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12月15日(日) 旧暦11月15日
スパークリングワインのロゼを久しぶりに飲んだらおいしくて、ちょっと飲み過ぎてしまった。 ブログを書こうとパソコンの前に坐ったのはいいが、まったりとしてしまって、ややうつらうつらとしてしまう。 今日は安息日であるから、ゆっくりと過ごしたっていいわけだけど、 勤勉なるyamaokaであるので、さあ、ブログを書こう。 河原鶸。 神代水生植物園にて。 ときどき見かける鳥である。 神代水生植物園は、いろんな鳥の声が聞こえた。 鳥声を聞き分けられるようになりたい。 今日の朝日新聞の「風信」に、坂本宮尾著『竹下しづの女の百句』が紹介されている。 明治生まれの女性俳人の作品を鑑賞。「短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまをか)」「ペンが生む字句が悲しと蛾が挑む」 今日は山口青邨の忌日である。 青邨は、1988年の今日亡くなった。 没してより36年が経つ。 かじかめる手をもたらせる女房かな 『雜草園』昭和五年 イソ夫人はしばしば青邨の句に登場する。吸入をしたり「夏草」同人諸氏のために豆飯を炊いたり。青邨は大正十一年に結婚。この句の当時は三十九歳であった。 寒い日、夫人がその冷たく悴んだ手をもたらした。おそらくは黙って夫の手を取ったのであろう。「もたらせる」は間接的な、奥ゆかしい言い方である。「女房」に「かな」をつけたところが少し大仰で、照れ隠しの趣もあろうか。 みちのくの青きばかりに白き餅 『芲宰相』昭和二十三年 みちのくの餅は青いばかりに白い。白さが極まって青さを感じた。餅肌という言葉も連想する。 敗戦後、三回目の正月。まだ戦後間もないと言える頃。目の前の餅を介して、平和であること、食べるものがあることの有難みを噛みしめている。その切実さが「青きばかりに白き餅」という口吻に表れている。しかも故郷の「みちのく」の米で出来た餅であればその有難みはひとしおである。 初富士のかなしきまでに遠きかな 『粗餐』昭和三十二年 阿波野青畝の「初富士を隠さうべしや深庇」には富士の他に庇が描かれているが、掲句には富士以外のものは描かれていない。背景はただ青空があるばかり。 この句における描写は「遠き」という自明の事柄だけ。そこに「かなしき」という情を添えた。 自分の手の届かない遥かなものを思うとき、その思いは己の存在の微小さに帰着し、かなしくなる。そのような素朴な感情を詠み添えることによって初富士の遥かさが際立つ。無技巧にして究極の技巧というべき作。 青邨の作風について山本健吉は「秋桜子・誓子ほど野心的な表現意欲もなく、新風を樹立するにも至らなかったが、どこか余技的な余裕があり、平明で、淡白な中に心がこもり、明るく健康で教養人的であるのが、彼ら(青邨と風生 引用者注)を『ホトトギス』の主流に位置せしめているのである。両者を比較すれば、風生のほうが俳句的ひねりが利いており、軽妙瀟洒繊細なのに対して、青邨は単純で一本調子で質実で感情の襞がおおまかである。風生が女性的なのに対して、青邨は男性的である。だが両者とも一種の近代的感覚を身につけ、社会人的・紳士的洗練を句の上に漂わせていることにおいて、古い俳諧者流と区別される」(『現代俳句』)と評した。「単純で一本調子」と山本健吉は言うが、私は必ずしもそうは思わない。最晩年の句まで通読して強く感じるのは、むしろその文体の多様さ、自在さである。 巻末の解説に冒頭に岸本尚毅さんは以上のように記し、そのことを俳句をあげながら本著で実証していく。 昨日の落葉。 落葉を踏む音って乾いた音がして、きらいじゃない。 音を楽しみながら踏んでゆく。 が、 ハッとするほど瑞々しい色の落葉があったりすると、 上げた足をそこに下ろすのがすくんでしまう。 この楓落葉もまだまだきれいな色をしていた。
by fragie777
| 2024-12-15 19:29
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