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2月13日(木) 魚上氷(うおこおりをいずる) 旧暦1月16日
早春の木々と空。 2月ってあっという間である。 もう半分ちかくを過ぎてしまった。 東京は2月がいちばん寒い。 それなのに季節は春。 春って思うから、さらに寒さが痛い。 空の青さにみとれていないで、励まねば。。。 新刊紹介をしたい。 俳人・大木あまりの第7句集となるものである。2015年から2021年までの作品を収録してある。前句集『遊星』が2016年の刊行であるので、9年ぶりとなる。待たれていた1冊だ。 大熊座と馭者座の間に位置し、三月中旬の夕方、天頂近くに見える山猫座。輝星に乏しく星数も少ない。存在感のない地味なこの星座を知ったとき親近感を抱いた。こんな弱々しい星宿を愛さずにはいられないと……。そして、山猫座という語感から、山猫の劇団を想像した。人間は、座長の宮沢賢治と看板女優の私だけで、座員は十二匹の山猫。山猫たちが、紫式部の『源氏物語』やシェークスピアの『ロミオとジュリエット』を演じたら楽しいだろうと空想の翼は広がっていった。 次の句集は「山猫座」という書名にしよう。その思いを実現すべく、四年前、句集を纏めようとした矢先、新型コロナウイルスが猛威をふるいはじめ、世の中は一変した。コロナ禍は人々から仕事も命も奪い、未だに終息していない。持病のある私は外出もせず、不安と閉塞感の日々を送りながら四年が過ぎた。 「あとがき」である。 死はいつも近くに枝の雨蛙 本句集においても、大木あまりの感性によってとらえられた物は新しい様相を帯びて読者に投げ出される。 そのイメージの飛躍の振幅にわたしたちは驚く。 病身で余り出かけることもなく、ほとんどを家ですごす大木あまりさんであるが、想像の翼はあまりにはるかである。 想像力というよりも、研ぎ済まされたあまりさんの鋭い感性のアンテナはあらゆるものをキャッチし、それを濾過し、詩のことばに定着させていく。 ときどきわたしはおもうのだが、彼女の全身が自然の万象への共鳴体ではないかと。 身体を万物に共振させつつ、彼女の身辺にある言葉をさりげなく選び取りながら、俳句をつくっていく。 箸つかふやすらぎ雨の芙蓉かな 大木あまりさんは、日々の生活を大事にする人である。ある意味、生活者であることが、よくものがみえ聞こえすぎる彼女の感性を救っているようにも思えてくる。 本句集は、頁をくるごとに新鮮な俳句が飛び込んできて、読者をあきさせない。批評も諧謔性もたっぷりである。 好きな俳句をあげていけば、きりがない。 で、いくつかをあげて、紹介をすることに。 囀に割り込む鳩の声さびし 霜の花忘るるために歩きけり 鎌倉の水羊羹と無常観 蟷螂よ答への出せぬものが好き カステラのざらめの気品柳散る 文芸や羽ぼろぼろの冬鴉 砂吐きて貝のしづかや春隣 呼ばぬのに来る砂色の冬の蝶 文旦も月もまんまる美学とは 桂信子と話すごとくに暖かし 鯨くるごとく虚子忌の来たりけり まだ足が上がる黄色の蝶が来る 蛸足の配線と春惜しみけり 囀に割り込む鳩の声さびし 大木あまりさんの句にしては、地味な句かもしれないが、すきな一句である。春になって囀りを始めた鳥たち。そこには春をよろこぶ命の躍動がある。そこから鳩のあの特有な低い鳴き声が聞こえてきた。いや、単に聞こえてきたのではなく、作者は「割り込む」と捉えた。割り込むように必死に鳴く鳩だったのかもしれない。その鳩のありようを「あはれ」と見たのか、作者は「さびし」と詠んだ。生きものによせる細やかな心情がみえてくる一句であり、また、鳩のさびしさが伝わってくる一句。鳩はわたしたちの日常茶飯にいる鳥であり、わたしたちはというかわたしはそれほど関心をもたない。群鳩などをみるとある哀れさを思ってしまう。 蟷螂よ答への出せぬものが好き この句は、総合誌に発表されたとき、大木あまりさんに「いいですね」とFAXした一句である。「答への出せぬものが好き」ということも同感であるが、このフレーズは大木あまりさんでなくても俳句で叙することができると思う。面白いのは、「蟷螂」の季語である。これは大木あまりのものだ。「蟷螂よ」と呼びかけるようにして上五においている。まるで蟷螂に「答への出せぬものが好き」という心情を伝えているかのようだ。人はどうしても答えをもとめたがる、わたしだってそう。どうして、なぜ。その問いによって人類は進歩してきた。その問いを手放さずにいることは大切だ。その上でのこと、答えのでないことってある、いや出せぬものがある、そういう深淵をわたしたちは持っている。そのことは大事。きっと、蟷螂はそのことをよく知っているのでしょうね。あまりさん。 カステラのざらめの気品柳散る この一句であるが、「カステラのざらめ」を詠んだ俳句ってよくある。俳人たちはカステラのざらめが好きだなって思うくらい。しかし、「気品」は誰も詠まない。あのカステラのざらめに「気品」があったことなど、いったい誰が知っていだろうか。しかし、べたつく砂糖より、透明で細やかでしゃりしゃりとしたざらめは人間の舌にこびず、たしかに気品がある。気品。。それを詠めるのが大木あまりという俳人である。季語が「柳散る」とは。この離れ方も巧みである。「柳散る」秋の季節は、カステラのほどよい甘さがおいしい季節である。 文芸や羽ぼろぼろの冬鴉 おもしろい一句である。上五に「文芸や」おいて展開する一句である。大木あまりさんの「文芸」論(?)であるか、いいや、ここでは、「文芸」一般というより大木あまりにとっての「文芸」とは、ということだと思ってみたい。そのイメージを中七下五で叙したのだと思う。「羽ぼろぼろの冬鴉」ってなんとも哀れで可哀想。〈もの書きの夜空みる癖蚊遣香〉〈もの書いて青き小鳥を待つてをり〉〈かなぶんや切なきまでにもの書いて〉という句が本句集にあるように、「もの書いて」文芸に携わっているという気持ちが作者にはある。もの書き続けていく果てのわが姿が、「羽ぼろぼろの冬鴉」とユーモラスに嘆じてみせたのだろう。もの書く自身をみすえながら、そこにはナルシシズムは微塵もない。 呼ばぬのに来る砂色の冬の蝶 「冬蝶」の季題を詠んだ一句である。いろんな冬蝶が詠まれてきたが、「砂色の冬の蝶」がいい。冬の蝶のやや衰えていく様を「砂色」と捉えたのが詩人の目だ。「砂色」は、いろいろな想念を呼び起こす。精気のない色、重たい色、暗く沈んだ色、死の予感がつきまとう。七音からはじまる「呼ばぬのに来る」という措辞が、また、哀れではないか。「近づいて来る」ではないのである。様子としては作者に「近づいて来る」のであろうけど、「呼ばぬの来る」ことで、蝶と作者の心情がからみあって、句に深みをあたえつつ、冬蝶のあわれさをいっそうにしている。冬蝶によせる作者の思いの濃さがみえてくる一句である。 校正スタッフのみおさんは、「〈夕ぐれの渚に拾ふ赤い羽根〉の句に惹かれました。無彩色の景色の中で、そこだけははっとする赤さだったのだろうと想像します。」 だが、コロナ禍の中でも季節はめぐってくる。麗しい声で鶯が鳴くと、負けじと小綬鶏が「チョットコイ」と鳴いて応える。実に微笑ましい。タンポポやすみれや二輪草が群生する我が家の庭にも束の間の華やぎが……。 私は家に籠りながら、二〇一五年の新年から二〇二一年の春の句までを収めた第七句集『山猫座』をやっと纏めることができた。あらためて夢や希望や失意を自己表現できる俳句が好きになった。 「あとがき」より。 装幀は、君嶋眞理子さん。 いろんなラフ案をつくってもらったのだが、あまりさんは、「山猫じゃねーよ」って笑いながら、黒猫のいるラフ案を選ばれた。 「死んでしまった野良猫のクロちゃん、そっくり」と喜んでくださった。 ![]() 帯カバーをとると白の表紙。 見返しは赤。 (この色は大木あまりさんの好きな紅色) 「くろちゃん」 あらたまの玉葱になら本音言ふ 凩に吹かれゆくものさやうなら 「あとどれだけ俳句を続けられるか分からないが、理想の俳句を追い求めていきたいと思う。」(あとがき) 昨日、大木あまりさんから電話をいただいた。 あまりさんと親しい方ならわかるとおもうけど、こちらが何かをいうことはほとんどなくて、お話を聞く一方なのであるが、あまりさんには不思議なテレパシーがついていて、こちらのことはほとんど熟知している。 何もいわなくてもよ。 それがなんとも、おどろく。 ご縁をいただいて、もう何十年にもなるけれど、かつてわたしの家に泊まりにいらしたという数少ない方であるけれど、わたしはあまりさんの批評の目を信頼をしている。 反骨の性やゆつたり春ショール 大木あまり 大木あまりをつらぬくもの、それは「反骨」である。 わたしはその「反骨」にぐっと来る。 こんなことを言うと信じてもらえないかもしれないけれど、わたしのなかにもその「反骨」は耳かき一杯くらいかもしれないが、あるのである。
by fragie777
| 2025-02-13 19:44
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