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12月30日(月) 旧暦11月30日
名栗の荒涼とした冬景色。 いつ来ても好きな場所である。 この日は白鷺と青鷺がいた。 白鷺が飛び立つと、後を追うようにして青鷺が飛び立った。 今日は田中裕明さんの忌日である。 没後20年となる。 亡くなってより、これほど読まれている俳人は少ないのではないだろうか。 今日の山口昭男さんの「俳句日記」は「裕明忌」の一句である。 岩田奎著『田中裕明の百句』より紹介したい。 冬景色なり何人で見てゐても 『櫻姫譚』 至極あたりまえのことだ。でも、これがたとえば「春の海なり何人で見てゐても」だったら魅力がない。冬景色という言葉には、つまらないというニュアンスが含まれているように思う。蕭条と枯れつくし、かといって雪が降るでもないひろびろとした眺め。そんなつまらない風景を言葉もろくに交さずしばらくの間一緒に見ていてくれるのは、友達だ。眼前の冬景色に、ほとんど角度変えないかれらの視界が重なるような感覚。横を見ると、仲間がいる。さびしいことにはさびしいのだが、じんわりとした人間味も感じる句だ。 季語=冬景色(冬) いつになくこころしづかに年忘れ 『夜の客人』 忘年会だ。とうぜん騒がしい。みんな酔っているし、自分も酔っている。ところが、その最中にふだんにもまして凪いだ心でいる自分にふと気がついた。宴がつまらないのではない。むしろいい会だなあなどとしみじみ思いながら、会話の輪に入るでもなく聞いている。こうした経験は誰にでもあるだろう。共感性の高い内容だ。その上で、この句はやはり季語を中心に据え、つまり人間界の事情にとどまらない位相に触れる句だ。静かになった心には、とめどない歳月の流れが巨視的に見えてくる。「忘年」の本意にかなう、大きな時間感覚が冴える。 季語=年忘(冬) 去年今年人の心にわれいくつ 遺稿 二〇〇四・一二・二九 去年今年(こぞことし)とは、一夜を境に年が改まる不思議な感覚を捉えた言葉。いよいよ零時になるというとき、ふと思った。いま、それぞれの家で年を越しながら、誰か自分のことをちらりとでも気にかけて思い浮べてくれていたりはしないだろうか。何人の心に自分はいるだろうか。そんな人間くさい自意識。一年をともにしたさまざまな人の顔が浮ぶ。人のことを心にかけているのは、じつはこの人のほうだ。この句を書いて翌十二月三十日、五年弱患った骨髄性白血病による肺炎のために、裕明は新年を迎えることなくこの世を去った。享年四十五。 季語=去年今年(新年) 寄贈していただいた俳誌「青麗」(髙田正子主宰)1月号で、岩田由美さんが「田中裕明の俳句とその魅力」について、文章を寄せている。「Ⅱ裕明の詩情。ポエジーとは」の箇所からすこし引用させていただく。田中裕明が考えていた「詩情」ということがよくわかる一文であると思う。 裕明は主宰誌「ゆう」の中で、具体的な句評を通して自分の考える詩情とは何かを伝えています。 ●雰囲気や感情に流れるのではなく、季語がひろげる世界を具体的に描き出すこと。 ●虚子の言葉でいえば「叙する事柄は単純であつて深い味ひを蔵してゐる」ことが俳句のポエジーだろう ●季語によってありふれたことが詩になっていく ●季語の本意を生かす 季語を味わい、生かすことが詩情につながる、ありふれた内容でも、そこにふところの深い季語があれば、詠まれた世界に奥行きが生まれる、と私は理解しています。奥様の森賀まりさんが何かを口にすると、裕明は「おっ、いいモチーフだね、季語は」とたびたび言ったそうです。季語あっての詩情です。 岩田由美さんは、たくさんの句を鑑賞されている。そのうち一句のみ紹介したい。 小鳥来るここに静かな場所がある 『先生から手紙』 ここは静かな、穏やかな場所。人の世の喧噪を離れ、秋の小鳥の訪れにすぐ気づくようなところにいる満足感が感じられます。 この句には下敷きがあります。アイザック・アシモフの「静かな場所」という短編です。裕明自身が「ゆう」のエッセイに書いています。ある人に連れていってもらった、森の中の静かな場所。木の葉がそよぐ音、微かな虫の声以外は何も聞こえません。主人公はそこをもう一度訪れようと試みるのですが、どうしてもたどり着けない、と話が進みます。裕明はこの短編を紹介したエッセイを「一度、その静かな場所へ行きたいと夢想しています」と結んでいます。 裕明没後20年、、、 その歳月を今しみじみと思っている。
by fragie777
| 2024-12-30 17:57
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