カテゴリ
以前の記事
最新のコメント
検索
外部リンク
画像一覧
|
12月12日(木) 熊蟄穴(くまあなにこもる) 旧暦11月12日
冬らしい寒い朝となった。 わたしは自転車をとばして仕事場をめざす。 美しいものに出会っておもわず自転車をとめる。 白い冬薔薇。 白であるがうっすらとピンクを感じさせる。 開ききると白になるようだ。 薔薇はおもいのほか濃い香りをはなっている。 (ほんと、素敵ね)と薔薇につぶやいて、わたしは自転車にふたたびまたがった。 ここんとこ、夕方になるとわたしのパソコンは動作が緩慢になって、言うことをきいてくれなくなる。 (もう疲れだぜー)っていう感じで、ノロノロと待たせる。 一昨日だったか、キャノンのサポートセンターに連絡をしてリモートで原因をさぐってもらった。 その結果、わたしのパソコンはどうやら寿命がきているらしく、買い換え時が来ているようだ。 ヤレヤレ、 である。 今日は鈴木六林男の忌日である。 鈴木六林男は、2004年の今日亡くなった。享年85。 没後20年となる。 この年の⒓月は、桂信子、田中裕明とつづけて亡くなったのだった。 たまたま開いたページのものから。 寒鯉や見られてしまい発狂す 『國境』一九七七年 誰に見られているのか。誰が見ているのか。そう容易に読み解けないにも拘らず、どこか硬質で妖しい美を投げかけてくる一句。この「寒鯉」に作者の自画像を投影し、秘すべき何かを感受することもできよう。だが、下五の「発狂す」という変容は過激である。作者は、中七に「見られてしまい」を解読不可性さえ帯びた表記として置くことによって、〈写生〉という方法に倚りながらも、その特権的な眼差しを切断する劇薬と呼ぶべきものを仕掛けたのではなかったか。俳句という詩型が到達しうる臨界であると同時に、ひとつの謎を現前させた一句。 戦争と並んでいたり露の玉 『後座』一九八〇年 この一句では、いま眼前にある「露の玉」に「戦争」が映っている。散乱した戦死者、引き裂かれた樹木、そして砲弾の炸裂によって抉られた地面……。あえて「露の玉」という季語と取り合わせることで、けっして「戦争」が過去のことではなく、いま目の前の現在として進行していることを暗示しているのではないか。なお「後座」という句集名も、〈戦争〉にこだわり続ける六林男の流儀によるもの。後記には〈目標に向って作業を継続しようとしたとき、反動によって書き手も傷つく覚悟がなければ、前方が透いてこないことになる。〉と記す。 没後20年ということで、目下高橋修宏さんによる鈴木六林男の評論集を営為、編集中である。 来年の2月早々には刊行したい。 蕾は濃いピンクである。
by fragie777
| 2024-12-12 18:25
|
Comments(0)
|
ファン申請 |
||