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9月17日(水) 玄鳥去(つばめさる) 旧暦7月26日
虫酸漿(むしほおずき) 神代植物園にて。 今日は午前中と午後にお客様がみえられた。 岩永眞佐子さんと山下幸子(ゆきこ)さん。 岩永さんのご紹介で、山下幸子さんが第1句集をつくられることになり、句稿をもっての大阪よりのご来社である。 山下幸子さんは、かつて俳誌「あじろ」に所属しておられたが、「あじろ」終刊とともに結社への所属はやめて単独で俳句をつくってこられた。 ただし、関西の俳人のかたたちとははばひろく親しくされて交流もある。 結社にはいることをすすめれらても断固として断ってきた方である。 揺るぎない信条がおありのようだ。 お仕事上、交流のある岩永眞佐子さんよりのおすすめもあって句集の上梓をきめたのだった。 岩永さんは小学生の頃から俳句をつくりつづけてこられた方である。(いろいろなエピソードをお持ちであるが、それはまた次の機会に) 今日は担当のPさんと造本、装丁などを打ち合わせられたのだった。 山下幸子さん(左)と岩永眞佐子さん。 山下幸子さま、お暑いなか大阪よりのご来社ありがとうございました。 よき一冊になりますように、なんなりとご相談ください。 岩永眞佐子さま、いろいろとご紹介をいただきありがとうございます。 つぎは岩永さまの句集ですね。 句稿をお待ちしております。 午後にご来社されたのは、もっか句集制作が進行中の田中久幸さん。 田中久幸さんは、俳誌「運河」(谷口智行主宰)に所属しておられる。 15年ほど前に奈良で二年ほどお仕事をしたときに、たまたま新聞に投句をし、それを選んでくださったのが茨木和生氏であった。 その後東京に戻られて俳句をつづけたく思い、「運河」にはいって俳句をつづけたいと茨木主宰にもうしでたところ、快諾をいただいたという。 このたび、15年間にわたる俳句を精選して第1句集を刊行することを決心されたのだった。 担当はPさん。 打ち合わせがおわって、田中さんにわたしは尋ねてみた。 「今回、第1句集をだされるにあたって、句をまとめてみていかがでした?」 「いやあ、難しかったです。自選したものを谷口主宰にさらに選んでいただくわけですが、自分の句を選ぶ段階でどの句もその背後に思い出があって、それに気持ちがいってしまうとなかなか落とせない。また、主宰がおとしたものでも、愛着がある句だったりすると、どうしたものか、などいろいろと考えてしまいますね」 と笑いながらおっしゃる。 田中久幸さん。 「はじめまして」と名詞をおわたししたところ、「いや。yamaokaさんとは、俳人協会のお祝いの会でお目にかかっていますね」と。 「まあ、それは失礼をしました」と申し上げつつ、その時のyamaokaときたら、営業の鬼(?)と化していたから、名刺をくばりまくっていたかもしれない。 (いやあ、お恥ずかしい…) 「いろんな人に会われるでしょうから、覚えていられませんよね」とにっこりされたのだった。 まさにナイスフォローである。。。 よき一冊となりますよう、がんばります! 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯有り 244頁 2句組 著者の沼田真知栖(ぬまた・まちす)さんは、1956年東京・練馬区生まれ。1990年「萬緑」入会、2007年「萬緑」新人賞、2008年「萬緑」同人、2017年「萬緑」終刊より「森の座」へ。2021年「森の座」賞受賞。俳人協会会員。本句集は、第1句集『光の渦』『グールドの椅子』につぐ第3句集となる。「森の座」の横澤放川主宰が「序にかえてー花樹燦々より」として、言葉を寄せている。 略歴のところに「日本アルバン・ベルク協会会員」とあり、調べたところ、音楽を愛する方であるようだ、第2句集のタイトルからも推し量られる。 横澤放川さんの「序にかえて」の文章は、 とても素敵な文章で俳句への愛に溢れている。途中に選評ではなく吟行の楽しさを語る部分もあるがそのまま残した。きっと俳句を愛する人には役立つのではなかろうか。 と沼田さんは記されているように、横澤さんの豊かな教養を感じさせるいい文章である。たくさん紹介したいところであるが、ほんのすこしの抜粋となることをお許しいただきたい。 流木は真昼の白さ入彼岸 (略)掲出した入彼岸の句は、流木に真昼の隠しようのない日をあてて無惨だが、それをどんなにか入彼岸という時間意識が救っていることか。むしろその晒された白骨然の白さに、いやそうではない、白切子のようなしずかさに、なんだかひとの果せなかったものみなのやすらぎとでもいおうか、そんなものまで覚えさせられるのである。 白よりも強き色なし雪の富士 これは江ノ島の弁天橋の上から真知栖さんと並んで眺めたあの実景そのままの句だ。紺天と碧海とそうして人造物としての湘南の遠望される建築物と、そのような景物のうえに際立って立ち現れている真白富士の一姿なのである。まことにあめつちの分かれしときゆ神さびて尊き白さなのである。それをそんな情趣に頼らずに、強き色と存在に直に即しての描写がいい。 「幸せの白」という句集名に相応するような「白」を詠んだ俳句の評を抜粋で紹介してみた。 本句集の担当は、Pさん。 石垣は時をすき間に野紺菊 幸福は突然焼藷手に包み 喜びは点悲しみは線星流る シャツを脱ぎ汗の身体をうらがへす 着ぶくれて己の芯のありどころ 虻飛んで水平思考はじまりぬ 初氷砕けたところより白し 明るさはいつも真ん中花八手 百合咲いてだんだん頭重くなる Pさんの好きな句とわたしがしるしをつけた句がけっこうかぶっていることに気づいた。 石垣は時をすき間に野紺菊 この句、情景はすっと頭に入ってくるのだけれど、ちょっとひっかかるものがある。「時」という言葉だ。石垣の間から野紺菊が生えているのだろうか。石垣というものは、当然石と石が重ねて積まれているわけだから、石はすべて同じかたちをしていないので、そこには隙間ができる。小さな空間だ。通常は空間であるはずのものに「時」が入り込んでいるのだ。作者「時」を発見したのだ。それは歳月と言い換えてもいいのかもしれないが、「時」とすることによってもっとシャープな時間の切り込みがみえてくる。「時」に穿たれた石垣のすき間、そのすき間がぐっと深みをます。その暗い闇を持つ石垣に咲く野紺菊。その花のいろはいっそう際立つのである。そして、日当たりよく咲く野紺菊がまぶしい。 喜びは点悲しみは線星流る この一句も印象的な一句だ。やや理屈っぽいのかな、とも思ったのだけれど、そう詠まれてみると、なるほど、とおもったりもする。さらに理屈で解釈すると、「喜び」というものは一瞬であるけれど、「悲しみ」は長引く、尾をひくように。で「星流る」とくると決まりすぎか。。。などとも。沼田真知栖さんは、略歴によると数学者であるようだ。人間感情を点と線であらわすなんて、ある意味数学者らしいおもしろい発想であるかもしれない。この上5中7にどういう季語をつけるか、ということであるが、「星流る」で、人間の情念が浄化されるかもしれない。この句は「喜」と「悲」の感情を点と線にたとえて詠んでいるわけだけれど、どちらかといえば、「喜」より「悲」の方が一句を支配する割合が多い。悲しみの余韻がある。天空に心をあずけることによって、その悲しみも癒されて、いく、そんな救いもみえてくるなどと解釈したら、陳腐か。。。 着ぶくれて己の芯のありどころ この句もおもしろいし、〈シャツを脱ぎ汗の身体をうらがへす〉もおもしろい句だ。どちらも「身体」にまつわる一句だ。「己の芯」というものを大いに着ぶくれてデブってしまったわか身体に探しているのである。ふつうは考えないよなあ。自分の身体に「芯」があるなんて。著者は数学者である。(関係あるか?)着ぶくれていくことによって、己の身体は身体としてのシルエットを失いつつあるのだ。身体の輪郭がうしなわれ、際限なくふくれあがった身体のかたちは、もはや我とはいえずベツモノのようにもみえてくる。バランスも失いつつ、歩くのもずっこけそうである。しかし、わが身体の芯さえ意識し、それを精神で統べれば、我をうしなうこともなく、なんとか人間としてありつづけられそうである。よし、「芯」は大切だ。身体は外へ膨張しつつあるが、意識はわが身体のうちへうちへと芯をめざしてさぐっていくのである。 明るさはいつも真ん中花八手 冬に咲く花八つ手である。その明るい白にはっとすることが多い。ピンポン球くらいの大きさの花が、たくさん集合して咲くわけだけれど、これって植物を造形学的に説明するのにまったくなっちゃない説明の仕方なんだんだけど、ほら花八つ手を見ている方はわかるでしょ。そう、あれね。作者はその花八つ手をまぶしく眺めているのだ。そして、その明るさの位置を数学者らしく(?)確かめている。で、一番あかるいところはピンポン球の真ん中であることに気づいたのだ。太陽が位置をかえても、その明るさの位置はかわらない。花八つ手のてっぺんの中心は常にあかるい。この句、花八つ手の季語で成立している一句だと思う。ところどころに配された「ア行」の音が、句におおらかな表情をもたらしている。 白々と夜が鳴くなり餅切れば これはわたしの好きな句である。本句集には、「白」の色がいろいろと登場するが、何しろ「幸せの白」ですから、この句の「白」はまた別の味わいがある。「餅切る」が季語であるが、この季題がこんな風に詠まれたことはないのではないだろうか。お正月にむけて、餅を切る。心はめでたさにむかうはずであるが、「白々と夜が鳴く」という。闇がふかまるのではなく、白々と夜が鳴く、という。理由のわからない夜の気配がある、餅を切りながらそれを感じる人間のこころもある深淵に向かっているような、日常とはちがう別の夜の顔が支配している。薄闇に切られてゆく餅の白さがうかびあがる。 校正スタッフの幸香さんは、〈まんぼうの広き横顔年明けぬ〉に特に惹かれました。 句集『光の渦』からおよそ十五年、ちょうど選者が奈良文夫さんから横澤放川さんに替わるところが切れ目だったので、そこから私が森の座賞を取り無鑑査同人に なるまでの俳句をまとめる事にした。約十二年間である。(略) 句集名の「幸せの白」は何か明るいほのぼのとしたものにしたかった。世界では未だに争いが絶えず、国内でも戦争こそないが差別や分断に溢れている。少しでも幸せとか平和を祈りたい。 「あとがき」を抜粋して紹介。 本句集の装丁は、山根佐保さん。 表紙。 見返し。 扉。 一粒一粒膨らむ明日青葡萄 この青葡萄の句は、まっとうな句とでもいうのか、いささか読み手も恥じらわれるような直(すぐ)やかな明るさを見せている。ここには心理の屈折もはぐらかしも、なにひとつない。(横澤放川/序にかえて、より) 沼田真知栖さんに上梓後のお気持ちをうかがった。 とても良い装丁で感動しました。『光の渦』も素敵でしたが、またちょっと違うところも気にりました。本屋に並べば手に取りたくなると思います。 第三句集なんて全く考えていませんでしたが選者の交代と自身が無鑑査同人になってちょうどいいタイミングでした。良い区切りとなりました。 今後は無鑑査同人なので選を受け取ることがありません。と言っても句会などの指導は続いているわけでそう変わるわけではありませんが、さらに新しいものを 目指したく思います。 沼田真知栖さん。 見失ふための初蝶野はひららか 沼田真知栖
by fragie777
| 2025-09-17 20:42
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