|
カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
7月15日(火) 旧暦6月21日
仙川沿いに咲いていたカンナ。 このすぐ近くには翡翠がいる。 今日は「ふらんす堂通信185号」を校了にすべく朝からずっと目をとおす。 コラムのイラストはどうなったかって。 それが、体調をくずしていた君嶋真理子さんが見事復活をし、さきほど仕上げてくれたのだった。 本当に助かった!! 送られたイラストをしげしげと眺め、スタッフのピンチを確認したのだった。 君嶋さんも今回のことをさっそくコラムの題材にして、無事に参加(?)をはたしたのだった。 生きていれば、人間ピンチに見舞われることだってある。 思うに、わたしのピンチはたいしたことないな。 スタッフたちのピンチはピンチそのものである。 「コラム」をお楽しみに。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯有り 230頁 二句組 谷ゆう子さんの第2句集となる。2017年10月に第1句集『樫の花』をふらんす堂より上梓されており、今回はそれにつぐものである。谷ゆう子さんは、昭和20年(1945)高知県生まれ、平成10年(1988)「鶴」に入会し、星野麥丘人、鈴木しげをに師事。「鶴」同人。俳人協会会員、茨木市俳句協会会員、「四万十」同人。平成26年(2014)に高知県短詩型文学賞、平成28年(2016)に「鶴」賞を受賞しておられる。本句集に、鈴木しげを主宰が跋文を寄せている。抜粋して紹介したい。 声立てて笑へば山の笑ひけり 少しづつ泥しづまりし植田かな 青竹の撓りてもどる余寒かな へび苺そんなに蛇は居るまいに 東入ル西入ル京の初つばめ ここに挙げた句にはぼくは谷ゆう子という俳人の従来になかった詩境というものを感じる。句作の方向性といっていいと思う。全体に明るく、どこかにユーモアがのぞく。進むべき俳句の道を自得したと思う。 第Ⅰ句集『樫の花』上梓より8年目にあたるこの度の第2句集のご上梓であるが、この間のことを谷ゆう子さんは、「あとがき」にこんな風に書かれている。 その間、多くの喜怒哀楽は身ほとりの俳句と共にあったような気がします。 この七年は私自身変わらざるを得ない変化が二つありました。夫の死は、あまりにもさり気なくあっけなく、自分のしてきたことを悔やむばかりです。 そしてその後、敬愛し、多大の影響を受け続けた大石悦子氏を亡くしました。未だに夢のかなたのことのように思えてなりません。心の軸が揺らがぬよう耐えている自分がありました。 ふたりの大事な人を失ったのである。ご夫君と敬愛する俳人・大石悦子さん。その喪失感はいかばかりであっただろう。 呵呵と笑ふ面ふとかなし壬生狂言 句集名となった一句である。「句集名は「呵呵」としました。笑いの底の悲しみに不思議な力を感じるからです。」と「あとがき」にある。ちなみに「呵呵」とは、広辞苑によると「大声で笑うさま」とある。わたしは壬生狂言を見たことがない、壬生寺でおこなわれるこの狂言を一度はみてみたいものだ。谷ゆう子さんは、この伝統芸能の笑いの様式に不思議な力を感じたのである。 本句集の担当は、文己さん。 文己さんの好きな句を選んでもらった。 雲梯を渡る少年いわし雲 迎へ火やひとの後ろを風の過ぐ 身をほそく抜けて白萩こぼしけり 待たさるる時間も楽し夕桜 ゆふぐれの雨の匂ひの端居かな 字ひとつゆるやかに抱き春の山 吾が鱗ひとつ外して秋立ちぬ 二駅を夏の遍路と乗り合はす 身をほそく抜けて白萩こぼしけり 鈴木主宰も跋文でとりあげている一句である。わたしも好きな一句である。「白萩の小径を身を細めながら行く作者。清雅の趣といっていいであろう。」と。白萩が咲きあふれている径なのだろうか。もうそれだけで、清澄な景色がみえてくる。そこをどうやら通り抜けねばならないのだ。こぼさぬようこぼさぬように通り抜けるさまが、「身をほそく抜けて」の措辞からみえてくる。そして、やっぱりこぼしてしまうのだ。ただし白萩である。こぼるるさまも清らかな趣き。「けり」の切れ字に、はらはらとこぼれてゆく白萩の花のひそやかな音がこめられているようである。校正スタッフのみおさんも「萩の花の散りやすさが伝わってきます。」とこの一句を好きな句に選んでいる。 待たさるる時間も楽し夕桜 この句もまた、跋文にてふれられている。「待たさるる時間の楽しさ。いい人生の過ごし方を教えていただいた思いである。」と。夕桜を堪能している様子がみてとれるそんなたっぷりした時間を感じる一句である。この余裕が大事って思う、わたしのように日々あくせくして暮らしている人間には。この一句において、何を待っているのだろうか。そのことには触れていない。要するにそれは問題ではないのである。「待たさるる」という一般的には勘弁してほしいというそういう局面において、作者はそれを楽しいと思えるのである。それはひとえに目の前の「夕桜」の魔法にかけられてしまっているのだ。なんとも素敵な魔法ではないか。ごの魔法にあずかるのは、やはり誰でもと言うことではない。桜を愛でる心がないとね。目の前の利益にあくせくしているがさつな人間じゃだめなのよね。そんな人間は誰って。わたしのことよ。 踊りの手月に触れたり離れたり 谷ゆう子さんが自選にあげている一句であり、わたしも印をつけた一句である。盆踊りの風景であるが、手に焦点をしぼってシンプルに叙したところが巧みだ。「月に触れたり離れたり」という中七下五の措辞がいままさに踊の渦中であることを語りっており、遠景のうごかぬ月と近景の躍動する手のとりあわせも見事であるとおもう。一幅の絵となりそうな一句とも。 百合一花句座に悦子の現れず 〈初夏のくわんおん道を逝かれしか〉という句がその後方にあることから、大石悦子の死を予感させるものだ。いつも姿をみせておられた大石悦子さんがいないのである。その大いなる非在をうめるかのように百合が活けられている。その百合一花の存在感は大きく句座にいない大石悦子の化身であるかのよう。百合の花の美しさは、大石悦子という美しい俳人にはふさわしいとわたしも思う。しかし、作者にとって敬愛する大石悦子は、百合一花の存在感をもってしてもうめきれずものではなく、その姿を渇望しているのである。上五に「百合一花」とおき、百合の花のゆるぎなさを表出することによって、大石悦子の非在の現実の重みを緊迫感をもって詠出している。 虫の夜や己小さくなるばかり 作者自選の一句である。おもしろい一句だとおもう。あたりいったいの虫の音にかこまれている作者がいる。こういう経験はしたことがある。すさまじいまでの虫の声声。小さな虫といえども集まればそれは声の脅威ともなる。この一句では、作者は虫の音にそれほど脅威を感じているのではないと思う。ただ、秋の夜の静かなひととき、虫の音のみがあたりを制覇しているのだろう。その虫の音にじいっと耳をそばだてているのだ。そしてなにも考えずにひたすら虫の夜を堪能しているのである。そうして虫の世界に引き込まれていく我がいる。どんどん虫の音に深入りし身体をあずけていくさまを「己小さくなるばかり」と思い切った表現で詠んだ一句だ。そして、その心情もまたよくわかる。 校正スタッフの幸香さんは、「〈白雲の影さへ沈め寒の水〉に特に惹かれました。」 「今後も、明るくささやかな暮しが俳句や仲間と共にあればと思います。第二句集の上梓が、これから後の人生の糧になればと決心しました。そう努力していきたいと強く願っています。」 「あとがき」を抜粋して紹介した。 装釘は君嶋真理子さん。 明るく華やかなものをのぞまれた谷ゆう子さんである。 句集名は金箔押し。 扉。 薄氷を突けばこつと季(とき)の音 この集の掉尾を飾るにふさわしい一句。氷解くる春の息吹きがよき音となってゆう子さんの次なる一歩を予感させるものがある。(鈴木しげを/跋) ご上梓後のお気持ちをうかがった。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? 開けて見るのが怖かったですが、明るくスマートな装丁に嬉しくなりました。 句集になったものを読んでみたら、すこし野暮ったい私の拙い句が、作者の私から離れて飛立っていくような不思議な感覚になりました。句集を編むとはこういうことかと驚いています。 (2)第二句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい つつましくても清々しく生きていきたいという思いを込めました。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 今までもこれからも言葉を探す旅をするのみです。 谷ゆう子さん。 仙川にいらした時に。 百日紅いのち畏みゐたりけり 谷 ゆう子
by fragie777
| 2025-07-15 19:49
|
Comments(0)
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||