ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko

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言葉によってどこまで音楽を表現できるか。

4月22日(火)  旧暦3月25日



言葉によってどこまで音楽を表現できるか。_f0071480_17221637.jpg

枳殻(からたち)の花。

国立・谷保のいつものところに咲いていた。



言葉によってどこまで音楽を表現できるか。_f0071480_17222051.jpg

地味な花である。
が、
愛おしい花。


言葉によってどこまで音楽を表現できるか。_f0071480_17222254.jpg

大方の人は気づかないで通りすぎていく。




さっそくに新刊紹介をしたい。

音楽作品の台本集である。

「組曲 吉田松陰(くみきょく よしだしょういん)」と題された吉田稔(よしだ・みのる)さんの著書である。


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吉田稔著『音楽作品台本集 組曲「吉田松陰」』

A5判変形半上製カバー装帯有り 294頁

著書の吉田稔さんは、長い間にわたって音楽の指導をされて来られた方である。昭和15年(1940)和歌山県田辺市にうまれ、現在は山口県防府市にお住まいである。山口芸術短期大学にて音楽鑑賞法や青洋音楽史を教えて来られた。音楽作品の脚本・構成という新分野で創作活動をされ、本著はその創作活動を一冊にまとめられたものである。作品からもわかるように山口県を主軸に活動をされてこられた方である。山口県芸術文化振興奨励賞、山口県文化功労賞、防府市文化振興奨励賞を受賞されている。現在は山口芸術短期大学名誉教授であり、KRYラジオ「鈴木久美の日曜日のクラシック」にレギュラー・ゲスト出演をされている。

ふらんす堂としても音楽作品台本集を出版することははじめてであり、台本であるのでト書きもあり、いろいろと複雑な要素もああって、担当スタッフの文己さんはそのレイアウトなどに大分苦心したようである。
頁も多い本であったが、開きもよくレイアウトもすっきりとして、たいへん読みやすい一冊となった。


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目次を紹介しておきたい。
全体は三部にわかれ、Ⅰの組曲のタイトルは「芳一幻想」「中原中也」「吉田松陰」「毛利元就」「漂泊の俳人 山頭火」「金子みすゞ」「香月泰男」、どれも良く知られた人をテーマにしたものであるが、山口県にかかわる人物たちである。Ⅱの組曲は「カルメン・ファンタジー」「ラ・トラヴィアータ」「マダム バタフライ」と音楽構成「若きベートーヴェン」の4作。こちらは主によく知られた外国のオペラを中心にしたもの。Ⅲは、音楽エッセイ。「モーツァルトの死」「真夏の夜の夢・序曲」を聞く」「シューベルトの人生と音楽」「シューマンの人生と音楽」の四作である。

俳優の山本學さんが、帯文をよせておられる。


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吉田稔の挑戦。
音楽作品台本は教育にも興業にも無限の可能性を秘めている。
わたしの晩年の音楽活動は、組曲「中原中也」他数本の台本に教えられた所産である。

山本學さんは、公演でナレーションをされている。

音楽台本なるものをはじめて読んだのであるが、わたしはとても面白かった。興味のある人たちが登場したこともあるし、日頃聞いている音楽や作曲家についてのあらためての知識を得ることができた。Ⅲは、有名な作曲家への入門書ともなるものだ。
台本については、登場人物のセリフがとてもいきいきとして、ここに音楽がくわわることによってさらに立体的なものとして観客に迫ってくるのではないだろうかとも。音楽を言葉によって表現するという果敢な取り組みがなされている。


ここに収録された組曲は、山口芸術大学の定期演奏会として山口市民会館大ホールなどにて初演され、または、防府音楽祭にて防府市公会堂や防府市アスピラートなどで公演されたものであり、作品によっては、初演の翌年、東京・虎ノ門ホールにて東京公演がなされているものなどがある。


言葉によってどこまで音楽を表現できるか、あるいはどこまで音楽に接近することができるか。私が試みてきた音楽作品台本という、まだあまり一般的でない新しい分野での創作は、そんなねらいを持った、かなり無謀な試みであったように思われます。


「あとがき」の最初の部分である。

この二〇二四年の十二月のはじめに、私は八十四歳になります。そろそろ天に送るレポート(人生報告)を用意しなければ、と思ってはみたものの、生涯日記をつけてこなかった私には、それらしいものは何もありません。
そこで、この際思いきって、今まで書いてきた音楽作品台本をまとめて、本にしようと思い立ちました。もちろん自分が書いたものを本にするなんて、生れてはじめての経験、これこそ無謀な試みだったかもしれません。

本書を出版させていただいて、こういうジャンルがあることを恥ずかしながらわたしははじめて知ったのである。
本書のほんの一部となってしまうが、紹介をしたい。
どこにしようか迷ったのであるが、本のタイトルとなった「吉田松陰」のなかの「評定所に於ける対話劇」の一部をそのまま紹介してみたい。

■ 評定所に於ける対話劇
         [松陰(下手)と石谷因幡守(いしがやいなばのかみ)(上手)ステージをはさんで向い合う。]
   石谷因幡守はすでにM12の間奏時で登場している。呼出された松陰が下手にあらわれるといった格好。

因幡守「吉田寅次郎、その方にいささか不審の儀あり、これより詮議をいたす。先年、梅田源次郎が長州におもむいた時、その方、彼と会った覚えがあろう? その折、何をひそかに密談いたしたか有ていに申し立てよ。」
松陰「別に密談はいたしません。学問の話や、禅の話をしたまででございます。」
因幡守「だまれ‼ その方たちがひそかに時局を論じ、不穏をたくらみしこと、明らかなり。お上には明白な証拠がある。」
松陰「証拠⁉ 証拠とは何でございますか?」
因幡守「これだ(紙片を示し)その方、これに覚えがあろう。恐れ多くも天子様のお目にとまるよう、先ほど御所内に落ちていた『落おとし文ぶみ』である。吉田寅次郎‼ これはその方が書いたものにちがいあるまい。」
松陰「全く身に覚えなきこと。私のものではございません。」
因幡守「梅田源次郎が白状に及んでいるのだぞ! 梅田源次郎はその方の同志であろう。その同志が、この文ふみは確かに吉田松陰が書いたものであると申し立てているのだぞ!」
松陰「お待ち下さい。今、お奉行は源次郎と私が同志だと言われた。なるほど私は梅田源次郎を知らないわけではありません。しかし、彼はすこぶる尊大な人物、人を見ること小児のごとしで、かねがね私は彼を好んでいません。彼と共に事をなすことは好みません。私は私のやり方で事をなしてまいりました。」
因幡守「……(急に調子を変えて、やわらかく)なるほど、……さもあろう。同じ国を憂うると言ってもその方の憂国は源次郎の如きものとは異るのかもしれぬ。どうだ、吉田寅次郎、我々はその方が長年にわたり、誠をもって国を憂い、大いなる辛苦をしたと聞いている。これは吟味の筋ではないが、その方が考え、その方が為してきたことを、この際、至誠を以て述べてみてはどうか?」

13 「至誠にして……」

とつづいていき、松陰は理不尽なる判定のもとに死刑を言い渡されることになるのである。



担当の文己さんは、
「金子みすゞ」が好きでした。
朗読したくなるようなリズムで、何度も声に出して読みました。どの人物の話も、教科書で習っただけの内容とはまた異なる側面の
人物像が描かれていて、勉強にもなり、公演を実際に見てもっと知りたいと思いました。



本書の装幀は君嶋真理子さん。

たくさんのラフイメージを用意してもらったのだが、吉田稔さんは、「淡白なものでなくドラマティックなもの」としてこの装幀を選ばれたのだった。


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 〈この本を読んでくれる誰かの耳に、音楽がきこえてくればいいが、……それが、かすかにであっても、おぼろげにであっても〉
 今、私が抱いている、ささやかな願望です。(「あとがき」)



ご本を手にしたときのご感想をいただいた。

何だか私から離別して成った一個の「物」に対峙しているようです。満願の思いで本を手にしました。

この本を読んでくれる人が、すてきな音楽を想像(即創造)してくれればいいが。そんなことを願っています。




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吉田稔氏。



本著のⅢに収録されたエッセイも読み応えがある。「モーツァルトの死」と題したエッセイには、31歳にして死をかたるモーツァルトの文章を引用しつつ、「死」というものへの考察を深めている。
以下、「シューマンの人生と音楽」と題したエッセイより抜粋して紹介をしておきたい。

さて、音楽評論のねらい、その醍醐味は、言葉によって音楽をいかに表現するか? にある。もちろん言葉による音楽表現などということは、初めから無理なことである。しかし、その所詮無理なことを承知の上で、限りなくその可能性に向かって近づいて行く。音楽評論の醍醐味はそんなところにあると思うのですが、シューマンの音楽評論のすばらしいところは、文章を読んでいて、そこから音楽が聴こえてくるように思うことですね。確かに何らかの音が聴こえてくる。ただ、それが面白いことに、みんな同じような音楽である。ショパンもメンデルスゾーンもシューベルトもシューマンの紹介した文章からは同じような音楽が聴こえてくる。そして、それらは結局シューマン自身の音楽ではないか、ということに気が付くのです。(略)
シューマンは生涯に、特に貧しさ、貧困で苦しんだというわけではない。社会的にひどい迫害を受けたというわけでもない。シューマンの苦悩は全てシューマン自身の中にあった。シューマン自身の中に巣くっている神経障害、精神病こそシューマンの人間的尊厳を根底から覆す苦悩の核そのものであった。これは何とも恐ろしいことですね。精神の領域、その本丸が侵されるということですから、人間にとってこれほど惨酷なことはない。
しかし、考えてみれば、シューマンの苦悩は我々人間というものが持つ根源的な問題であるかもしれない。ことに現代のように混沌とした社会機構の中で、人々は多く、病んでいる。深く悩んでいる。今、まさしく「神経症」の時代に生きる我々にとって、シューマンの闘った問題こそ我々自身の本源的なものであるのかもしれない。私は、そんな風なことも考えてみるのです。





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by fragie777 | 2025-04-22 19:16 | Comments(0)


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