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7月27日(日) 旧暦6月3日
休日の今日、午前からお昼にかけて家でゴロゴロとし、夕方近くに自転車をフラフラと漕いで、仙川沿いに丸池公園まで出かける。 ゴロゴロ、フラフラなんていかにも休日らしくっていいでしょ。 実は昨夜は、日傘を電車にわすれてしまい、若葉台というおりたこともない駅までとりにいくことになってしまい、その騒動で家にかえりついたのが、11時過ぎになってしまったのだった。 炎天下の名栗をあるきまわってやっと仙川にたどり着いたとおもいきや、大事な日傘のわすれもの、しかし、見つかってよかった。 が、なんとも疲れ切った一日となってしまった。 今日は三時半すぎに家をでたのであるが、予想以上に暑くて、仙川沿いも人の姿がほとんどない。 これじゃ、翡翠にも会えやしないっておもったのだが、 あきらめていたところ、可愛らしい声がした。 おお、やってきた。 ツガイの二羽である。 よく知っている二羽。 こちらがメス。 こちらがオス。 同じオス。 こちらも。 ブルーとこの眼差しは見ておきたい。 翡翠たちがくらす仙川。 人の暮らしがすぐそばにあり、緑もまた豊かである。 新聞掲載記事を紹介しておきたい。 昨日26日づけの毎日新聞の書評欄には、林和清著『塚本邦雄の百首』が詩人の渡邊十絲子さんによって評されている。詩人の目をとおして読まれたということもあって、入門書としての位置づけが認識され、単なるテキスト論のみではなく、「年譜的な要素を多く取り入れた解説になっている。これがありがたい。その道の人には常識であることも、門外漢は知らないである」と語る。タイトルは、「可能性、狭いところに押し込めてくれるな」。非常にふかく読み込まれた書評であるので多くを紹介したいところであるが、抜粋にとどめる。 (略)〈革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづづ液化してゆくピアノ〉シュルレアリスムの絵画を思わせるような少し不穏な光景で、斬新である。塚本の第一歌集『水葬物語』巻頭の一首だが、この歌集は盟友への追悼の意をこめた限定一二〇部の和綴じ本であり、〈華々しい脚光を浴びた――わけではなかった〉。こうした背景を知ると歌の味わいが重層的になる。もちろん、背景を知らないと読めないということはまったくなく、それこそ「フラット」に読んでもよい。鍛えられた言葉はそれ自体普遍的に訴えかける力をもっているので、ただ注意深く誠実に読んでいけばそれでよいのだが、背景を知っている人の言葉に耳を傾けると読みの態度があらたまるのである。「好き勝手」が抑制されるといったらいいのか。でもそれは不自由になる、縛られるということではない。知り得たことを錘として地に足をつけて、しかしそのうえで自分に読めるように読んでいくのだ。(略) (略)塚本の短歌は切れ味するどく、若者のような潔癖さといらだちを感じさせるものが多い。〈あぢさゐに腐臭ただよひ、日本はかならず日本人がほろぼす〉。解説にはこうある。〈塚本は社会詠を状況的に詠うことはなく、人間の業の集積として国内外の情勢を捉えようとする。その時見えてくるのは、必ずまた過ちを起こしてしまう人間の愚かさである〉。日本人が日本をほろぼすすシナリオを何通りでも心に描いて、しかし塚本そこに直接立ちはだかることはせず、言葉で築く楼閣を置くことを抵抗のしるしとした。そんなことを思った。 テキスト論か、あるいは作品の背後の作家の資料をふまえた上での評論か、19世紀のフランスの文芸評論家サント=ブーヴより論議のあるところであり、むずかしいところだと思う。しかし、そのうえで百首シリーズも百句シリーズも、執筆者におねがいすることは、まず「入門書」であるということ、それは、その作家にはじめて出会う人たちを念頭においてほしいということである。 今日の朝日新聞の岸本尚毅さんによる「俳句時評」に、大塚凱句集『或』がとりあげられて評されている。 抜粋にて紹介しておきたい。タイトルは「若き俳人の模索」 〈橋に鳩マフラー貸してそれつきり〉〈売れ残る金魚のやうに夜を遊ぶ〉〈夜桜や遊具の上のおとなたち〉〈卒業の頃からずつと工事の駅〉〈僕ら残像白シャツを脱ぐ脱がす〉〈山焼く日つねの遠目のぬひぐるみ〉大塚凱『或』から引いた。(略)過ぎ行く青春を慈しむように詠む大塚は一九九五年生。 このような大塚の句を叙情で括るのは早計だろう。踏絵を通じて人間性を穿った〈踏めば絵のみえなくなると唆す〉、人の意識でそれ自体を描出した〈眼は次の草を見てゐて草むしり〉、静謐な空無感を表出した〈おもかげのなくて水澄むベンチかな〉など、俳句表現の可能性を探り続ける大塚は、自身の青春の叙情さえも俳句の契機として意識的に対象化しているかのように思える。 ほかに、若林哲哉句集『漱口』(文学の森刊)について、 大塚とは対照的に、若林は近代俳句の培ってきた方法を磨くことに傾注する。〈黄砂ふるつややかなるは八手の美〉〈蜘蛛が蝿食ふ石蕗の花の上〉などは伝統的な写実の手法で得た新鮮な作。 大塚、若林にかぎらす若い俳人たちの模索は続く。刮目して見守りたいと思う。 共同通信発信の新聞評の浅川芳直さんの「俳句はいま」に、大塚凱句集『或』がとりあげられている。 高山れおな句集『百題稽古』とともに。タイトルは「『伝統』の見せ方が痛快」 こちらも抜粋して紹介。 現代の前衛派と言うべき高山れおなの最新句集は、ずばり『百題稽古』(現代短歌社刊)。コンセプチュアルな一書で、王朝和歌の「堀河百首」「永久百首」「六百番歌合」の題で三〇〇句を作句。テーマや枠組みを設定してから制作された句集だ。季語の先祖が和歌の題にあることは周知の事実。百首歌の題で作句する試みには、現代俳句への批評性もある。(略)〈宇宙戦艦陽炎に顕ち窓に顕つ」の題は「隔遠路恋」。読者は題を先に読むことで、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」で描かれた愛や犠牲を思い、恋の句として納得する面白さがある。(略)昭和期以降の「伝統俳句」とは違う「伝統のかたち」を見せる痛快さがある。 対照的に、実感に寄ったナイーブな魅力をたたえるのが、大塚凱句集『或』(ふらんす堂)上五のリズムを細かく割る文体が、繊細な印象を深くする。(略)〈ねえ僕と濡れてどうする春の馬〉。模糊としてつかみようのない、そのときどきの気分が一句一句に乗る。 〈いもうとをのどかな水甕と思ふ〉〈もう散らすさくらがなくて自由帳〉〈塔撮れば鳥ぼやてゐた春のこと〉〈いもうとを父が殖やして月見草〉妹、父、桜、鳥は本書に繰り返しさりげなく現れる主題。対象への焦点をあえて合わせない写実が、かえって俳句を儚げにして読者へ訴えかけてくる。 7月18日づけの東京新聞の安里琉太さんによる俳句月評「正直日和」は、大塚凱句集『或』について。タイトルは「抒情は都市を変えてゆくか」こちらも丹念な評であるが、抜粋して紹介をしたい。 本書は日本的というよりアジア的であり、首都近郊に暮らす生活者の抒情に満ちている。〈夢の島除夜のおほきな闇が来る〉〈桃に灯や寺ひとつないまちづくり〉終わりを先送りしながら発展や増幅増殖を推し勧める資本主義社会の内側で都市は何度も開発される。(略)アジア的というのは本書に書き込まれる地理的奥行きに留まらず、「水」「雨」「雲」「湿度」などの頻出する語が喚起する肌の感覚を含めての印象である。この肌の感覚は、ときに過ぎゆく刹那を読み手に共有する体感的な抒情の回路としても機能しているように思われる。(略) 都市の様相は、かつて石橋辰之助が〈誰の銀座だこの一足の靴で歩く〉と書いた戦後とは異なる。(略)〈永遠を山手線でねむりこむ〉〈逃れても月ありあまる都心かな〉ー均質でどこまでも飽和した現実感の稀薄な空間の感覚は、常に終わりを先延ばしにする資本主義の倦怠感とそう遠くない。 〈そのダムを父は造つてから行かず〉〈掘る父に墓参とおなじ雨のふる〉〈いもうとを父が殖やして月見草〉ー父との墓参から始まる本書において、父は作り殖やす営為を担ってきた存在として書かれる。この句集の主体の恋愛や抒情は、そうした父のような営為の反復から逸れたがっているように見える。都市はそうした営為の残滓のように墓が殖える。 大塚凱句集『或』については、さまざまに取り上げられ評されていて興味ふかい。 ゴロゴロへらへらした休日であったけれど、こうして新聞評を紹介するのも、けっこう時間がかかってしまう。 本当は抜粋なんかじゃなくて、紹介したいのだけど、 ああ、抜粋でなかったらもっとたいへん、っていまおもった。 打ち間違いや変換ミスがあるかもしれないな。いや、きっとある。 ご指摘くださってよくってよ。 今日の任務(?)はおわった。 帰ろう。。。 この翡翠はまた別の個体。 わたしがはじめて仙川で翡翠にあった場所に今日いたのだ。
by fragie777
| 2025-07-27 20:04
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Comments(2)
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