質感と透明感があるもの。 秋麗の馬の血よ馬走らしむ 熱く清々しい疾走感のある秀句だ。ここに私は、どうしても作者の姿を重ねてしまう。ケンタくんを走らせている血、それはどんなものなのか。きっと熱く、純粋な血であると思う。今後もその血の命ずるままに、我武者羅に駆けていってほしいと願うばかりだ。(村上鞆彦/解説) 上梓後のご感想をいただいた。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? 早く、いろんな方に届けたいと思っていました。なので実際に手にして、とても安堵しました。 また、見た目や質感に直に触れて、造本の美しさに感動しました。 (2)初めての句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい お世話になった方に届けたいという一心で句集制作をきめました。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 今は何も考えられません。目の前の句会一回一回で自己更新をできるか、という点で、変わらず俳句に打ち込みたいと思います。 また、句集の発表や賞への応募から解放されて向こう10年程度過ごせると思うので、腰を据えて自力をつけたいと思います。 10年経ったら、訳のわからない句集を出したいです。 訳のわからない句集、 いいですね! そのときもまたふらんす堂にご縁をくださいませね。 板倉ケンタさん。 今年の2月にご来社のときに。 帚木の一花一虫余さず濡れ 板倉ケンタ ここにも雨の気配が。。。。 ブログを書き始めたてから、ブックデザインのことで、装丁家さんが来社。 しばし、中断をしてしまったので、遅くなってしまった。 クイーンズ伊勢丹に寄りたいのだけど、 多分もうだめだわ。
by fragie777
| 2025-09-30 21:54
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