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9月16日(火) 旧暦7月25日
韮の花。 気づかないでとおりすぎそうになって、ああって思ったのだった。 うれしいお知らせがひとつ。 高橋修宏評論集『暗闇の目玉ー鈴木六林男を巡る』が、第27回小野十三郎賞に決定した。 この賞は、詩部門と評論部門があって、本著は「評論部門」においてである。 俳人・鈴木六林男の全体像を描いた。戦場俳句、社会性俳句にとどまらない審美性、幻想性、諧謔などを含め、現代詩と相わたる詩的イメージを媒介に俳人像を描いたことを評価した。とある。 高橋修宏さんの、鈴木六林男への敬愛にみちた渾身の一冊である。 すこし先になるが、「ふらんす堂通信」にても特集をしたいと思う。 たとえば、六林男を戦争俳句という範疇において、その評価を定説化しようとすると、はみ出してしまうものがある。あるいは、戦後の社会性俳句という状況において捉え返そうとすると、やはり違和感の方が優ってしまう。そんな六林男評価に付きまとう〈余剰〉や〈異和〉を、彼自身の句作行為の単独性として取り出してみること、そして〈戦後俳句〉と呼ばれるひとつの可能性の中心として考えてみることが、本書全体を通底するテーマであった。(「あとがき」より) 暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり 鈴木六林男 昨日に大阪でおこなわれた三村純也さんの受賞のお祝いの様子を、出席したPさんのレポートで紹介したい。 * * * 9月15日(月・祝)に、大阪のリーガロイヤルホテル大阪にて、「第59回蛇笏賞・第3回稲畑汀子賞 三村純也記念祝賀会」が開催されました。 山茶花のみなさま、また関西俳壇を支えるみなさまが集って三村先生のW受賞をお祝いれました。 ![]() 三村純也氏をかこんだ主賓テーブルの皆さま ![]() ご挨拶される三村純也氏。 会の最後に三村先生のご挨拶があり、これからの作句について心構えを笑いを交えながら、生粋の船場の関西弁でお話くださいました。(文字では伝わらないのが…!) 今年はいつまでも暑い中を、今日は遠方からも沢山お越し頂きまして、ありがとうございます。改めまして御礼申し上げます。 蛇笏賞、汀子賞というW受賞に加えまして、今年は我が阪神タイガースが早々に優勝を決めてくれて、花を添えてくれました。こんなに嬉しいことはありません。 俳句の創作において、私の場合はひとりで孤独の中で作るということは、あまりないんですね。今日集まってくださった山茶花の方々、加えて関西のお互いの立場を認めながら批判し合うという、青畝先生の言葉で言いますと、「難しいこと言わんとみな俳句作ってる仲間やおまへんかいな」そういう関西独特の風土の中で揉まれて作ってきました。そういう中で今日のわたくしがあると思いますと、今回の受賞は私ひとりのものではなくて関西の皆様と共有して受賞させていただいたかというふうに、思っております。本当にありがとうございます。 自祝という思いを込めまして、先日、東京の水道橋の宝生能楽堂で、前囃子を務めさせていただきました。「かつらぎ」という葛城山の女神が登場する曲で、その葛城という山の古い名前ですね。古名が「高天山」なんですね。今回は特別演出で神楽を舞わせて頂きました。難しかったです、正直。だけど、自分としても、まあまあ無事に舞えたかなというふうに、も思ったんですが、後からDVDで自分の舞を見てますと「ここをこう意識したはずやねけども…」と、全然舞えてないんですね。 「離見(りけん)」、離れてみるということね。演じ手が自分の姿・考え「我見(がけん)」というものを離れて、第三者の立場に立ってみて、自分がどう舞っているのか客観的に見るという視点を持たんと、能が完成せんのやと言うことですね。俳句にも、「離見」ということは非常に大事なことのように、今更ながらですけれども、思えるようになりました。 自分がこういう句を作った、それを読者がどう読んでくれるか。この背後にいる自分の存在というものを、どう意識してくれるか、という読者の立場から、自分の句を考える。私は今まであんまりそういうことを意識しないで、作ったら作りっぱなしという感じで終わってたんです。そういうことをちょっと頭に置いて作ったら、どうなるやろかと。今頃、そんなことを気ぃついたんかというふうに、皆さんお笑いになるやろうと思うんですけども。 花鳥諷詠という俳句の作り方というのは、師匠が導いてくれるままに、職人的に俳句を作り続けるというのが本道でございます。そこに我の意思というのはあまり持ち込まないというのが本道であると思うんですけども、一方でやっぱりその離見、他人がどう見てるかというようなことも意識してみようかというふうに思うようになりました。 世阿弥の言葉に「傾古は強かれ」というのがございますけど、そういう風に思います。 先日「ハルウララ」という競争馬が死にました。ああいう馬のようにね、負けても負けても走り続ける。とにかく、がむしゃらに走り続ける。そういうことが俳句にも大事やということは身に沁みて思っております。 句会で坊主になろうが、ひとさんの批評がどうあろうが、自分を貫くというのも大事かなというふうには思います。 ただ、この点につきましても、世阿弥は「常識はなかれとなり」、「わがままはあきまへんで」ということを述べております。独りよがりではあかん、謙虚さを失わないようにするということが、「秘すれば花」ということに、あるいはつながっていくのかなという感じが致しております。 なんや世阿弥の言葉を引用しただけで、御礼の言葉にもならなんでございますけれども、今思っておりますことの一端を誠に言葉足らずでございますけども申し上げたいと思います。それから、最後に家内に一言「ありがとう」という言葉を添えまして、私のご挨拶に返えさせていただきたいと思います。本日は誠にありがとうございました。 とても含蓄に富んだご挨拶でした。 * * * 三村純也さま 御句集『高天』にて、第59回蛇笏賞、第3回稲畑汀子賞 のダブル賞のご受賞おめでとうございます。 心よりお祝いを申し上げます。 ![]() 裏ゴムをはって一歯下駄ができあがってきた。 「なかなかいい」とPさん。 天狗にでもならなければ、とても無理っておもっていたけど、 歩けそう。 わたしのも早くできあがってこないかしら。 明日、新刊紹介をします。 ちょっとたまってしまった。。。
by fragie777
| 2025-09-16 19:02
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