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2月10日(月) 旧暦1月13日
早春の木々。 勢いを感じる。 手の指の爪を切った。 すると指の先の皮膚があらわになった。 親指の先の皮膚とかすごく硬い。 こんなに硬かったかしら。 指先でひっかくとゴリゴリと音がするくらい。 それを爪にそってはがすのが気持ちがいい。 ちょっと手があいたときなど、いつのまにかやっている。 いまハンドクリームを指先にたっぷりと塗ってみた。 新刊紹介をしたい。 四六判ペーパーバックスタイル帯あり 134頁 二句組 涼野海音(すずの・うみね)さんは、昭和56年(1981)香川県高松市生まれ、高松市在住。「白桃」「火星」などを経て、現在「晨」同人。「梓」「いぶき」会員。俳人協会会員。第4回星野立子賞新人賞受賞。第5回俳句四季大賞新人賞受賞。第1回新鋭俳句賞準賞、第31回村上鬼城賞正賞。本句集は句集『一番線』(平成28年・2016刊)につぐ第2句集となる。 「あとがき」に「俳句を始めて二十年となる。」とあるように、まだお若いけれど、長い句歴の方である。 これまでに俳句の賞をいろいろと受賞もされている。 いくたびも虹仰ぎたる背広かな 帯にある一句である。まずこの一句がとびこんでくる。「背広」の文字が印象的な一句である。この背広の主は作者か。じつはほかにも「背広」を詠み込んだ句がある。〈梅雨寒の背広に街のにほひあり〉〈どの蟻も背広のわれにかかはらず〉。どうやら背広の主は作者自身であるようだ。虹の句もきっと背広をきた作者がいくたびも虹を仰いでいるのだろう。作者はたぶん仕事中なのである。背広をきているわけだから、自由業ではなくて、企業につとめておられるのかあるいはハードな仕事人なのかもしれない。しかし、虹がでたことに立ち止まりしばし思いを寄せ、いくたびもそれを仰ぐ、そういう作者の姿勢がみえてくる。背広を着て仕事にいそしみながらも、季節へへの感性はつねに作動していて、俳人たる我を手放すことはしない、そんな作者像がうかがえる一句だ。自選にもあり、ひとつの自画像としての一句であるのだろう。 本句集の担当は文己さん。 好きな句をあげてもらった。 人日の夕日へ向かふ鳴門線 あたたかや畳に拾ふ貝ぼたん 猫の子に水平線の遥かなる わが影にしばし向き合ひ墓洗ふ 草なびく方へ帰る子終戦日 わが影にしばし向き合ひ墓洗ふ 季語は「墓洗ふ」であるが、面白いというかへんな一句である。主季語は「墓参」であるから、通常の感覚でいけば、墓に納められている(?)故人への思いをはせるという句が圧倒的に多いが、この一句は自身の影と向き合っているという。それも多分墓石に映っている自分の影である。秋の日差しが濃ければ影もくきやかに映しだされるであろう。作者の心は故人にはむかわず、墓石にうつった自身の影にあるのだ。自身の死の延長上にこの墓はあるのかもしれない、そんな思いを馳せているのかも分からない。墓石に映った自身の影と向き合うということの非日常がひややかに淡々と詠まれた一句だ。 御降や昼をしづかに翻訳家 「御降」は、元日や三が日にふる雪や雨のこと。通常は人はまだ仕事をせずに長閑にお正月を過ごしているのだが、この翻訳家は仕事をもうしているのだ。翻訳家は外国語を母国語に訳す仕事をする人である。大地をしめやかに濡らすお降がふるなか、まだあかるい昼のうちから仕事に精を出す翻訳家。この翻訳家という言葉がとてもいい。小さな文字をみつめつつ辞書をひきつつ、知識を総動員ささせながら言葉を定着させていく。心は二つの国にまたがっている。すでに地上の世俗とはかけはなれて、翻訳の仕事に没頭している姿がみえてくる。静寂がすべてを支配している。 夭折は子規のみならず雪蛍 この句をまず読んだとき、ああ、これって田中裕明さんのことを言ってるのね、と勝手に思った。というのは「雪舟は多くのこらず秋蛍」がまずうかんで、「蛍」の一字で思い込んだのだけど、作者の思いはそうとは限らないだろう。「雪蛍」は「綿虫」のこと。冬にふわふわと白く浮かぶように飛んでいる姿をみつけると心がうばわれてしまう。現実の生きものであっても、やや非現実性をおびているというか、どこからやって来たのか、生と死の間に存在するような不思議な生きものである。作者はこの「雪蛍」をみたときに、死の匂いを嗅ぎ取ったのか。そして子規の顔をおもいうかべたのだろうか。それからさらに作者の知る夭折した人たちの顔がうかんだのだろうか。「雪蛍」という虫は、人間の気持ちをはるかへと運んでいってくれるようなところがある。 捕虫網探鳥会とすれ違ふ 好きな一句である。景がよくみえてくる。虫取りの人間(おそらく子ども)が、鳥をさがす人間の一団とすれ違ったのだが、その様子を端的にいいとめた。多くを語らず情報量はちゃんとある。擦れ違うのは虫取りに熱心な子ども(一人か二人)と鳥をさがすやや大人の集団だ。その対比があざやかであり、ユーモラスでもある。ぬきんでた高さの捕虫網の動きがよくみえてくる一句だ。 失恋の弟葱を刻みをり 面白い一句であり、すきな一句である。しょっぱなから「失恋の弟」とある。すごいレッテル貼りである。目の前にいる弟は、作者にとって、「失恋した弟」以外のなにものでもないのである。その断定が面白い。弟としては、たまったもんじゃないかもしれないが。この一句、兄の目のまえで弟が葱を刻んでいる景のみがみえるだけである。だが、その弟は失恋をしたのであるということがわかる。葱を刻まなくても、お湯をわかしても、ふて寝をしても失恋の弟にはかわりはないのだが、作者にとっては、葱をきざむ弟の姿がより印象的だったのだろう。わたしは、この「葱を刻みをり」の表現で、失恋の弟によせる兄の気持ちのはからいがでているのではないかと思っている。つかずはなれずべたつかずとてもいい距離感であると思う。しかし、優しい兄の視線であり、失恋をした弟への兄の挨拶句(!?)でもある。 校正スタッフのみおさんは、「〈みつ豆を食べたる後の天気雨〉の句に惹かれました。みつ豆の寒天の涼しげな感じと明るい天気雨と組み合わせが、とてもきれいです。」 俳句を始めて二十年となる。二十年の間に初学の結社の終刊や身近な句会の閉会を見届けた。今までお世話になった先生方に心より感謝したい。また現在「晨」「梓」、「いぶき」でお世話になっている方々にもお礼を申し上げる。 第一句集を出版後、六つの超結社句会(通信句会を含む)を立ち上げた。「足は地元に、目は全国に」をモットーに、全国の方、百三十名と超結社句会をして早十年が経つ。これからも仲間とともに精進したい。 「あとがき」を紹介した。 本句集の装釘は、君嶋真理子さん。 「虹」というタイトルは、実は装幀にするのは難しい。 よくあるタイトルということもあるし、イメージが決められてしまう。 今回は、作者のイメージにあった一冊となったのではないかと思う。 初旅や雲かがやいて雲の中 未知の空あり風船に青年に 大花野師を追ふやうに雲を追ひ 作者のまなざしはつねに髙きにあるのである。 そのことがみえてくる一冊である。 上梓後のお気持ちをうかがった。 所感 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? 良い句集ができて、大変満足しました。 (2)今回の句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい 第一句集の出版後の約十年間の句を、見直すきっかけとなりました。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 今後も俳句を地道に継続していきたい。 以下(メールより) おかげさまで、大変よい句集ができ、満足しております。 丁寧な対応、ありがとうございました。 涼野海音さん 涼野海音さんのブログを紹介したい。 ぜひ、アクセスを。
by fragie777
| 2025-02-10 19:20
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