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8月5日(火) 旧暦6月12日
蘆の空。 神代水生植物園の青蘆のいきおときたら。 蘆を身体中に感じてあるくことになる。 このところよく夢をみる。 いったいどんな夢であったか皆目おぼえていないのだけど、 不思議なことになつかしい気持だけがのこっている。 清々しさも加わってわるくない心持ちなのだが、いったいどんな夢だったのかしらって思い出そうとしても、具体的なものは何ひとつおもいだせないのだ。 そういうことってあります? 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯有り 178頁 二句組 俳人菅美緒(すが・みお)さんの第5句集である。菅美緒さんは、俳誌「杉」に入会して森澄雄に師事。現在は「晨」「梓」同人。俳人協会会員。句集に『諸葛』(1988年)『洛北』(2009)、『左京』(2016)、『片瀬』(2021)がある。本句集は2020年から2025年の3月までの作品を収録したものである。 帯に「年齢と共に、益々身近な草木のそよぎや、小さな生き物に親しみを感じるようになった。彼らをじっと見つめ、彼らと対話していきたい。」と書かれているように、頁をひらけば鳥虫草木に向き合う作者の世界が展開する。 わが歩む真ん前に来て熊ん蜂 句集の初めのほうにおかれた一句である。「熊ん蜂」と対峙している作者がいる。すこしもたじろぐことなく。むしろそのことを歓迎しているようにさえみえる。悠揚たる作者の心持ちである。この心持ちは句集名「遊」につながるものでもある。「わずか四年間の作品による句集ではありますが、この三月で九十歳になりますので、貧しい句群ながら、一集にまとめることに致しました。」と「あとがき」に書かれているように、今年90歳を迎えられた。「わが歩む道」とは、いま現在の道であるのみならず、これまで生きて来た長い道のり道でもある。90年の歳月をせおって目の前にいる「熊ん蜂」の命と対峙しているのである。その歳月の厚みに熊ん蜂の存在感はふさわしいのではないだろうか。 人の世にあまたの賞や草茂る わたしの好きな一句である。人の世のことを批評的な視点で詠んでいる。そう、人の世にはそれはたくさんの賞がある。全部なんておぼえられないほど。そんな賞に人間は一喜一憂する。下5の「草茂る」がなんともシニカルでさえある。賞というものが「草茂る」ほどあるというそんなことも思わせるが、あるいは、賞という人間界のこととはおかまいなく草の生命力の逞しさを称賛しているようにも読めて、面白い一句である。人間の栄誉をもとめることの虚しさと「草茂る」のおかまいなしの圧倒的なパワー。批評性からいったらこれ以上の季語はないとおもう。作者が到達した境地でもあるとも。 小蟻は急ぎ山蟻何か迷ひをる 今日も作者は、小さな命をみつめている。小さな蟻とそれよりは体格のいい山蟻。忙しい社会人であったら、およそ見過ごしてしまう蟻たちの世界のことである。作者の遊び心は、それを許さない。急ぐ小蟻、これはよくわかる。蟻っていつもいそいでいるようにみえる。なんせイソップによって働きものとされてしまった蟻であるから、その宿命を背負っているわけである。しかし、山蟻は、その宿命の埒外にいるようだ。「何か迷ひをる」という措辞がいい。山蟻に関していえば、写生的に叙するならうろうろするという動きであったのかもしれない。しかし、「何か迷ひをる」という精神性を作者に与えられてしまった山蟻である。ややおおげさに言えば「迷う」ということは思索の始まりでもある。ここには思索する山蟻がいるのである。写生ということにとどめす、自然と自己の関係に洞察をめぐらす作者は、やはり森澄雄の弟子であるとわたしは思った。そう、まさに眼前の命と対話をしているのである。 夫の遺せしトンボ鉛筆春を待つ 夫である人はもう大分まえに亡くなった。たしか文筆をなりわいとしていたお方であるとうかがったような気がする。この句「トンボ鉛筆」という固有名詞が時代を語る。鉛筆の中でもトンボ鉛筆は王道だった。だれもかれもがトンボ鉛筆をつかっていた。そのうちにシャープペンシルが現れて、多くはとって替わられるようになったけれども。この句におけるトンボ鉛筆は、ただの鉛筆ではない。夫が使っていたもの、かけがえのない鉛筆なのである。それを手にとれば、すこし励まされるような気がする。寒い冬だったが、気づけば春はもうすぐ先にきているのだ。「チエホフは夫の最も愛した作家」という前書きのある〈チエホフ全集そびらに紙の雛かな〉という句も収録されており、インテレクチュアルなご夫婦であったことがわかる。ほかに〈亡き夫のセーターだぼと着て安し〉〈林檎割る半分分くる人は亡く〉という句もあり、夫恋いもこんな風に詠めるとなんとも素敵であることよ。 秋草や宙を拳で打つ男 おもしろい一句。「宙を拳で打つ男」というのは、ごくたまにだけど見かける。ボクシングの練習をしているのだろうか、それとも原にすえかねたことがあり、その相手を想定してその架空の相手にむかって拳を打ち込んでうさをはらしているのか。老人の男ではないような気がする。そこそこ若い壮健な身体をした男におもえるのだけれど、それは想像したいようにすればいい。この一句「秋草や」で、男の拳がやさしくなった。それがいい。空気の澄んだ花野にやってきて、男は拳で宙をうっている。あるいは秋草にその拳があたるかもしれない。秋草はおおかたやさしいい風情をして拳があたってもなびくばかり。好きな一句である。 校正スタッフの幸香さんは、〈友入れて回す縄跳び豊の秋〉穏やかで懐かしい情景にとても惹きつけられます」と。 ほかに、 日蓮の胸板厚し梅真白 長崎忌きのふに過ぎし百日紅 秋明菊の寺大勢のゐて静か あふぎたる桜幾百われに向き 石ころに草に日の射す虚子忌かな 紙飛行機の着地や草の芳しき 柚子の花シヤツのからりと乾きけり 『遊』は、『諸鬘(もろかつら)』『洛北』『左京』『片瀬』に続く私の第五句集です。二〇二一年四月から二〇二五年三月までの句を収めました。 集名「遊」は、遊興、遊学、遊子、遊行等、興味深い熟語が多くあるのに気がつき、又、遊行寺(藤沢市)に時折行って親しんでいることなどもあり、「遊」の言葉に惹かれて、集名と致しました。 足腰が不自由で、思うように吟行も出来ない日々を送りながらも、何とか俳句を続けて来られたのは、ファックス句会やメール句会での仲間の皆様や時々出席する句会の皆様のお蔭であると、しみじみ有難く思っております。 生命ある限り、俳句は続けて行くつもりですが、遠出が出来ないので、身近かにある物や身近かな生きもの達と益々親しくしていかねばと思っております。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 装釘は君嶋真理子さん。 見返しには金と銀の箔をちらした。 表紙は濃紺。 この色は、菅美緒さんによく似合っている。 用紙はやや布目のような風合いがあるのだが、写真ではわかりにくいかもしれない。 卒寿とふまぶしき齢花を待つ 本句集の掉尾の一句である。 「卒寿」をむかえらたのである。 「まぶしき齢」とは、すばらしい自祝の一句であるとも。 こんな風に歳を重ねられたら、と思う。 「この五十年間を振り返ってみますと、自分の所属結社の方々は勿論のこと、実に多くの方々とめぐり合うことが出来、俳句の縁の有難さを改めて思います。 今は、縁遠くなった方々を含めて、これまで私とかかわって下さった皆様に、心より感謝申し上げます。」 ふたたび「あとがき」を紹介。 空はわがもの屋上の籘椅子に 菅 美緒 卒寿をむかえられた菅美緒さま。 ますます自在に、空をわがものとして ご健吟くださいませ。
by fragie777
| 2025-08-05 20:34
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