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2月1日(土) 旧暦1月4日
今日から2月。 小田急線に乗って、多摩川をわたる。 この景色がすきで、ここをわたるときは小さな子どもみたいに窓にはりついて撮る。 急遽、友人に会うために下北沢の駅まえで待ち合わせをすることに。 下北沢はめちゃめちゃ若者の街だ。 多国籍の街といってもいい。 活気にあふれ、 皆それぞれが自由な装いをたのしみながら、街を闊歩している。 このカジュアル感が好き。 友人は、俳人の川島葵さん。 大木あまりさんと川島葵さんは、わたしの知るかぎりにおいて、猫のために生きているような人である。 「ポンちゃん、元気?」って会えば必ず聞く。 ポンちゃんは、葵さんが世話をしている外猫である。 ポンちゃんのために寝床をあったかくして、食事の世話をしているのに、噛むのだそうだ。 「ここも噛まれた」と言って噛まれた場所をみせてくれる葵さんは、なぜかとても幸せそうである。 ということで、 「Café にゃん&ピース」でお茶をする。 店中、猫に関するものだらけ。 運がよければ、二階にいる猫たちがおりてきて、その姿をみせてくれるという。 おしゃべりをしつづけてあっという間の3時間。 残念ながら、猫の姿はみることができなかった。 が、大いにしゃべり大いに笑った楽しい時間だった。 下北沢駅内のエスカレーター。 今日は、河東碧梧桐の忌日である。 1937年2月1日に亡くなった。 今日は、秋尾敏著『河東碧梧桐の百句』より。 砂の中に海鼠の氷る小さゝよ 明治二十六年 句会での題詠。芭蕉の〈生きながら一つに氷る海鼠かな〉(元禄六年)を踏まえた句であろう。「砂の中に」という上五の字余りが口語的で、当時の若者の口調を伝えるとともに、その後の碧梧桐の俳句表現の方向性をも予感させている。中七までは散文的な叙述の文脈だが、下五の「小さゝよ」で独自の感覚を述べ、見事に俳句的な世界を作りだしている。この年の九月に、京都の第三高等中学校の予科に入学した碧梧桐は、虚子とともに学校の向かいの靴屋の二階に下宿し、虚桐庵と名付けて同居した。京都に出た学生の心情を読み取ることもできる。 百貨動き初めし港の余寒かな 明治四十一年 さまざまな貨物が動き出した早春の港。初句の字余りが斬新で、近代化された港の雰囲気が伝わってくる。碧梧桐は、明治四十一年一月二十九日付の虚子宛書簡に、虚子の句が月並調になっていると非難し、「月並は我々生涯の敵である。其敵に兜をぬぐやうな失敗を醸す事は、始めからやらんがよい」と厳しい口調で書いている。ある意味これは、虚子が変化する人で、碧梧桐が生涯変わらなかった人であることを示している。碧梧桐は、かつての虚子の「新調」の可能性を信じ、月並を排してその「新調」を発展させることに生涯を費やしたのである。 安住地と言ひならはせバ言ひ得るほどに霜柱たち 昭和十一年 安住の地だと口癖のように繰り返せばそういうことにもなるだろう、庭にはしっかりと霜柱が立っている。「霜柱」が象徴的で美しい句である。「たち」は「達」とも解せよう。十一月に淀橋区戸塚(現・新宿区戸山)に転居し、年末に「新居雑感」九句を日記に記したうちの五句目。日記には「大嫌ひな引越もこれが最後になるかも知れぬ」、「今後の自分の仕事ハたゞ書に集中されるべき」とある。この年、『文学読本正岡子規』(第一書房)、『三千里』(春陽堂)、『子規言行録』(政教社)等を刊行。「俳句研究」誌にもエッセイを書き、俳句の仕事もしている。 以下は巻末の「解説」より。 新傾向俳句は次第に衰微したと書く俳句史は多いが、新傾向俳句とは変化する俳句のことなのだから、自由律俳句や口語俳句、さらに新興俳句へと展開していくその後の俳句は皆、新傾向俳句の先に現れたと考えるべきである。 東京は明日は雪になるらしい。。
by fragie777
| 2025-02-01 21:40
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