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9月19日(金) 子規忌 旧暦7月28日
葉うらにとりすがっている空蝉。 今日は子規忌である。 その子規についていま「子規の百句」に取り組んで取り組んでくださっている井上泰至さんがご来社くださった。 「はじめに」と「五十句」の鑑賞までお原稿をいただた。 年内には百句いただけそうである。 おもしろい子規論が展開しそうである。 楽しみにしていただきたい。 目下、坪内稔典さんによる「子規の百首」もすすんでいる。 刊行になったら、二冊をあわせよむとおもしろいかもしれない。 余談であるが、わたしはいま、河東碧梧桐の『子規を語る』(岩波文庫)を古本を購入して読んでいるのだけれど、子規のいろんな面がみえてきておもしろい。 ただ、女性への見識はなっちゃないけど。 井上泰至さん。 筒袖や秋の柩にしたがはず 夏目漱石 「倫敦にて子規の訃を聞きて」と前書きがある。 新聞評を紹介したい。 少し前になるが、東京新聞夕刊8月15日づけの安里琉太さんによる俳句月評「正直日和」は、遠藤容代句集『明日の鞄』を評している。 タイトルは「泰然と述べる」 丁寧に評してあるのでたくさん紹介したいところであるが、そうもいかず抜粋にて紹介したい。 春の昼棒もて帽子下ろされぬ 冬の浜拾へば大切な貝に (略)六月に刊行された遠藤容代の第1句集『明日の鞄』(ふらんす堂)から引いた。日原傳の序文の通り、自由でのびやかな把握とやわらかな言葉使いが特徴的な一冊である。(略)ただ、私が特別面白く感じたのは編年体である本書の中盤あたりから増える、泰然と述べてみせる句だ。〈山眠る職員のゐる休館日〉〈日脚のぶ曲を流さぬ太極拳〉〈冬めくや正義教はる紙芝居〉〈淋しさや金魚の方も顔覚え〉 今日送っていただいた図書新聞には林和清著『塚本邦雄の百首』がおおきく書影いりで取り上げられ、評されている。 評者は歌人の大和志保さん。 タイトルは「読むことの現在を再び肉に縫い直す試み」。 力のはいった批評で、こちらもおおざっぱな抜粋となるのは残念である。 (略)著者はこの百首選に「塚本の血のあと」と副題を添えている。(略)「塚本邦雄」という歌人の全体像を、実在した生身の歌人として読者に捉え直させる意図があるのだろう。あとがきに著者は書く。「近年、若い世代の塚本邦雄論に触れるたび、そのフラットさに驚かされることが多い。(略)そしてそれは塚本自身が望んだ読まれ方であるとも言える。(略)しかし、私は思う。塚本邦雄というひとりの人物が存在し、試行錯誤の果てに苦しんで世に問うた作品は、やばりその時々に流した血のあとが見えるものであろうし、時代の中で必然的に生み出されたものに違いないのだ」(略)「あとがき」の文によれば、「その時々に流した血のあと」として塚本邦雄の短歌を読者に明示することは、塚本邦雄という歌人の生身の柩の蓋を覆ってはじめて成立した試みでもあるだろう。(略)大正期の近江に生まれ、身悶えするような芸術(文化資本)への飢餓に似た憧れを抱いた青年が二十代を戦争に潰されるという経験が、ひとつらなりの生のなかで常に陰を落とし、激しい憎悪を湛えた戦争詠が間欠泉のように噴きあがることもまた、この構成で読むことで腑に落ちるところがあった。(略) 一首の世界に鮮血が噴けど、それは修辞が切り開いた虚構の皮膚の創なのであるーー私はあたりまえにに「作者の死」を受容し、短歌を読んできたのだが、生身の肉から発する言葉としての歌が二重写しに立ち上がり、滴る血のあとを辿ることもまた、短歌を読むことにほかならないのだった。 この評で、大和志保さんは、この「百首シリーズ」を褒めてくださっていることも版元としては大いに励みになったのだ。 以下はお知らせです。 梅田 蔦屋書店で行った、藤原龍一郎・大辻隆弘・林和清、三氏のイベントを東京でも行います。情報解禁は9月22日の午前10時になります。気になる方は弊社Xをフォローして解禁日までお待ちください。ふらんす堂のXのアカウントはこちら↓https://x.com/furansudo
by fragie777
| 2025-09-19 20:18
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