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7月14日(月) パリ祭 旧暦6月20日
仙川沿いの雀。 ここには雀が屯しているが、人間の姿を感じるとバッと飛び立ってしまう。 一羽は首をかしげて、わたしを見ている。 かわいいな。 新聞記事を紹介したい。 昨日の朝日新聞の「風信」には、山口昭男句集『花信草信』 がとりあげられている。 「秋草」創刊主宰による、エッセーを付けた。7月13日は「白靴に覇気黒靴に虚脱あり」 今日の讀賣新聞の長谷川櫂さんによる「四季」は、槇かをり句集『音の風景』 より。 髪洗ふ深い濁りのメコン川 槇かをり 「家で髪を洗いながら、ふとメコン川の豊かな水(深き濁り)を思い浮かべたのだろう」と長谷川櫂さん。 「メコン川」どのような川なのだろう。わたしは眼をつぶる。そして「深き濁り」を思い浮かべる。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯有り 104頁 二首組 著者の佐藤照男(さとう・てるお)さんの第1歌集となる。佐藤照男さんについては、1950年日立市生まれ。福島県で育つ。元教員。とのみ略歴にある。「あとがき」を紹介しておきたい。 二十代はじめに短歌を始めました。歌集が手に入らないことが多かったので、借りて書き写し学びました。職に就いてからは仕事に追われ、作るより読むことが中心になりました。 職を退いたあと、短歌づくりを再開しました。先ずは投稿をはじめました。結社には抵抗がありましたが、妻の死のあと挽歌を作りたいと思い、結社に入りました。 短歌を再開して十五年、妻の死から五年。これまでの歌をまとめてみました。 「妻の死のあと挽歌を作りたいと思い」とあるが、佐藤照男さんは、2021年3月に夫人の佐藤美代子さんの遺稿をまとめられ、歌集『木洩れ陽の道』として上梓されている。 「挽歌をつくりたい」と「あとがき」にあるように、本歌集は佐藤美代子夫人へささげられた挽歌である。 歌集名が「この闇のむかう」である。 本をひらけば、 この闇のむかうの闇に昼も夜も続々のぼる若鮎らゐる の一首がおかれている。 この一首は叙景歌であるが、歌集名には、佐藤照男さんの妻恋とそれを乗り越えようとしている思いが籠められているのではないかと思う。 本歌集は、ⅠⅡⅢの三つの章よりなる。Ⅱは「妻の死 二〇二〇年~」とあり、ⅠとⅢはその前後の歌が四季別で収録されている。 Ⅰは「季節のなかに1 二〇一〇から二〇一九年」Ⅲは「季節のなかに2 二〇二〇年より」。 本歌集の担当は、文己さん。 陽光にわが内部(うち)までも照らされぬ拠り所などなきが如くに ベッドから手をさし延ばし握れと言ふ君は命の危ふさ知りて 夜の方が金木犀は匂ふね、と香りのなかの亡き妻の声 吾(あ)の知らぬ妻のこころを覗くごと短歌読み継ぐ雨の一日 歌写す作業は一歩一歩づつあなたの死へと近づいてゆく 文己さんが選んだ短歌は、第1首目をのぞいてあとの短歌はすべて「Ⅱ」からのものである。 陽光にわが内部(うち)までも照らされぬ拠り所などなきが如くに 作者も自選にいれている一首である。しかし、わたしにはなかなか鑑賞がむずかしかった。「夏」の項目に入っている。この「陽光」は夏のギラギラした日差しであるのか。そんな激しい太陽のひかりが肉体の内部まで差し込んできているように感じたということであるのか、問題はこの「内部」である。これは胃袋とか心臓とか身体の物質的な内部のことではなく、肉体の内側にあって形ではないもの、なのか、それとも肉体の皮をつきやぶったところにあるもの、なのか、判明はしないのだけれど、なにかわかる。それは肉体の外側でないもの、そこまで光線は照射している、しかし、その肉体のなんと所在ないことよ、ということなのだろうか。身体感覚としては、なんとなくはわかるのだが。。きっともっとよい鑑賞があると思う。 夜の方が金木犀は匂ふね、と香りのなかの亡き妻の声 人がなにかを思い出すとき、香りや色や音や映像など感覚が刺激されたものとともに思い出すものである。あまりにも陳腐であるが、プルーストにおける「紅茶にひたしたマドレーヌ」が、然りであるように。佐藤照男さんにおいては、金木犀の香りのなかに、妻の声がよみがえるのだ。しかもその妻の声は、ひとつの言葉となって、せつせつと甦ってくる。それほど鮮明な思い出なのである。妻を思い出すさまざまな日常の場面はあるとおもうが、この金木犀の香りは、妻の声をともなってとりわけ妻をわすれがたいものにしているのだ。この短歌を鑑賞しながらふっと思ったことは、わたしは紫木蓮が咲くときまって亡き母を思い出す。母が好きだった花ということではなく、入院の母を見舞いにいく途中に咲いていた紫木蓮が脳裡にやきついてしまったのだ。なにゆえか、と自身に問うてみると、母の病気もしかり、またそれ以上にある悲痛な思いをかかえこんで病気の母に向き合わなくてはならない心のしんどさのまま見上げた紫木蓮だったのである。数十年経った今は、その心痛はきえて、紫木蓮を見ると懐かしい母の顔がうかぶととも、わたしがんばったじゃないという自足のおもいばかりである。自分でいうのもなんだけどおめでたいヤツなのよね。 吾(あ)の知らぬ妻のこころを覗くごと短歌読み継ぐ雨の一日 歌写す作業は一歩一歩づつあなたの死へと近づいてゆく この二首は、夫人の歌集『木洩れ陽の道』を編集されているときの心境を読んだ歌である。わたしはいま目の前にこの『木洩れ陽の道』も置いてブログを書いているのだが、そうか、そのようにしてこの歌集は編まれたのかと感慨深いものがある。『木洩れ陽の道』はたいへん丹念に編まれた歌集である。収録短歌の数もおおく、佐藤美代子さんの日常のまなざしを細やかに感じることのできるものだ。たぶん、佐藤照男さんは、一首ずつ読み止めながら、すでにこの世にはいない妻と新たなる出合いをはたしておられたのではないか。雨の日などは妻の非在の悲しみがいっそう佐藤さんのこころに染み込んできたことだろう。遺された歌によってもう一度生き返った妻であるが、やがてその歌をとおして、死の気配が色濃くなっていくのだ。ふたたび妻の死と出会わなくてはならない。そうして、このように自身も短歌を詠むことによって、妻の死は作者のこころに更に深く刻印されてゆく。。 天空より来たりしものか空の青翅につけたる青条揚羽 わたしのすきな一首である。佐藤さんも自選にいれておられる。「青条揚羽(あおすじあげは)」を詠んだ一首である。アオスジアゲハが飛んでくると、いつもハッとしてします。「青」の色はとくべつである。そのアオスジアゲハへのオマージュである。「天空より来たりしものか」の措辞に、すでに作者のこの蝶への讃仰がこめられている。その讃仰の由縁は、ひとえに翅の「青色」なのである。一頭の蝶にであった作者の清々しい心根がみえるいい歌であるとわたしは思う。 穏やかな冬陽のなかの日向ぼこ水仙二本莟をひらく この歌集のおしまいの方にある一首である。この短歌に出会ってホッとした気持になった。といっても、作者の佐藤さんの日常は平穏なことばかりではない。 日常のさまざまな局面に批評の目をもちながらその憤りを一首にされたり、いろいろな出合いに新鮮におどろきそれを短歌にされたり、まさに生活者としての作者がよく見えてくる。そのような暮らしのなかでの、上記の一首である。水仙の明るさがみえてくる一首である。「二本」もいい。そこに佇む作者のゆったりとした心がこちらに伝わってくる歌である。〈弱りゆく妻の介護をせし日々よ喪ふことを怖れし日々よ〉と詠んだ佐藤照男さんであるが、いまは、やわらかな冬日につつまれて癒やされつつある作者がいると思う。 校正スタッフのみおさんは、〈朗らかに笑ふ妻ゐる夢の中『生きてていいの』と言ひてしまひぬ〉の歌に惹かれました。悔やむ思いが伝わってくるようです。 やはり校正スタッフの幸香さんは、〈菊芋の黄の群落を見てゐれば黄に染まりゆくこころが哀し〉に特に惹かれました。 本歌集の装釘は、君嶋真理子さん。 タイトルの暗さをひきうけた一冊となった。 贈られし歌集にあまた付箋をす本から芽吹き育つものあれ 上梓後の思いをうかがった。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? 後半は原稿を送ったときから乱れていると心配していました。これも実力のうちと現実を認めたいと思います。 (2)この歌集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい この挽歌は、早く出したいと思っていましたので今回出せて満足しています。 (3)歌集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 自分で納得できる、よい歌を作りたいです。 2021年3月に佐藤照男さんによって編まれ上梓された佐藤美代子さんの遺歌集『木洩れ陽の道』 捨てられぬわれの一生(ひとよ)のダンボール五箱(いつはこ)わずか右に沈みて 佐藤美代子 歌集の最後の一首である。 このダンボール箱につまった短歌の原稿を、佐藤照男さんは一冊の歌集にされたのだと思う。 これからの歌はもう作れない亡き妻の歌写し終へれば 佐藤照男 佐藤照男さま。 歌集のご上梓おめでとうございます。 挽歌としての歌集を編み終えたいま、これからはご自身のための歌集をあむべくご健吟くださいませ。 ご健勝をお祈りもうしあげております。
by fragie777
| 2025-07-14 20:15
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