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1月7日(火) 七草 旧暦12月8日
枯れにひそむ青鷺。 雨は期待したほどではなかった。 もう少し降り込んでほしいのだが。。。 昨年の12月25日ごろになるか、俳人の後閑達雄さんが亡くなった。 風邪をこじらせての急逝ではないかと思う。 享年55歳 いただいた年賀状には「今年はもっと俳句をがんばります」と。 いまだに信じられない。 とても悲しい。 ご冥福をお祈りもうしあげます。 明日のブログで、改めて追悼をしたいと思います。 新刊紹介をしたい。 A5判変形ハードカバー装帯あり 166頁 三句組 俳人・中村和宏(なかむら・かずひろ)さんの第四句集である。 句集名は「荊棘(おどろ」。インパクトのある集名である。 広辞苑によると「草木の乱れ茂ること、また、その場所」とあり、つまりは整然との対極にある様のことである。 人間の影こそ荊棘(おどろ)夜の秋 に拠る。 しかし、この一句を読むかぎり、作者は辞書に記されている以上の意味合いをこの「荊棘」の言葉に込めているように思われる。 「あとがき」に、 地球温暖化による自然災害、さらにコロナ感染拡大と世はまことにおどろおどろしい。 とあり、「おどろおどろしい」の意味をこめた「荊棘」であるようだ。 「荊」には、「むち」や「いばら」という意味もあり、「棘」は文字どおりとげであり突き挿すもの。また、「荊棘」は、「けいきょく」と読ませ、「荒れ果てた大地」「乱れた状態」「困難」「悪心」等々の意味をもつ。 つまり、「荊棘」は、「おどろ」の意味以上のメッセージが託されているのだ。 「けいきょく」の意味あいももたせて掲句を読めば、俳句がぐっと深耕されるのではないだろうか。 「荊棘」という漢語が読者に視覚的によびおこすものがあると同時に、「おどろ」という音が読み手のこころになまりのように重くたれさがる。 作者が句集一巻にこめた思いは、この「荊棘(おどろ)」に集約されている、そんな一冊としてわたしは読んだ。 本句集に堀田季何さんが栞文を寄せられている。 タイトルは「救いはある――非人間描写による人間認識」。 本句集の特長をするどく掬いとった栞文である。 抜粋をして紹介をしたい。 句集『荊棘』全体での詠みぶりは、楸邨や飛旅子と大きく異なる。それは、句材として、人間そのものよりも、非人間を描いた句が句集の大半を占め、徹頭徹尾、非人間、特に動植物を描写し続けているからである。人間だけの句は少なく、句集の殆どを動植物の句が占めていると言っても差し支えない。ただ、人間が直接的に描かれることが少ないだけであって、人間の気配が見え隠れする。非人間を直接描くことで、人間が間接的に描かれているという具合だ。つまるところ、和弘俳句の特徴は、その徹底的な生物描写を通じて、人間に対する認識の瞬間を描くことにある。 句集『荊棘』では、通奏低音として、人間側の事情を意識して生きていない非人間が描かれる。人間と非人間の温かい関わり合いを描いたり、手放しで諸生命を肯定的に捉えたりする意思は微塵もない。 蟻食の暗き眼にこそ夕桜 ポンペイの馬車の轍に飛蝗死す 猪の大き足跡無縁墓 馬の鬣握れば熱し盆がくる トーテムポールに巨鳥の貌や木々芽吹く さらに、堀田さんは、本句集で詠まれた人間と非人間との関係性に例句をあげながら、書き及んでいく。 そして、師・田川飛旅子より「メカニックな観察と乾いた叙情を承継し」ていると記し、作者にある「非情な眼」を浮き上がらせる。 一つは、句材にタブーがないことである。和弘俳句の句材には、貴賤がなく、「落しもの」、「陰囊(ふぐり)」、乾いている蝸牛・鱗・蛸の吸盤、牛の「瘤」、「殺処分の万羽の鶏」、「獣毛の毛玉」、「死臭」、「地曳網の塵」、鼠の乳房ある死骸、紫陽花の浮腫み、「死鯉」、「共食」、垂れている「喉の皮膚」といった、穢れの最たるもののような物事が、平然と詠まれている。楸邨にもこのような傾向があったが、和弘には、表層的な風雅を厭い、人間非人間の全ての営みを褻として把握する姿勢がある。俳諧的な真の風雅を求めているとも言える。 一つは、具象も抽象も、一切をモノとして、即物的に把握する姿勢である。 暗黒も物として在り大旦 大寒のモダンバレエの肋かな 馬の毛のつよく粘りて秋暑し 抜け羽根に血ち脈みゃくの痕や端午くる マレー語の太太と存り朱欒咲く そして「もう一つは、この世が『まことにおどろおどろしい』という世界観である。」と書き、 〈太鼓の皮に黒き斑や日の盛り〉〈鮫の肉提げて島人老易し〉のように、人間が生活上の都合で行う非人間の殺生もあれば、〈軍用車輛渋滞しつつ青野かな〉のように、人間同士の殺生が暗示されることもある。非人間描写による人間認識のゆきつくところは、人間が「まことにおどろおどろしい」という認識なのだ。 堀田季何さんの優れた読みで、本句集の世界が読者にある不穏さを呼び起こしながら伝わってくる。 人間をふくめた物の存在感が、ぬっと顔をだしてくる俳句だ。 霊柩車しばらく蝶のまつわれり 黒塗りの霊柩車か、あるいは虚しく飾り立てられた霊柩車か、いずれにしても死者をはこぶ霊柩車であることは間違いない。そこに蝶がふわっと現れた。「まつわれり」という措辞が、死という磁場に引き寄せられている感がある。硬質な物体としての霊柩車、やわらかな生き物としての蝶。その対比があざやかであるが、死の匂いがたただよい不穏である。 大寒のモダンバレエの肋かな 堀田さんも栞にあげておられた一句である。一読後、さむざむしい肋骨が眼の前に現れる。そしてモダンバレエの踊り手の柔らかな肉体がみえてくる。しなやかな肢体以上に肋骨が先行している。「大寒」の季語の音のもつひびき、モダンバレエという身体の屈伸の動き、下5の「肋(あばら)かな」という物質感と音の広がり、ところどころの濁音が力強いアクセントとなって重さを感じさせつつ一句を成立させている。 抜け羽根に血脈(ちみゃく)の痕や端午くる 季語は「端午」である。男の子の逞しい成長をねがう「端午の節句」でもある。「抜け羽根に血脈の痕や」という上5中7が、おどろおどろしい。まず眼にとびこんでくるのは、「血脈の痕」である。端午に血脈の痕なんて、と思うが、なんていっても句集名が「荊棘(おどろ)」である。生命力に翳りをあたえるように、生はつねに死を内包しているのだ。この一句にかぎらず、本句集は生と死のデュアルな関係が詠まれている。〈猪の大き足跡無縁墓〉〈馬の鬣握れば熱し盆がくる〉〈月光の殺ぎたる山へ鷲帰る〉〈ががんぼの生きている肢(あし)落し去る〉などなど。 馬面剥 (うまづら)の鑢めく皮晩夏かな この一句も、生き物がもつ物の質感を詠みとめている。「鑢」は「やすり」のこと。「うまづら」の漢字表記も「馬面剥」とあえて表記し、まるで皮がはがれていくような印象をあたえ、そのやすりのような皮膚の感覚をあらわにさせている。「晩夏」という季語によって、夏がたしかに衰えていくことを思わせ、生きている馬もまた季節の運行のなかで、確実に衰えていくことを予感させている。向日性へむかうのではなく、あらゆるものが衰退へと向かっていくような暗さがある。それはこの一句にかぎらずである。 軍手みな氷柱を生みて飯場なり この一句も印象的な句だった。飯場で働く人の姿はえがかれていないが、干されてある軍手がそこに働く人間がいるということを語っている。しかし、その軍手は、凍り付いて「氷柱」となっているのだ。厳しい状況で働く人間がいるのであるが、作者が語るのは、あくまでも氷柱を生み出した軍手である。というか、軍手という本来の役割を失って一介の氷柱となってそこにあるのみ。堀田さんがかたるとこの「非情の眼」がとらえた一風景だ。 本句集の「あとがき」もまた、異色である。 中村和弘さんが10年ほど前に訪ねたラオスの山中でみた小民族が布地をつくる風景を記している。 樹皮をたたいて一枚の布をつくるのである。 一部のみ紹介をしたい。 トン、トン、トッ、トッ、トッ、トッ……。 その音はこの村に入った時から微かに聞こえていたように思う。 そこはラオスの山中、少数民族の数十戸ほどの小さな村落である。ガイド氏にその老人の所に案内してもらい、よく手元を見ると打っているのは木の皮らしい。それを木槌で端から端まで丁寧に打っている。道具らしいのは大小の数本の木槌のみである。しばらく観察していたが何を造ろうとしているのか見当もつかない。 トン、トン、トン、トッ、トッ、トッ。 老人の手使いが優しく繊細である。何を造っているのか、とガイド氏を通して訊ねると、老人は黙って横の棚から筒状に巻いた物を引き出してきた。それをガイド氏と私の見ている前でゆっくり拡げてゆく。 なんとそれは一反ほどもある見事な布地であった。思わず目を見張ってしまった。淡黄色を帯び光沢がある。麻の布を思わせるが、手触りは日本の紙衣に似ていようか。しかし、そのどれとも違うようにも思う。さらに老人は着ている衣服をちょっと抓んでみせた。筒袖の明かに草木染、襟には刺繍が施されている。 数十センチ四方の樹皮がこんな布地になろうとは誰が想像しえようか。 そろそろこの村を去る時。滞在が二時間と決められている。病気の感染を防ぐためであろう。 心を遺しつつ村をあとにすることとなった。その後訪ねるチャンスもなく、十年ほど経ってしまった。 地球温暖化による気候変動、最も影響をうけるのは自然に寄り添い、生かされてきたあのような少数民族の人々であろう。 満員電車の吊皮に凭れるようにしている折などふと、あの音が空耳のように聞えてくることがある。 トン、トン、トン、トッ、トッ、トッ、トッ、トオン、トン……。 本句集の装幀は、間村俊一さん。 カバー写真は、鬼海弘雄さんの作品である。 タイトルはツヤ消し銀箔。 角背がこの句集の背後にひそむある緊迫感によく合っている。 海底(うなぞこ)に白き蟹群れ良夜かな 海上の月光と無縁の海底で、数多の海没死者たちが白き蟹となり、今もなお人間非人間の屍骸を喰らい続けている。この様相は、私たち人間の世の過去であり、現在でもあり、近未来の予想でもある。 句集『荊棘』は、救いへの甜い希望も易しい道も示さない。そこには中村和弘という一個の人間の詩情と非情に裏打ちされた深い認識があるだけだ。(堀田季何/栞) 武甲山の大きく殺がれ秋たてり 狼の頭骨黒く在祭 白梅の青味帯びたり兜太逝く 掲句の三句は、わたしの郷里・秩父を詠んだ句である。三句目は、秩父を郷里とした俳人・金子兜太を詠んだもの。 わたしにとって、武甲山も、狼も、遠い存在ではない。
by fragie777
| 2025-01-07 18:20
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