ふらんす堂編集日記 By YAMAOKA Kimiko

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桂信子の気骨。。

12月16日(月)  旧暦11月16日


桂信子の気骨。。_f0071480_17191107.jpg
ユリの木の枯れ。

白くけぶっている。


桂信子の気骨。。_f0071480_17191442.jpg

大木である。


桂信子の気骨。。_f0071480_17191745.jpg


桂信子の気骨。。_f0071480_17191905.jpg

枯れもまた花のようである。

これらがすべて落ちつくし裸木となると、このユリの木は大きな怪物のようにみえてきて、わたしはこの木の下を通れなくなる。



12月12日づけの神奈川新聞の「俳壇時評」で、岸本尚毅さんが波戸岡旭著『続・島は浜風』をとりあげて紹介している。同時に上梓されて新句集『醍醐』(ウエップ刊)とともに。

瀬戸内海の生口島出身の著者は高校を出て就職したが、退職して浪人やアルバイト生活を経て大学で漢文学を専攻。その過程で出会った人々とのエピソードが随所に温かい筆致でつづられている。

句集『醍醐』よりはたくさんの句をとりあげている。その内のいくつか。
 帰り来て猫に被せる麦藁帽
 マフラーの長きに余る思案かな
 焼芋を割つて事足るふたりかな
 天道虫いつも陣笠磨きたて
 片陰が出来て喪中の家を辞す
 鮎つかむ手の甲までもうすみどり
 




今日は桂信子の忌日である。20年前の今日亡くなった。
鈴木六林男の逝去の数日後である。


今日は『桂信子文集』より、一文を紹介したい。


桂信子の気骨。。_f0071480_17551683.jpg

2014年の刊行であるから、10年も経ったことになる。
さまざまな桂信子に出会える文集であるが、編集作業をしていてとくに印象にのこった箇所をわずかであるが紹介をしてみたい。


「風狂と写生―『食はず』きらい―」と題した俳誌「草苑」に掲載したものである。

私は、毎日新聞の俳句欄を毎週たのしみにしている。ことに、今掲載されている「私の俳句(又は短歌)作法」は、得るところ大きく何度もくり返しよむ。たまたま、その欄で、森澄雄氏が、次のようにかいて居られるのをよんだ。

 “前略、『俳句とエッセイ』十月号の拙作

  寒鯉を雲のごとくに食はず飼ふ   澄雄

について詩人・伊藤信吉氏もほぼ同意見だが、桂信子氏が次のように書いている。

 「…『食はず飼ふ』で私はとまどつてしまう。寒鯉はもちろん、食用になるが、こんな時『食ふ』という連想が私には浮んで来ない。
 これは男と女の感覚の違いであろうか。『雲のごとくに飼ふ』というだけで、この句は成り立つているのではないだろうか。今、能村登四郎氏の句『薄墨のひろがり寒の鯉うかぶ』を思い出した。」

だが、あえて作者の弁をいつておけば、桂氏があげた能村氏の属目写実風の作品とは、おそらく発想において根源的にちがう。ということだ。もちろん、ぼくの一句もそうした実在の一人物を想定してもよいが、ある日ある時、飲食(おんじき)にかかわる人間のかなしき所業を捨てて、、胸中、一仙人となつて雲のごとくに寒鯉を飼う仙境に遊んだのだ。といつてもよい。従つて「食はず」は「食ふ」という人間の所業を裏において一句の俳諧の所在、また要(かなめ)だといつてよい。作者の腐心もこの三字の布置にあつた。だが、それが不明だとすれば作品の不熟として緘黙(かんもく)のほかはないが、一方、桂氏の文章から、ぼくには子規の写生以来、俳諧の滑稽(こつけい)も風狂も失つて目に見えるものしか見えなくなつた現代俳句に対する大きな不満もあつた。(後略)
 
 私は、澄雄氏がこの「食はず」を一句の俳諧の要かなめとし「作者の腐心もこの三字の布置にあつた」といつて居られるのをよんで、いよいよ、この「食はず」が余計なものだと思うようになつた。つまり作者が力めば力む程、傍(はた)からは興ざめなのである。風狂といものは、作者自身が、之は風狂だと面白がつてしまえばもうおしまいで、風狂でもなんでもない。他から見てこその風狂なのである。私は、「雲のごとく飼ふ」だけで、人間が、ときたま一仙人となつて雲のごとく寒鯉を飼う仙境(澄雄氏の言)が察せられるが、「食はず」を入れると、仙人が雲から足を踏みはずして下界へ落ちてしまうような気がする。また私は、能村氏の句は、ふと思い出しただけで、別に、森氏の句と比較して、能村氏の句のほうがよいと云つているわけではないのである。能村氏の、鯉の句は、単なる情景描写であり、森氏のそれは、人生の深い意味をふくんでいること位は、私にもわかる。
 しかしそれでもなお且つ、私は「食はず」は不必要だと思うのだ。

この森澄雄の句に対して、なかなか手厳しい。
森澄雄の「寒鯉」の句については、見解がわかれるところなのかもしれないが、容赦しないところが、おもしろい。
このあとも、桂信子の論は展開していくのである。
もう一句、森澄雄の〈秋の淡海かすみ誰にもたよりせず〉の有名句をとりあげて、「「たれにも便りせず」といわれると私は、やはり興がさめる。」「どちらも世評高い作品だが、私は、そのどちらをも、あまり高くかつていない。つまり二句とも野暮つたいのである。」と断じている。
そして、文章のおわりは以下のようである。

俳句もまたこのようなものではないであろうか。表面はさりげなく淡々としているが、その奥の深さははかり知れない。そして、それを説明しようとはしない。わかるひとにはわかってもらえるというところがある。俳句は最高に贅沢なのである。私がこんな事をかいても、森氏が「食はず」は絶対必要だといわれれば結局水かけ論になるので、これ以上は云わない。十年ののちひとりでも、私の言に賛同して下さる方があれば、私はそれで満足である。

上記の森澄雄とのやりとりに関して、「寒鯉論争」として発展していったのかどうかはわからないが、興味のあるところである。
「草苑」の昭和51年1月に掲載されたものである。

桂信子という俳人の気骨を思わせる一文で、わたしは好きである。

鈴木六林男、森澄雄、桂信子、どの俳人も一徹で、ゆるぎないものがあった。









桂信子の気骨。。_f0071480_17192158.jpg

今日いらしたお客さまに干し柿をいただいた。

どうやって食べるのがおいしいだろう、っていう話題になった。

「そのまま食べるんです。充分おいしいから」
「クリームチーズにあえて食べるのもおいしそう」
「ヨーグルトに細かく刻んで蜂蜜をそえて食べるのでは」
「大根の千切りとなますにしては…」

などなど、

わたしはそのままパクッと食べるつもりだったけど、(芸の無い人間なのよ)

チーズとあえてみようかっておもってる。






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by fragie777 | 2024-12-16 19:05 | Comments(2)
Commented at 2024-12-17 23:40
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by fragie777 at 2024-12-18 13:52
シナモンさま

ご丁寧にありがとうございます。
是非にお読みになってください。

(yamaoka)
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