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12月13日(金) 旧暦11月13日
茨の実にひっかかった落葉。 自然を散策しているとこんな何気ない景にも心がとまる。 湿原につけられた足跡、 これは鷺かしら。 他にも獣のような足跡もあって、 その姿をあれこれ想像しながら歩いていくのもたのしい。 「俳壇」1月号がとどく。 「本の庭」にて、鶴岡加苗さんが、ふらんす堂刊行の書籍を二冊とりあげらて評している。 抜粋にて紹介したい。 (略)俳人協会の評論講座で坂本が「現場に立つこと、第一資料にあたることの大切さ」を説いていたのが印象的であったが、本著においてもその基本姿勢が貫かれており、読者は俳人しづの女に肉迫した骨太の鑑賞にぐいと引き込まれる。 竹下しづの女は大正八年に俳句を始め、〈短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてちまおか)〉の衝撃的な作品で、「ホトトギス」巻頭を得た。「奇抜な発想、難しい漢文、さらに『すてちまおか』というルビの威勢のよい口語調に、俳壇は度肝を抜かれた。」と坂本は言う。 (略)実際には三年以上の作品をまとめて構成し直したものと思われるが、章立てや制作年代は印さず。一巻を通して季節は三巡しかない。巻頭の〈扉を敲くための拳や春北風〉でこの世界への扉を開き、作者は「君」と出会う。〈君からはここが陽炎ひてゐるのか〉〈婚約ののちの照り降り水葵〉〈どこにゐても虹を教へてあげるから〉と二人は気持ちを通わせた。これらの作品が掉尾の〈冬の虹忘れてそして忘れ去る〉と呼応してしまうのが何とも切ない。三巡目の夏に詠まれた〈夏野へと続く扉を塗り替へる〉。塗り替えられた扉から続く怒濤の展開に胸が詰まる。(略) このような私小説的な詠まれ方を作者は望んでいないかもしれないし、私の好きな句も実のところ別にある。語るべき点の多い句集。 この藤井あかりさんの『メゾティント』はいろいろと話題となっている。 「語るべき点の多い句集」と鶴岡さんは書かれている。 わたしたちを「深淵」へと向かわせる句集である。 鶴岡加苗さんの好きな句も知りたいところである。 おなじく「俳壇」1月号にて、栗林浩さんが、「俳書の森を歩む」で、仲寒蟬著『相馬遷子の百句』をとりあげて評している。 わずかになってしまうが、抜粋したい。 辞世の句と思われる次の句のなんと美しいことか。 冬麗の微塵となりて去らんとす 原案は〈冬麗の何も残さず去らんとす〉であったが、推敲してこうなった。何も残さず、ではなくて、微塵=ダイヤモンドダストとなって山河の一部にならんとしたのである。この一句が残れば俳人として本望であったに違いない、と仲は考えている。遷子に通底するのはこのような透徹した叙景句でもあった。 「図書新聞」3668号の「24下半期読書アンケート」で、詩人の井川博年さんが、ふらんす堂刊行の句集を二冊あげている。 多くの識者にたくさんの本がとりあげられているなかでふらんす堂の本に出会えるのは嬉しい。 辻憲は、詩人辻征夫(2000年、六十歳で死去)の七歳下の弟。多摩美大で駒井哲郎に銅販画を習い、『辻憲銅販画作品集』(1994年、東京梅田画廊)がある。現在は小沢信男『余白句会』の常連で、このほど初めての句集を出した。〈啓蟄や虫の挨拶あっちこっち〉〈美人からたぶんうつった春の風邪〉〈夜の秋「けんかえれじい」また観てる〉。 昨年末に『老の俳句』(ウエップ)を出して、虚子以来の俳人の〈老人力〉を挙げ、「大したものなし」と大いに気を吐いたネンテンさんの八十歳での最新句集。〈ころがしておけ冬瓜とこのオレと〉〈岡山県なんとか港にいて小春〉〈桜咲くどすんと象はうんこして〉〈秋空にポンと置いたか天守閣〉。 坪内稔典さんといえば、最近『高浜虚子』(ミネルヴァ書房刊)を上梓された。 ほんとうに精力的である。正岡子規についての著書は多くあるが、「高浜虚子」のみにテーマをしぼった本ははじめてなのではないだろうか。 「余は平凡が好きだ」という副題がある。 これから拝読する予定。 どんな虚子論が展開していくのだろうか。楽しみ。。。
by fragie777
| 2024-12-13 19:14
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Comments(2)
こんばんは
初めまして 一枚目の画像、とても心が和みます。
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