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1月21日(火) 款冬華(ふきのはなさく) 旧暦12月22日
冬木の芽。 じいっとみていると「やる気まんまん」っていうオーラが伝わってくる。 そっと触れてその気をすこし分けてもらう。 新刊紹介をしたい。 四六判ソフトカバー装帯有り 194頁 二句組 著者の佐竹三佳(さたけ・みか)さんは、昭和34年(1959)大阪生まれ、大阪市在住。平成9年(1997)「鷹」に入会し、藤田湘子に師事。平成17年(2005)「鷹」同人。藤田湘子逝去により小川軽舟に師事。本句集は、第1句集となり、小川軽舟主宰が序文を寄せている。 序文より抜粋して紹介したい。 坂道の途中の春の日暮かな 朝蟬や通天閣に月のこる 松蟬に昼の静けき熊野道 しまひ湯に四天王寺の除夜の鐘 明け方の枕のくぼみ西鶴忌 寒柝や一町つづく寺の塀 ミナミの繁華街から東へ向かうと、源聖寺坂、口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂といった古い坂道がいくつもあり、登った先に広がるのが上町台地だ。振り返れば大阪湾に沈む夕日が見える。四天王寺では上代より夕日を拝して極楽浄土を思う日想観が行われる。何気なく詠まれた「坂道の途中の春の日暮」は、ただの日暮ではない。奥深い歴史の背景があるのだ。 朝月の下に通天閣を望み、平安貴族が都から熊野詣に向かった古の熊野街道を歩き、年の湯に四天王寺の除夜の鐘を聞く。上町台地には秀吉の政策で寺が強制的に集められて寺町をなし、西鶴の墓もこの地の寺にある。こうした大阪の歴史が、三佳さんの日常の作品にさりげなく顔をのぞかせる。 句集名の「夕日の坂道」は、郷愁を呼び起こすタイトルである。 〈坂道の途中の春の日暮かな〉によるものなのだろうが、この「坂道の途中」の景は、きっと佐竹三佳さんにとって、いつも見る風景なのではないか。この坂を登ったり下ったりする日常の日々があるのだろう。そしてきっと途中でたちどまり、ひと息ついてその日の景色をながめ、己を確認する瞬間なのかもしれない。いつも見ていながら、表情をときとして変える景色。暮らしのなかにある坂道なのだ。 この句集の担当はPさん。 Pさんの好きな句を紹介したい。 夕顔のほぐるる闇のありにけり サフラン摘む朝の光の消えぬまに 水芭蕉近き山より晴れわたり 冬遠からず鮭缶のロシア文字 春の宵白き卓布に人を待つ 明け方の枕のくぼみ西鶴忌 秋の蝶草の低さにまぎれけり 梨むく手ぬらして夜のみづみづし 夕顔のほぐるる闇のありにけり 夏の夕暮れに咲く夕顔の花を詠んだ一句だ。朝顔や昼顔よりおおぶりな白い花で、あたりが薄闇につつまれると開く花である。暗闇のなかで無防備に見つけたりすると、そのやや不気味な妖しさにドキッとすることもある。この一句は、「夕顔」と「闇」を詠んだ一句である。どんな闇かといえば、「夕顔のほぐるる」とあり、闇が濃くなるにつれて花びらがほぐれて開いていく様子を詠んでいる。この一句の面白さは、「夕顔」のみでなく「闇」に読者の注意を向けさせたことである。夕顔の花の開花をみちびきだすように闇の存在をしめしている。闇によって夕顔の花がすこしづつ武装をといて闇のなかにその存在を解き放っていくような「闇」。シンプルに詠まれているが、「夕顔」の花びらの重さと闇の手触りが伝わってくる一句だ。 サフラン摘む朝の光の消えぬまに 「サフラン」という言葉の響きが好きである。このタイトルの森鴎外の短編をすぐ思い出してしまうけれど。「サフラン」と声にだすと、その優しい響きに心も素直になりそう。花の風情も優しげではあるが、わたしにとっては花の実体よりもこの「サフラン」という響きが先行してしまう。その「サフラン」を摘むのである。朝の早い時間に摘むのであるが、それを「朝の光の消えぬまに」という措辞にしたことが素敵である。まだ瑞々しい朝の光のうちに、摘んでしまおうというのだ。それがサフランへのささやかな礼儀でもあるかのように、恭しく。そう、サフランはそんな気遣いがとても似合う響きをもった花なのである。 人の死の通り過ぎたりしやぼん玉 これはわたしの好きな一句である。軽舟主宰も序文にあげておられた一句だ。「大阪の市井の人間模様から拾い上げたものなのではないか」という鑑賞のなかの一句である。この句の面白さは、しゃぼん玉が人の死を通りすぎるのではなく、一読そう読みそうになってしまうのだが、あくまで「人の死の通り過ぎたり」なのである。どこを通り過ぎていくのか、それは我々の日常の時間を通り過ぎていくのだ。人間の死は珍しいことではない。生きて生活していれば人の死にでくわすことはよくある。ここで詠まれている人の死は、あくまで立ち止まって人間に注意を喚起するものというより、人間の日常をいつものように通り過ぎていく死である。この一句においては、はかなくすぐに消えていく「しゃぼん玉」のほうが人の死よりも実在感がある。まるでおおきく膨らんだしゃぼん玉に人の死が一瞬映し出されたかのように。人間の無常もあっけらかんと詠まれている。 春の宵白き卓布に人を待つ 本句集には、すてきな恋句がところどころにあって、作者は恋多き方なのかもしれない、と思ったりもした(恋すくなきyamaokaはとても羨ましいぞ)。掲句もきっとそう。春の一夕、食事をつくって恋人を待っておられるのか。「白き卓布」が、この句を支配している。清潔感と緊張感、そして、みなぎる思い。「春の宵」という季語が「白き卓布」に対して甘くロマンスの色を濃くしている。浮き立つこころというより、もっと地に足がついた大人の恋、とも。この句においては「白き卓布」がすべてを語っている。このあとにどんな物語が展開していくのかということも。〈毛糸編む恋の終ひは吾が決めし〉〈花冷の眉ととのへし薄刃かな〉〈湯ざめして恋の初めと知りにけり〉などなど。 顔捨てて坐りし男暦売 この句は、作者の佐竹三佳さんも自選にあげられ、軽舟主宰も序文にとりあげられている句である。わたしも好きな一句。なんとしても「顔捨てて坐りし男」の措辞にぐっとくる。男の無表情を詠んだ句であるかもしれないが、「無表情」以上のものがこの「顔捨てて」にある。歳晩に街角で暦を売っているのだろうか。暦は翌年のものであるが、やってくる年への希望もへったくれもありゃしない。男にとってはあくまで金を得るためのブツなのである。しかし、金を得るための商魂などどこかに捨ててきたように、暦売の男はそこに座っているのだ。その男の存在感に圧倒される。もうわかくない初老の男をわたしは思ったのだが。 校正スタッフのみおさんの好きな句は、〈左義長の灰漂ひて地に落ちず〉火が消えたあともずっと見守っていたのかなと想像しました。」と。 俳句を始めて二十五年が過ぎ、定年退職を機に今までの句をまとめる事を思い立った。(略) 俳句とあゆむ日々は尽きない刺激があり、湘子主宰、軽舟主宰からの指導はもちろん大小の句会で個性的な先輩方から学ぶ機会があった。日常生活ではまみえることのない魅力ある方々と知己になり、憧れた。 気がつけば俳句を伴走者として移り行き巡り来る歳月を走っていた。仕事や家庭で困難に見舞われても力強い伴走は止むことがなかった。むしろ自分を見失ってしまいそうな時こそ、カメラを引いて俯瞰するように客観的な視点を与えてくれる。そして胸の奥底に畳まれている何かを言葉にして浮かび上がらせるのだった。 「あとがき」から抜粋して紹介した。 装幀は君嶋真理子さん。 春月や母眠らせて湯に一人 母の死は三佳さんにとって、生家を守る責任感からの解放も意味した。決心して家を処分し、同じ上町台地のマンションで新しい生活を始めた。この句集は、ちょうどそのタイミングで上梓され、三佳さんの新しい人生の門出へと背中を押すものとなった。これを契機に三佳さんの作品がこの先どう展開するのか、楽しみに見守りたい。(小川軽舟/序) ご上梓後のお気持ちを佐竹三佳さんにうかがってみた。 (1)本が出来上がってお手元に届いたときのお気持ちはいかがでしたか? 何か現実離れした夢のような心地がしました。 (2)初めての句集に籠めたお気持ちがあればお聞かせ下さい 今までの歩みを纏めたかった事と句座の皆様への感謝です。 (3)句集を上梓されて、今後の句作への思いなどございましたらお聞かせ下さい。 俳句の奥深さを想い、いっそう精進しなければと痛感しました。 さくさくと葱をきざみて考へず 佐竹三佳 ご上梓おめでとうございます。 更なるご健吟をお祈りもうしあげております!!
by fragie777
| 2025-01-21 19:43
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