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7月25日(金) 旧暦6月1日
ハイビスカス。 神代植物円の温室にて。 嬉しいお知らせがひとつ。 築秋雄(ちく・あきお)さんの詩集『漂流詩人の唄』が第46回山之口貘賞(主催・琉球新報社、後援・山之口貘記念会、南海日日新聞社)を受賞。 野原誠喜(のはら・まさき)さん詩集「鰯と鮪」とのダブル受賞となった。 選者は、高橋順子、市原千佳子、高良勉の各詩人の方々。 受賞作の「漂流詩人の唄」について「詩の世界を大きく力強く広げる」(高橋氏)、「奄美猛者の詩と詞とギターを抱えての挑戦的船出」(市原氏)、「詩で訴える力が強い。叫ぶ、祈るの原点詩」(高良氏)と評価された。 詩集『漂流詩人の唄』は、シンガー・ソング・ライターとして発表したオリジナルアルバム、ミニアルバムの自作詞、その他CD未収録の朗読詩などを含めた全82篇の集大成である。 築秋雄さま。 ご受賞おめでとうございます! やりましたね! こころよりお祝いをもうしあげます。 新刊紹介をしたい。 46判ソフトカバー装 136頁 三句組 俳人で俳誌「絵硝子」主宰の和田順子(わだ・じゅんこ)さんの第1句集『五月』の新装版である。平成2年(1990)に刊行されたものであるので、36年まえの刊行である。そして昭和55年(1980)年の作品から昭和62年(1987)までの作品が収録してある。和田順子さんは、昭和12年(1937)のお生まれなので、作者40歳代から50歳までの作品の収録である。句集名「五月」が語るように、作者にとっても瑞々しい時代の作品が収録されている。序句を俳誌「万蕾』の殿村菟絲子主宰、跋文を「万蕾」同人会長だった所山花さんが寄せている。そして、一篇の旅の随想「松江から米子まで」を収録。このエッセイは、たいへん味わいふかいものである。 紋白蝶一会一会の波頭 殿村菟絲子 所山花さんの跋文も紹介しておきたい。 風ぬくし干して銀噴く美濃瓦 忘れ霜仏事の大根引抜ける 人声のみな柔らかし岐阜提灯 いずれも岐阜の句である。順子さんの出生地は兵庫県。幼児期を除いてその人間成にかかわった土地はすべて東京である。だが、彼女は、そのいずこにも「故郷」はないという。唯一、夫君の郷里の岐阜に、順子さんの求める「故郷」を感じているという。 岐阜というと、だれしも、金華山と長良川を思い浮かべ、鵜飼をなつかしむ。しかし、順子さんが心を寄せているのは、あまり人目につかない「瓦」であり、「大根」であり、「人声」である。よほど心の深い人でないと、こういう句は詠めない。 担当は、文己さん。 行く春を巣籠る鳥と一つ部屋 今日了ふや西日まつすぐ眉に来て 顔埋めて白桃吸へば山近し 旱星たんぽぽの絮発光す 露けしや銅器しづかに錆育て 蛇を見しまなこいつまで冷たくて 一念の落葉音なく踏み行けり 今日了ふや西日まつすぐ眉に来て この句「西日」が季語である。「西日」ってつねにあるものであるが、夏の季題となっている。歳時記には、「強烈な夏の西日は耐え難いものである。いつまでもかっと部屋に差し込んで、晩夏のやりきれない暑さを印象づける」とあり、たしかにそうである。この句、その「西日」の強烈さを、眉がうけとめているのだ。いかにも眩しそうである。「今日了ふや」に脱力感があり、西日に攻められている身体がある。わたしはふっと山口百恵がうたう「イミテーションゴールド」の歌詞を思い出した。まさにここにも、やりきれない脱力感がある。余計なことだけど、この歌、大好きなの。。。 顔埋めて白桃吸へば山近し この一句、なかなかすごい句である。なにがすごいって「顔埋めて白桃を吸う」のも、「山近し」も。この行為の主(ぬし)のなんというか、旺盛な生命力のようなものが伝わってくる。桃にかぶりついてその汁ごとむさぼっているわけなのだが、それを「顔埋めて」としたのが面白い、およそこんな措辞は、「白桃」ぐらいだろう、許せるのは。「囓る」ではなく「吸う」のだ。それもいかにも白桃らしい。顔をよごしてしたたる汁がみえてくるようだ。そして「山近し」のおおいなる飛躍。理屈では語れない感覚、しかし、読者をだまらせてしまうような「山近し」である。いい句であると思う。 一念の落葉音なく踏み行けり 句集の最後におかれた一句である。この句、中7下5はよくある表現である。しかし、上5の「一念」が決まってる。「一念」には、二通りの意味がある。「心に深く思うこと。一筋に思うこと。」そして、「ふと思い出すこと。ちょっと考えること」。この一句における「一念」は、もちろん前者である。ただ、解釈にまようのは、落葉を踏むという一念にこころが捉えられていてひたすらに深閑と落葉を踏んでいるのか、あるいは、あることがらに心がとらえられていて、そちらに集中するあまり落葉の音さえ耳に入らず踏んでいるのか。いずれにしても落葉をふんでいる一人の人間と静けさが支配する枯れ世界が、みえてくる。「一念の」という上5に導き出された落葉の一句であると思った。ほかに、〈身の力抜けばしきりに欅散る〉という句もあっておもしろい。 未だ誰も声立てぬなり百合ひらく 百合の句である。わたしが立ち止まった一句。清新なひらいたばかりの百合の花がみえてくる。「未だ誰も声立てぬ」という措辞に、人声に汚されていない百合の気配がある。はりつめた緊張感のあるなかで開いたばかりの百合。「百合ひらく」という措辞が、空気をきりひらいていくような刷新とした気にみちている。百合の生命力が、瑞々しくあたりを支配する。百合へのこころからのオマージュだ。 時雨来て山蟹の背を濡らしけり この句もすきな一句である。「時雨」は天然自然のあらゆるものを濡らす。しかし、ここでは「山蟹」が選ばれたのがいい。しかも、「山蟹の背」である。なんと小さな領域であるか。時雨という雨の繊細さもみえてくる。作者の生きとし生けるものへむける優しい眼差しがあり、また、「山蟹の背」をあえて選んだ作者の俳諧性も思う。この句は「時雨来て」の「来て」によって、「時雨」がまるで命あるもののように見えてきて、それが山蟹の背にやってきて濡らした、そんな風な味わいもみせてくれる一句ではないだろうか。 校正スタッフのみおさんは、〈身の力抜けばしきりに欅散る〉がとても好きです。欅が散るときはまさにこんな感じだなぁとしみじみ思います。 この『五月』は私の第一句集の復刻新装版である。本阿弥書店の現代俳句シリーズに加えていただき、平成二年に刊行した。殿村菟絲子先生の「万蕾」に学び十七年が過ぎていた。俳句に取りつかれ、夢中になっていた初学時代の作品である。それから三十五年が経ち、六冊の句集を刊行してきたがこの『五月』が私の原点と思っている。菟絲子先生を信じ、先生に応えようと励んでいた頃の懐かしい句集である。 新書判のための「あとがき」を紹介した。 装釘は、君嶋真理子さん。 「爽やかな出来上がり」と和田順子氏は喜んでくださった。 「繪硝子」三十周年を迎えて、未読の会員に読んでいただきたく、ふらんす堂さんの復刻版のお誘いに加わることにいたしました。また、「繪硝子」主宰を継承したころの、旅のエッセイを掲載させていただきました。 「あとがき」にあるように、主宰誌「絵硝子」の30周年のお祝いの記念として刊行されたものである。 巻末に収録されたエッセイは、和田順子さんがエッセイの優れた書き手であることを実証するようないいエッセイである。 「心が深い」と跋文で所山花さんは言っておられたが、読者をしみじみとした感慨にさそうエッセイだ。 「絵硝子」7月号より、主宰作品十句より三句と添えられたエッセイを紹介したい。 「大岡信展 三句」の前書きがあり、 葉桜や文学館の黒鉄扉 館涼し思案の文字をたどりけり 直筆の伝ふるこころ花は葉に 神奈川近代文学館で開かれている「大岡信」展へ行った。港の見える丘公園は、桜と薔薇の季節の間で珍しく静か、文学館も静かであった。 歌人として詩人として、また、「折々の歌」の著者としてよく知られるが、私にとっては『紀貫之』の著者であることがいつも心にある。明治維新の日本の近代化政策に押されて、正岡子規の掲げた「歌よみに与ふる書」に書かれた「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」のなぜであるかを、日本の文学の発生を踏まえ、子規に抗うことなく、紀貫之の存在意義を示した名著。言葉が何とも優しい。言葉は正確に物事を伝える役目もあるが、心を、気持を納得させる力もあると思う。 和田順子主宰、 そして「絵硝子」のみなさま、 創刊30周年、まことにおめでとうございます。 こころからお祝いを申し上げます。
by fragie777
| 2025-07-25 19:32
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