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6月19日(木) 旧暦5月24日
神代植物園にて。 こんな風にたくさん咲いていても清爽感がある。 わたしは白という色がすきなので、白紫陽花はとても好ましい。 クーラーの修理を頼んで見てもらったのであるが、今日は部品がなくて修理できず、まずは部品を取り寄せるということになった。クーラー自体が古い機種なので、部品自体があるかどうかも分からない、という。 部品があったとしても、修理まであと1週間ほど待たなくてはならない。 ヤレヤレである。 わたしの家からも扇風機を一台もってきて、それフル回転させて仕事をしている状態。 さっき、文己さんが室内温度をはかったら35度ということ。 水を補給したり、塩飴をなめたり、経口補水液を飲んだりしながら仕事をしているわたしたちである。 新刊紹介をしたい。 四六判クータバインディング製本カバー装帯あり 176頁 二句組 著者の庄田ひろふみ(しょうだ・ひろふみ)さんは、昭和51年(1976)神奈川県生まれ、平成7年(1995)「天為」(有馬朗人主宰)の宮前句会に参加。平成8年(1996)「天為」入会。平成11年(1999)「天為」同人。平成17年(2005}第3回天為新人賞受賞。平成26年(2014)第4回芝不器男俳句新人賞斎藤愼爾賞受賞。令和6年(2024)第11回俳人協会新鋭評論賞正賞、第8回俳人協会新鋭俳句賞正賞。「天為」同人。俳人協会会員。本句集は、第1句集である。 ご序文をよせてくださるはずであった有馬朗人主宰はすでに亡くなられてしまった。帯にはこう書かれている。 聖河てふ泥の流れや冷し瓜 「恩師・有馬朗人先生に捧げる三百句」 一句ごとに朗人先生のご指導を懐かしく思いつつ、 先生への感謝の気持ちを込めて編んだ句集です。(著者) 本句集は全体を五章(ⅠからⅤ)立てにしているが、約三十年間の作品を編年体で収録してあるという。 有馬朗人に師事した長い句歴のなかより、三百句を精選したものである。 本句集の担当は、Pさん。 蘇鉄みな冬の浜へと傾ぎけり 三月のペンギン列を崩しけり 母国語になき色をして水中花 木枯や貌失ひし魚売らる 梟や塒に影を置いてゆく しらじらとマティスの鳥は冬の鳥 両端に春水溢れ鯉の口 冬夕焼地より天まで工事中 真顔にて使ふミシンや夜の秋 木の名前言つて焚火へ放り込む 「河や海、といった水辺が好きな作家だと思いました。」とPさん。 母国語になき色をして水中花 水中花を詠んだ一句である。作者はその水中花の花のいろに心が止まった。この色をどう形容したらいいのかしら、などと言葉をいろいろとさぐってみたが、どうしても自分が使っている言語では表現しきれないのだ。ゆえにその独特な色を「母国語になき」と表現した。この一句を読んだ読者は、いったいどんな色だったのだろうと、想像をめぐらしてみる。しかし、たどりつくことは出来ないのである。近づくことさえも。わたしたちの言葉を超えたものとして水中花は存在している。読者に色の共通認識をあたえないまま、しかし、ある色をもって水中花はそこにあるのである。この一句、読者をしばし、水中花の前であれこれと立ち止まらせてくれる、そんな一句だ。巧まずして「水中花」という季題へのアクセスがおもしろい一句となったのではないだろうか。 木枯や貌失ひし魚売らる 売られている魚も、売っている人も、それをみている人も寒そうだな。「木枯」が吹いているのだがら、寒くてあたりまえだけど。この一句、「貌失ひし」が売られている魚の気持ち以上を語っていて、おもしろい。どういう状態だったのだろう。貌のところからばっさり切られてしまっていたのか、つまりは必要ないものとして物理的に裁断された魚なのであるが、作者はそれを見て、哀れにおもったのだ。その心境が「貌失ひし」という措辞となって詩情がうまれた。貌をうしなった魚をみていると作者にはその魚の喪失感がわが身のことのように伝わってくるのである。そして、吹き抜けてゆく木枯らしは容赦なく非情である。。。 冬夕焼地より天まで工事中 「地より天まで」というのだから大きな建物の工事中である。そこに冬夕焼けがあざやかに差し込んでいる。というか、あたり一面冬夕焼けだらけ。この句の面白さはやはり「地より天まで」の措辞である。「地」とか「天」とかという言葉は、通常人為的なものをこえた森羅万象にかかわることである。まずは、「冬夕焼」が「地より天まで」満ち満ちている景を読者にみせ、そしてこの「地より天まで」の措辞が、「工事中」にまでかかってくるという仕組み、やるなあ。それによってこの工事現場がいかに広大なものであるかを読者に知らしめている。動詞を使わずに、冬夕焼けにうかびあがる工事中の都会の一風景を描いてみせた、達者な一句だと思う。 石蕗の花聖歌に残る文語調 これはわたしが選んだ一句。聖書(バイブル)は、歳月と共に文体がどんどん変わっていって、いまはキリスト教の教会で文語の聖書を使っている教会はまずないのではないだろうか。さまざまな文体の聖書が世に出回っていると思う。しかし、賛美歌や聖歌は、依然として韻文体のままである。これが改良されるということはあるのだろうか。わたしはかつては結構な(?)キリスト信徒であったので、礼拝へ足しげく通って賛美歌や聖歌を歌うことは少なからずあった。旋律にのせて歌う文語はすこしも不自然ではなく、時として重々しく、簡潔で、優美で、ひびきが心地よかった。聖歌や賛美歌を口語調にしてしまったらずいぶん違ったものになってしまうのではないだろうか。せめて賛美歌や聖歌をとおして韻文の美しさに触れることができるのはいいことではないかって思っている。俳句も然りって思う部分もあるけど、それはまた異なる意見があって言語表現がいろいろと新しさをもとめて試みられるのは悪いことでないかもとも。この一句、「石蕗の花」がいい。石蕗の花って古風な趣をもちながら端然と咲いている。そのやや格式を感じさせる石蕗の花と、ふるい文語体の聖歌集。石蕗の花の黄色と聖歌集の黒い表紙、そこに配されて金箔の文字。美しく響き合っている。 木の名前言つて焚火へ放り込む この句は、作者も自選句にとりあげ、Pさんも、校正スタッフの幸香さんも、好きな句にとりあげている。わたしも立ち止まった一句である。校正者の幸香さんは、「木を弔っているような雰囲気に惹かれました」と。そうか、そういう読みもできるな。つまり、燃やさなくてはいけない木片なんだろうけど、その名前をひとつひとつ言うことで、その木を慈しみつつ、あるいは弔っているとも。木片やら枝木やらとなってしまいすでに全体性を失ってしまっている木であるが、この人物は、木に親しんでいて、木片や枝木をみただけでそれが何の木かわかるのである。または、木片となるまでの経緯に関わっていた人物か。すこしユーモラスな感じもあり、身体だけでなく、心もぬくもってくるような焚き火の一風景である。 もうひとりの校正スタッフのみおさんの好きな一句は、〈水中花短き本を読み捨てて〉である。 第一句集を刊行するにあたり、長年にわたり熱心かつ温かいご指導を賜った故 有馬朗人先生に深い感謝の意を表したいと思います。また、初学の頃より、ご指導、ご鞭撻をいただいた「天為」の皆様、句座を共にした皆様に感謝を申し上げます。 本句集は、約三十年間に作った句を、およそ編年体で掲載しています。Ⅰ:大学生時代、Ⅱ:二十代後半~三十代前半、Ⅲ:三十代後半~四十代前半、Ⅳ:スウェーデン留学中(三十代後半)、Ⅴ:四十代後半~現在となっています。また多くの句は、「天為」誌または句会にて有馬朗人先生の選をいただいたものを採用しています。 「あとがき」を抜粋して紹介した。 本句集の装釘は、山根佐保さん。 句集名、「聖河」をどう具体化するか、腐心してくださった。 青の色をクータに配して。 開きやすいように筋づけをしてある。 扉。 用紙は透明感のあるものを用いて、次ページの「故 有馬朗人先生に捧ぐ」という文字がうっすらと見えるようになっている。 多くの色をもちいずに、シンプルにして堂々たる一冊になったのではないだろうか。 ご上梓の際しての、所感をいただいた。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? 俳句作者としての一歩を踏み出すことができた喜びを感じました。また、装丁がとても美しく仕上がっており、思っていた通りの本を手にすることができて、嬉しく思いました。 (2)初めての句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい 恩師である、故有馬朗人先生にご指導をいただいた句を中心に収載しました。先生のご指導を懐かしく思いながら、句集を編みました。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 句集として、過去の句をまとめることは充実した作業でした。今後は、季語や表現方法、題材など、より多彩な句を作ることに挑戦し、自分としての俳句世界を広げていきたいと考えています。 庄田ひろふみさん。 5月26日のご来社のときに。 庄田ひろふみさま 第1句集のご上梓おめでとうございます。 天上の有馬朗人先生もよろこばれていることでしょう。 更なるご健吟をお祈り申し上げます。 山を出てあやめの水となりにけり 庄田ひろふみ
by fragie777
| 2025-06-19 19:42
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