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7月28日(月) 旧暦6月4日
夕暮れの丸池公園。 いつもは子どもたちの姿があるのだが、 あまりの暑さにほとんどみえない。 子どもたちでにぎわう水飲み場もさびしそう。 新刊紹介をしたい。 林桂著『高柳重信の百句』・百句シリーズ 林桂(はやし・けい)さんによる『高柳重信の百句」である。 高柳重信(たかやなぎ・しげのぶ 1923-1983)といえば多行形式の俳句がすぐにあたまに浮かんでくる。いくつかの有名句はすぐに思い出すことができるが、ほかにどんなのがあったろうか、となるとなかなかわたしなどたどりづけないものがある。山川蝉夫の名で書いた一行俳句には、かつてふらんす堂文庫として精選句集『夜想曲』(中村苑子編)を刊行したこともあって馴染みがあり好きな句もたくさんある。しかし、高柳重信といえば、やはり多行形式の俳句の旗手であった。たくさんの既刊句集より、林桂さんが多行、一行ともども精選して、解説を付したのが本著である。巻末の解説は句集を中心としたもの。 いくつかの句と鑑賞を紹介してみたいが、多行俳句は一行をたんに多行にしたのにとどまらず、言葉の配置、並べ方、行の取り方、等々すべてがゆるなぎなく計算されてそこにおかれているものなのである。このブログでその容(かたち)を壊さずに紹介できるだろうか、やや心配である。一行俳句、多行俳句、一行俳句の順で本著は語られている。 金魚玉明日は歴史の試験かな 『前略十年』昭和29年(1954) 「Ⅰ」(昭和十一年|十五年)に収録。章頭の注記によれば、府立第九中学(現・北園高校)の生徒時代。父・高柳黄卯木が同人だった「春蘭」に句を投じていた。手書きの十代句集名を『金魚玉』(土屋文明記念文学館蔵)としているので、愛着の句に違いない。高柳は「まだ僕は、厳密な意味においては、この俳句形式を、はっきり意識的に選んでいたわけではなかった」〈自作ノート〉という高柳の少年句は、卓越した修辞や世界観がある訳ではない。ただ、伸びやかな俳句のリズムの心地よさに、その才能を感じさせるものだ。高柳も自身の少年句のよさを『前略十年』編集時には自覚したはずだ。 身をそらす虹の 絶巓 処刑台 『蕗子』昭和25年(1950) 「逃の歌」冒頭句。「群」(昭和22年4・5月号)に「提議」を掲げて多行形式の創作ははじまった。「従来の一行詩型式が絶対化してゐるところにからみついてゐる硬化的残滓的なものの排除と、空白圧力を効用した有機的構成によつての表白内容の拡張─此処の開拓を」目指すものであった。多行形式は戦後青年達の新たな表現の出立の一つであった。戦後の俳句の担い手は、「戦後派」の帰還青年世代に移ってきた。既に桑原武夫の「第二芸術」論(昭和21年11月)が世に出て、従来の俳句の在りよう、表現は批判された。掲句は、萩原朔太郎の「天上縊死」(『月に吠える』)に発想の核があるかもしれない。 明日は 胸に咲く 血の華の よひどれし 蕾かな 『伯爵領』昭和27年(1952) 「領内古謡」に収録。「明日は胸に咲く血の華」は、肺病者の吐血へのおののきの比喩である。それが蕾として自身の中に存在する。滅びの種は外ではなく、自身の内にある。それゆえに確実に思われる。これも高柳個人に根があるのだろうが、それを普遍的な詩語として延伸している。古謡として人口に膾炙する言葉と変えている。滅びの予感がもたらす恐怖とそれゆえのヒロイズムとナルシシズムがない交ぜになっている。「よひどれし」の一行の揺蕩いが、この句を謡ならしめている。文脈からすれば、この一行がなくても成立し、直線的な表現となるだろう。しかし、謡い揺蕩うためには必須の言葉である。 耳の五月よ 嗚呼 嗚呼と 耳鐘は鳴り 『遠耳父母』(母岩社版『高柳重信全句集』内句集) 昭和47年(1972) 「耳の五月」に収録。聴覚は輝く五月の音を集めようと開く。「耳の五月よ」だ。しかし、「嗚呼/嗚呼」というノイズが邪魔をする。「耳鐘」、すなわち耳鳴りである。外に開こうとする思いの一方で、身体はそれを遮断しようとする。耳鳴りは、外部の音でなく自身が発する音である。明るい季節の中だからこそ沈潜してゆく魂は一層暗く重く孤独を増す。澤好摩は、「当事者の嘆きそのもの」と評し、夏石番矢は「『耳鐘』は単なる耳鳴りではなく、耳の持ち主の死を知らせている」と評する。耳鐘を鳴らす身体は、無意識のレベルで外界を遮断する装置として働き、悩ましい自己意識を覚醒させるのだ。 目醒(めざ)め がちなる わが尽忠(じんちゆう)は 俳句(はいく)かな 『山海集』昭和51年(1976) 「日本軍歌集」に収録。夏石番矢は「鍵谷徳三郎作詞『橘中佐』の、『目醒めがちなる敵兵の』の本歌取り」と指摘する。つまり、橘周太の国家への尽忠に対して、「わが尽忠(じんちゆう)は俳句(はいく)」と個人の尽忠を対比させている。夏石が「敵兵の」まで引くように、この詞句は塹壕の夜の秋風の音にも眠れずに不安が募る敵兵を述べたものである。この句が高柳の志述の句として読まれるゆえんでもある。「目醒(めざ)め/がちなる」のように、一語の途中で改行するのは、高柳には稀有なことである。国家体制から目醒めてしまった不安と逡巡を改行で表現したのであろう。澤好摩は、高柳に則して「含羞」の表現だとする。 友よ我は片腕すでに鬼となりぬ 『山川蟬夫句集』昭和55年(1980) 「雑」に収録。「友よ」と呼びかける対象は、高柳をよく知る少数の者が想定されているか。「片腕すでに鬼となりぬ」とうちあけられて、その意味を了解できる者である。鬼は両義性を持つ。人々の汚れを代わりに引き受けた善行のゆえに、その引き受けた汚れをもって追われるのだと聞いたことがある。高柳の片腕は、人為の領を超える所行をしたために、鬼となったのであろう。の営為の意味と同時に追われる存在になった本当の意味を、共有できる者が「友」として呼びかけられ、自身の片腕が鬼神に変容した秘密を告げられるのである。 巻末の解説をすこし紹介しておきたい。 高柳重信は、俳壇的には「戦後派」と称されるひとりである。金子兜太、鈴木六林男、佐藤鬼房、飯田龍太、森澄雄などが該当する。活動は戦前からであっても、主に戦後になってから俳壇に登場した人々である。しかし、それは単に戦後に活躍を始めたというよりも、これらの人々は大正生まれの従軍世代であり、戦争体験を内面化して、それを戦後に俳句を書くことの根底に抱えていた人々ゆえである。それは戦前の俳句が抱えた翼賛的な問題を超克するということでもあった。時代の風も彼らに吹いた。桑原武夫「第二芸術」論(昭和21年)の俳句批判は、戦中の主な俳人の立ち居振る舞いに対する批判が根底にあった。戦中を翼賛的に導いた大家クラスはその力を失いつつあった。戦後を主導したのは、戦前から俳壇的な存在ではあった中堅世代であった。新俳句人連盟や現代俳句協会を立ち上げて主導したのは彼らであり、その中で台頭してきたのが、戦後派と言われる当時主に二十代の俳人たちであったのである。 と記し、高柳重信の俳句史的な位置づけをしている。そして、『日本海軍』『日本海軍・補遺』の解説において、 皇国少年高柳重信が憧れた日本海軍の艦名から発想し句の核に据える。それは多く俳句の季語が担っていた役割と変わらない。多くは地名である。その名を句の発想にすることは、その地名が負うイメージを高柳なりに創造することでもあるが、また結果としてそれぞれの艦が負った運命を滲ませるものともなっている。 幼年の記憶を「僕の魂の古代史」(『山海集』「後記」)と言った高柳の、これも魂の古代史かもしれないが、それは「野史」であり、高柳が再び「日本海軍」を生き直すことであった。自ずから鎮魂の言葉となり、追悼の言葉の饗宴集の趣である。高柳は忘れない人である。かくも長く戦前、戦後を追い続け、書き続けたのかと思うと、胸に迫るものがある。高柳は言葉で生き直す必要があったのである。 「俳句形式」への果敢な試みによって、「戦後日本」を問いつづけた俳人・高柳重信。 本著によって、高柳重信をいまだしらざる読者にとって重信とのあらたなる出合いとなれば、林桂さんの尽力もむくわれることになるだろう。 林桂さんが時間をかけて取り組まれた一書である。 船焼き捨てし 船長は 泳ぐかな 高柳重信
by fragie777
| 2025-07-28 19:02
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