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12月26日(木)麋角解(さわしかのおつる) 旧暦11月26日
さっそく東京新聞の記事を紹介したい。相子智恵さんによる月評「俳句の窓から」12月20日の夕刊より。 抜粋して紹介をしたい。 俳句は人生の長いドラマを盛るには短すぎる詩型だが、人生のある一場面の描写に徹した時、その短さゆえに鮮烈な印象を残し、映画の1本、小説の1冊に匹敵するイメージが湧いてくるものだ。 と記して、マタギに取材した句〈大鷹の爪の押さへしもの動く〉などの句をあげて、「場面の力強さは、その生活を知らずとも引き込まれる。描写は時に幻想的だ」とも。そして、 本書の一つの山場は、父の介護から看取りの一連で、ここでも描写力が冴える。〈抱き起こす父は夏かけほどの嵩〉の薄く痩せ細った体。〈雪の夜の尿瓶にいのち響き蹴り〉は尿瓶への尿の音だろう。観念である「いのち」が「響きけり」によって、尿の温みや音としてリアルに立ち上がってくる。〈なきがらの目尻の涙明易し〉は、細部の描写が、一切を語る。 「西村麒麟の第3句集『鷗』にもそんな場面があった」と記し、〈春風やほくほくとこれ母の骨〉は、気骨を持ち帰る悲しみの中にある「ほくほくとこれ」の俳味に、表現者としての覚悟を見る」と。 藺草が父を送った後、〈この世の父消えてあまねき夏の空〉と詠めば、西村は〈涅槃図の母も輝く一人かな〉と詠む。その季節にその人が亡くなったことは偶然に過ぎないが、季節の最も美しいものに向けて、安らかであれと祈る。『雪日』には、〈晩歌みな生者のために海へ雪〉もあった。それでも私たちは季節の中で生き、祈るのだ。 新刊紹介をしたい。 四六判ペーパーバックスタイル 176頁 著者の川崎雅子さんは、俳人である。 昭和50年(1975)「渦」(赤尾兜子主宰)入会。昭和57年「雲母」(飯田龍太主宰)入会。友岡子郷に師事。平成4年(1992)「柚」(大井雅人主宰)入会。平成20年(2008)「はるもにあ」(満田春日主宰)入会。平成21年「とちの木」代表、現在に至る。現代俳句協会会員、兵庫県半どんの会会員、大阪俳句史研究会会員、句集に『歩く』『佇つ』『坐る』、文集に『友岡子郷俳句365日』、『四季の窓辺』がある。 「私にとって俳句は喜怒哀楽の大きな器でした。『玉手箱から』は、そんな私の独り言です。私の五十年の記憶です。お会いした方々は、有名無名にかかわらず魅力的でした。 どなたも真摯に俳句に取り組んだ方々であり、取り組んでいる方々です。そんな方たちとの出会いが、私の宝石です。」 と「あとがき」に書かれているように俳句人生50年における俳人との交流の記録である。 そこには、わたしもよく存じあげている方々もいて、興味深いエピソードが綴られている。 赤尾兜子を最初の師とされた川崎雅子さんである。 わたしが駆け出し編集者だったころ、赤尾兜子氏には原稿をいただいたこともあり(お会いしたことはなかった)しかし、電車の人身事故で自死をされたという衝撃的なニュースを聴いたときのことはよく覚えている。 その当時の状況などが詳しく記されていて、過去を甦らせながら拝読したエッセイ集である。 赤尾兜子の葬儀の場面で、とりわけ印象に残った箇所がある。 その一文を紹介してみたい。 ふらふらと先生のお宅に入った私に、弔問客の受付の仕事が与えられた。先生宅の前の坂道にテーブルを出し電報などを整理しているとき、波多野爽波先生がこられた。瀟洒なスプリングコート姿の爽波先生は、微妙な表情を浮かべながら、準備のできていないガタガタするテーブルでご署名された。そして、軽く手をあげ、暮れ方の坂道を下りていかれた。 このあとに、兜子と親交のあった髙柳重信や橋間石、和田悟朗、阿波野青畝、友岡子郷などが参列されるのである。波多野爽波は、早めにひとりでやってきて、誰とも話しもせずに帰っていく、多分兜子とは淡い交流だったのだろう。このように爽波の姿を描写している川崎雅子さんには、その姿が強く印象に残ったのかもしれない。 赤尾兜子は司馬遼太郎とも職場が同じということもあって、親しかった。その葬儀参列の場での箇所も紹介してみたい。 その中でも、すべてを包み込むような司馬遼太郎の笑顔が忘れられない。葬儀場での笑顔は不遜なものであろうが、氏の笑顔はあたたかく、その場に相応しいものだった。 こんな風に、『玉手箱から』のエッセイは、興味がつきない。 本著の担当は、文己さん。 思い出のたくさん詰まった箱から一つ一つ、エピソードが飛び出してくるようで赤尾兜子、友岡子郷、飯田龍太、田中裕明(敬称略) お会いしたことのない著名な先生方との交流のお話をお人柄を思いながら楽しく拝読しました。 和田悟朗先生の、「いつまでも偉くならないのが偉い」というお言葉は川崎雅子様の謙虚で素直なお人柄を表していらっしゃる褒め言葉だと思いました。いつまでも心に残ります。 そう、「ふらんす堂句会」にも参加されていた川崎雅子さんである。田中裕明さんのことも語られている。 ふらんす堂京都句会では、句会が終わった後、会場近くの喫茶店へ行った。その店ではアルコール類も飲めた。私は飲むことで、句会の間の緊張が解けるのが嬉しかった。その上、飲めるのは先生と明澄さんと私だけだったので、先生の左右に明澄さんと私が席を占めることができた。先生はお酒が強かった。少しも乱れず、ニコニコと飲んでいられた。後日、「俳句」だったか「俳句研究」だったかの「俳人日誌」に、そのことを書いていられた。私は嬉しくて、その記事を何度も読んだ。先生が亡くなられてから数年後、その喫茶店を訪ねたことがある。店の人が「田中さんは皆さんと別れた後、戻って来られ、飲まれたことがよくありました」と話されて驚いた。そして、懐かしいお顔を思い出した。 この最後の箇所、笑ってしまった。よっぽど、お酒がすきだったんだわって。 こんなエピソードにも会えるのは楽しい。 しかし、師や句友とのたくさんのわかれもある。 それほどの多くの出会いと別れ。そして川崎雅子さんは、たくさんの大切な出会いを自身にとっての宝石として宝石箱より取り出して、わたしたちにその輝きをみせてくれているのである。 本著は名前のみ知っている俳人たちの風貌にふれられることのできる1冊である。 肩の凝らない読みやすい文章のはこびであるので、どなたにも読めるエッセイ集である。 本著の装幀は、君嶋真理子さん。 皆様ありがとうございました。書き残したことも多々ありますが、感謝とともに、私の玉手箱に蓋をさせていただきたく存じます。(あとがき) 本著の上梓後のお気持ちをうかがった。 表紙は句集「坐る」につながるような感じで、ブルー系にしたのも良かったと思いました。有難うございました。 ざっと読み直してみると、記し忘れていることも多いようです。それはそれで良いように思っています。 思い出はきりがありませんから。 「玉手箱から」は、今後、私の宝物になりそうです。 そして、エッセイに登場する人たちの写真を送ってくださった。 その中から数枚を紹介したい。(トリーミングしてあります) 赤尾兜子氏。 (背が高かった方らしい) 飯田龍太氏(左)と赤尾兜子氏。 左より、日美清史、大井雅人、著者、友岡子郷の各氏。 ふらんす堂京都句会。 講師は田中裕明さん。 エッセイ集『玉手箱から』は、俳誌「はるもにあ」に連載したものを1冊にしたものである。
by fragie777
| 2024-12-26 19:43
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