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3月1日(土) 旧暦2月2日
椿 いろんな色がある。 しかし、椿には香りがないのである。 3月がスタートした。 どんどん春になってゆく。 押しよせてくる色彩の氾濫にはすこし閉口しません? 春がいちばん苦手かもしれない。 さて、2月21日づけの東京新聞の「俳句月評」の安里琉太さんの「正直日和」は、「読みのモード」と題して、岩田奎著『田中裕明の百句』を中心に語っている。乱暴な抜粋となってしまうが、紹介をしたい。 本書は俳句と無関係な人や他ジャンルに親しい人などを主な想定読者に据え、裕明を外部向けに読んでみせることで、その他の俳句の楽しみ方も分かる、というコンセプトで書かれている。 季語と景をどの程度読むかに俳人と他ジャンルの人の読みの違いが見られると私は思うが、本書はそれらを丁寧に掘り下げる。特に畿内の句は知識が活かされた深い読みが味わえる。当たり前だが、本書には岩田の読みの傾向が色濃い。(略) と、本書を評価しつつも、仁平勝さんの裕明への評価などを引用しつつ、 本書は異なる読みのエンジンを積んでみえる。本書の試みの他方で、この百句、裕明でなければとかの固有性への肉薄が、どれほど遂げられたかと考えると疑念は残る。 とやや否定的なニュアンスもあり、 私は本当の『田中裕明の百句」は、柳元佑太が書くべきだったのではないかと思っている。 と、安里さんなりの思いを語られている。 これは、岩田奎さんに『田中裕明の百句」を依頼した版元への率直な言葉であるとも思うし、このことにかぎらず、ああ、「この百句」は、この人でなくてこっちの人の方が良かったとかはよく言われることだ。 もちろん、そういうことについても遠慮なく語られていいと思うし、語ることは自由である。 ただ、わたしはこの評の「本当の『田中裕明の百句」」という言葉に立ち止まってしまったのだ。 本当でなければ、そうでないものは嘘ということになる。 「本当の」とはなんなのだろうか。 わたしは揚げ足をとるつもりはないのだけれど。 目下、田中裕明さんの散文集を世にだすべく、おそまきながら手許にあるものを読み始めている。 で、たまたま昨日読んだところにこんな箇所があった。「句との出会い」と題した一文である。「俳句研究」誌上で、飯田龍太が加藤楸邨の句を評にしたことについて、田中裕明さんが論じている。こちらも乱暴な抜粋となってしまうのだけれどお許しいただきたい。 飯田龍太の解釈について、 「龍太氏は単に俳句の読み巧者というよりも俳句との出会いを大切にする人であるように思われる。 俳句の解釈に正解と誤解があるとするならば、いまここに言う俳句の読みとは必ずしも正解にばかり与する人ではないだろう。 (略)正しい解釈が俳句との出会いに導いてくれるとはかぎらない。かえって読者の勝手な読み方がその作品との真の出会いのあり方であることもある。あるいはそんなソリューションでしか読み手は作品に近づくことはできないのかもしれない。 俳句には幾通りもの解釈がある。読者の数だけあると言ってよい。それらをふまえたうえでわたしたちは作品に出会いにゆくのだ。」 俳句作品はすべての読者にひらかれている。田中裕明の作品はもまたすべての評者にひらかれているのだ。 きっとこれから田中裕明の作品は多くの人との出会いを果たしてゆくだろう。そこには柳元佑太さんも安里琉太さんも、またわたしのしらない未知の俳人もたくさんいる。あるいは岩田奎さんによっても新しい読みが展開していくかもしれない。 田中裕明の俳句の未来は果てしないなあ。。。 田中裕明さんの「この読みについて」は優れた考察の一文である。 散文集になるまでお楽しみを。 春の烏はどことなく明るい。
by fragie777
| 2025-03-01 18:20
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Comments(12)
![]() ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
しなもんさま
コメントをありがとうございます。 引用でなくちゃんと読んでもらえることが一番よろしいかと思います。そういう意味では田中裕明さんの文章も。 (yamaoka)
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「本当」ということについて、きちんと書いておいたほうが誠実だと思うので、以下、忌憚なく書きたいと思います。先に「本当」ということについて、後には本ブログを読んで思ったことを書いておきたいと思います。
長くなりますし、多忙の中、お読みになるのも骨が折れることと思います。こんな長文、びっくりさせて申し訳ないとも思います。気が向かなければ、これはお読みにならなくても大丈夫です。お返事はもちろんのことです。無論、コメントから削除頂いても結構です。 ![]()
「本当」ということについて
コンセプトは理解しつつ、読後、時評に書いたような点から『田中裕明の百句』ということへの疑念が拭えなかったので、柳元さんに「本当」を勝手に期待したということです。 本書が想定読者に据えている、俳句の鑑賞力をつけたい、俳句の読み方を知りたいという人に向けて読みのモードを提供するという点では、よく書けていて勉強になるだろうと思ったし、そういう人が周りにいたら私も勧めたいと思いました。でも、読み切ってみて、こう『田中裕明の百句』と言われると、どうしてこんなにピンと来ないのだろうと不思議に思いました。あんまりいい比喩が思いつかないのですが、とりあえず述べてみると、マイナスドライバーでプラスのネジを懸命にガジガジ締めてる感じというか、そういう読みのミスマッチを思いました。俳句の読みのモードを知りたい読者にとっては良書だと思うけど、裕明の句が読めなくて本当にわかりたいと困っている読者に対しては、私はあんまり勧めないと思います。 今あらためて考えると、裕明の面白さを読み得たという"手ごたえ"というのは、たとえ想定読者は俳人ではないというコンセプトから始まったものの、結局は俳人も含まないと得ることが厳しいんじゃないかとも読後に思いました。 ![]()
俳句に習熟した人々の様々な批評が取合せの魅力に言及しつつも具体的にどう読むかに苦心していたり、またそれ以外の点でも難解さが言われたりする裕明は、そもそも初心者を対象として鑑賞を一冊にまとめることがかなり大変な書き手だろうと思います。その上で、その難しい書き手を掲げて、なぜわざわざこういうコンセプトを敷いたのだろうか、初心者を対象にするというハードルの設定は、ある意味ではずるいんじゃないかなぁとも少し思いました。このコンセプトを優先するなら、『田中裕明の百句』というかたちにこだわらずに、もっと俳句の読みのモードを読者に多彩に提示しやすい例句
鑑賞の本のかたちで、その中で裕明に多く触れるというのでも達成されるんじゃないか。『田中裕明の百句』と題されて裕明の句を分かりたくてページを開いた一読者としては、素朴にそう思ったところでした。様々な外因的な事情もあると思いますが、読者にとってはそれは関わりないことだと思います。 私は本書には特別読みの瑕疵は見つけられなかったです。方法論が統一されていないかどうのこうのというのでもありません。極論、どのように読まれようといいと言えばいい。興味深く思ったのは、岩田さんが比較的ドライに句を取り出してみようと試みている点です。ただ、その取り出し方、この百句の選定、その読みの傾向は色濃いと感じました。岩田さんなら、こう読む。このコンセプトを踏まえつつ、田中裕明をこう捉えるというのは結構なことだと思います。それで裕明の読みに"手ごたえ"を感じる人もいるでしょう。時評のなかで「読みの場とは、記号の反復可能性すら拒絶しかねない、反ー反復的、反ー複製的な快楽と欲望の場」だとバルトの受け売りを添えましたが、そういう読みの様々については留意した上で、それでも読みの"手ごたえ"とか"手ごたえ"のなさをめぐる不安感というのはあって、本書を読んだ私は『田中裕明の百句』を読んだ"手ごたえ"は感じませんでした。俳句の読み方がわかるようになるということと、裕明の句を"手ごたえ"をもってわかるようになるということの間には、俳句に習熟した書き手が様々にその読みに苦心する通り、かなり距離があることなのかもしれないと思います。 ![]()
ところで、そういう点でも仁平さんの指摘で示唆に富むと思うのは、では、そういう無意識から引き出された言葉や、その言葉に対する"手ごえ"は何によって涵養されたものなのだろうか、という点です。それはきちんと考えてみないとならないことだと思いますが、ある俳句の書き方の方向への習熟の最中の、俳句を読みかつ書く過程で身につくものなのでは、というのはひとまず検討されていいことなんじゃないかと思います。だから、裕明の句がわからなかったけど、俳句の習熟のなかで、うまく説明はできないけれど、"手ごたえ"は感じられて分かるようになるということもある。あるいはかなり習熟した書き手だけど、"手ごたえ"が感じられなくて、句については説明できても結局分からないということもある。
読みかつ書くという過程はとても有機的なことで、言葉への"手ごたえ"というものは、もっと仕方なく身についてしまっているものなのかもしれない。そう考えると、やっぱり裕明に深く魅せられて通暁した人じゃないと、読みの"手ごたえ"をもって読者に提示できない領域もあるのかもしれない、とも、残念ながら思った次第です。それは裕明の作品が特定の人々に閉じられているべき、というのとはまったく同義ではなく。俳句が様々な人に広く読まれることの重要度がかなり低いと思っている私は、そういう読みの傾向に"手ごたえ"を感じなかったことからも、柳元さんの書くものと裕明の読み方の方に「本当」を勝手に期待したということです。 言うまでもなく、これは岩田さんと柳元さんの能力の優劣とは関わりがありません。テクストのみをドライに取り出してみたとしても、やはりテクストが織物であり、読者が自分の中にあるさまざまなテクストと、今読んでいるテクストを意識的に無意識に関わらせながら自身のテクストを紡ぎ出していくから起こることの違いだと思います。その地点で、岩田さんの読み方では時評中でも書いた点などから私は"手ごたえ"を感じなかった、本当と思えなかったということです。そうじゃない人もいるでしょう。テクストですから、それは承知の上です。 なので、裕明の句を読んで"手ごたえ"を感じたいという人に対しては、やっぱり私はあんまりこの一冊を勧めないと思います。ただ、俳句の読みのモードを知りたい読者には、やっぱり山本健吉や川名大の本と併せて勧めると思います。そのような見解です。 ![]()
ここからは本ブログを読んで思ったことについて書いておきたいと思います。ここでは「俳句作品はすべての読者にひらかれている。田中裕明の作品もまたすべての評者にひらかれているのだ」ということと、引用された裕明の文章について、特に書いていきたいと思います。
結論から言えば、それはそうだけれど、もうそろそろその先にも目を向けていかないとならないということです。 句がすべての読者に開かれているからといって、すなわち読みが読み手の感性によるピュアで不可侵な領域になることはないでしょう。読みもまた読まれるし、テクストに対する読みもテクストとして批評される。句の読みが無制限になんでもありになるわけではない。その地点で、テクストの"手ごたえ"が感じられなくて「本当」とは思えないというのはある。それをいうことは倫理的なことで、気軽に言うことではないと躊躇われることは、私はとてもよくないことだと思います。 「俳句には幾通りもの解釈がある。読者の数だけあると言ってよい。それらをふまえたうえでわたしたちは作品に出会いにゆくのだ」 引用されている裕明のこの文章にあたれていないので憶測程度でしか書けませんが、裕明がこのように書いた頃は「正しい解釈」というのがもっと信じられていて権威性を持っている状況があったのではないかと思います。裕明がまっすぐこう書いた状況と、今日の読みをめぐる状況はかなり違っているのではないでしょうか。 また、ここで裕明が書いているのは、「作品に対する読み」の話で、今回、私は読みに対する批評を行いました。「句との出会い」ではなく、「読みとの出会い」という方に近い。裕明の作品にどう出会うかばかりでなく、裕明の作品がいかに読まれているかについても、もっと批評されていくべきだと思います。 ![]()
今日でも「俳句作品はすべての読者にひらかれている。田中裕明の作品はもまたすべての評者にひらかれている」ということについては、ある程度まで肯定しますし(※注1)、時評のなかでも「読みの場とは、記号の反復可能性すら拒絶しかねない、反ー反復的、反ー複製的な快楽と欲望の場」と添えました。その上で、それでも読み手が読みの"手ごたえ"のなさに不安を覚えることはあるとも書きました。
私たちはみんなで作品に心地よく出会いに行くために、「俳句には幾通りもの解釈がある。読者の数だけあると言ってよい」というあたりで極楽に過ごし過ぎたかもしれません。そんなことはよくよくわかっていて、ただ、テクストを素朴な相対主義の態度のあたりで、変にフラットに見積もって、毎回その地点にコンセンサスを引き戻そうとするのは、テクストが「みんなのもの」として担保するためでも、いやむしろそうするためならなおのこと、危険だと思います。 ![]()
テクストを心地よく読むために素朴な相対主義に留まろうとしないで、いい加減その先に行かないといけない。なんやかんやの相対主義で議論を手打ちにしようとするのは、時評の初回でも書いた通り、批評の言葉が持たれにくい、持たれたとしても堆積されにくい、ないし持たれる前に流されてしまうことに繋がっているのではないかとさえ思います。なんの議論の衝突もなく、「色々あっていいよね」というところに落ち着けることには全く賛成できません。それがたとえ、誰かがテクストと心地よく出会うためへの配慮を欠いていたり、本に関わる営為への否定になったりしても、批評やテクストへの批判的な意見は語られるべきだし、もっと正直に語り合うべきだと思います。
森澄雄に批判された裕明が、「だいぶ書かれとるなあ」と言いつつ、それについて発言するということはなかったという逸話。私も好きな話で、それもかっこいいと思います。ただ、もうそろそろ次に行かないと、とも思います。 ![]()
ともあれ、本があらゆる人の営為に因ること、現実的にさまざまな背景があることは、私も過去に出して感じたことです。裕明の散文集はとても楽しみだし、ふらんす堂さんの裕明賞や裕明の本の出版の営為には頭が下がる思いもあります。実際、読者として裕明に出会えていることにも感謝があります。ただそれとは別で、もうそろそろ正直に忖度なく、読者はみんな自信がなくても語り合うべきなんじゃないかと思います。
※1 ブログの中での引用ですが、私が裕明について書いたことについて裕明の文章で応答するその間には飛躍が伺えて、そこには作者の権威性を借りて応答させようという過分に作家主義的な印象も受けました。その上で、「俳句には幾通りもの解釈がある。読者の数だけあると言ってよい」というテーゼの出どころはテクスト論とは違うのかもしれないと思われて、どう考えて答えるべきか少し悩みました。ただ、そういうことを抜きに、この文を引きたい意図もわかります。また、他の事情で出典を明らかにできない可能性もあるのかもしれないとは思いつつ、裕明の文章に私があたれないのは応答を書く上でややフェアではないと思いましたが、それは引用されている範囲でひとまず応答したいと思います。 ![]()
コメントの字数制限上、膨大な分割になり、申し訳ありません。長文失礼いたしました。
安里琉太さま
コメントを拝読しました。 岩田奎さんの『田中裕明の百句』は、優れた1冊で、俳人もそうでない人問わず多くの読者を獲得しております。 この1冊によって、田中裕明の句と出会う人がたくさんいることが版元の喜びです。岩田奎さんには、版元の期待以上の仕事をして下さったと感謝しております。 田中裕明散文集は楽しみにしてくださいませ。 では、では。 (yamaoka)
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