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12月11日(水) 旧暦11月11日
かわいいな。。 手違いがあって、白菜をたくさん購入してしまった。 冷蔵庫からはみ出ている。 鍋だな。 たぶん今日も鍋料理だと思う。 新刊紹介をしたい。 四六判ハードカバー装帯有り 244頁 二句組 著者の小野打美智子(おのうち・みちこ)さんの約40年間にわたる第1句集である。小野打美智子さんは、昭和9年(1934)東京生まれ、現在国立市在住。昭和60年(1976)朝日カルチャーセンター立川の「俳句教室』に入会し、庄司圭吾に師事。昭和61年(1977)「雲母」入会、飯田龍太に師事、「雲母」終刊を経て、平成5年(1983)「白露」創刊、廣瀬直人に師事。「白露」終刊を経て、平成25年(2013)「郭公」創刊、井上康明の選を受け、令和5年(20239「郭公」同人となる。本句集には、飯田龍太、廣瀬直人の作品評が載っており、また、井上康明主宰が、跋文を寄せている。 それぞれを紹介したい。 鹿の瞳の近づいて来る冬の草 馬の目も牛の目もやさしいが、わけても鹿の目には独特の親しみをおぼえる。目を瞳と表現したところも作者の印象、たとえば奈良の春日神社でもよいが、ともかく人慣れした鹿であることは言うまでもない。この句の微妙なところは、下句の「冬の草」という措辞。冬の草という場合は、冬さ中にもみどりを宿している草である。つぶらな瞳とこのみどりが作品の詩心。(飯田龍太) 藪枯しもうその先に道見えず 「見えず」というのだから道はあるのだが藪枯らしのあまりの繁茂のために見えなくなっているのだ。あなたにはこんな、人の邪魔をすることしか出来ないのとでも言いたい気持ちではないのか。別名貧乏蔓とはまことにこの場面、当を得ているだろう。(廣瀬直人) 父母恋ふに百日紅の戦後あり この句集のテーマは、百日紅に象徴される終戦と戦後の日々にある。同時に例えば、前の三句の父と子の家族の風景、百日紅自体を描く自然詠など、ここには、日常へそそぐ濃やかな眼差しがある。(井上康明) 井上康明主宰の跋文は、作者の長い俳句人生にそって作品を丁寧に鑑賞したものであるが、ここでは帯文になったものを紹介。 「この句集『百日紅』は、作者五十代の初めから現在の九十歳に至るまで約四十年間の作品四百五句を収録する。句集名となった百日紅の句はこの句集の中に五句収録されている。」と井上主宰は記し、「百日紅」の句を5句紹介しているのだが、掲句はそのうちの一句である。 本句集の担当は、Pさん。 「百日紅は小野打さんの人生の思い出がつまった木です。飯田龍太からはじまり、井上康明先生へと繋がる師系の中で、丁寧に生きてこられた日々を紡いだ一冊です。」と。そしてPさんが好きな句は、 大屋根の片側が濡れ冬はじめ 蕗味噌の香に団欒の一家族 明るさは春の鸚鵡の一語より 鹿の瞳の近づいて来る冬の草 遊ぶ子によく通る声日脚伸ぶ 万緑や日々新しき子の言葉 目薬の一滴寒き港の灯 夏草に溺れてゐたる測量士 花びらの濡れていちまい靴の先 鹿の瞳の近づいて来る冬の草 この句はわたしも好きな句である。飯田龍太の鑑賞でもうすべてを言い尽くしている、から余計なことは不用である。でも言ってみたい。なぜ「春の草」でなくて「冬の草」がいいって思うのだろうか。鹿の瞳と冬の草の間にある距離、そこにはしんしんとした寒さの気配がある。空気もはりつめていて、鹿の瞳もやや硬質な光りがあって、多くのものが枯れ果てた大地に青青と精気を漲らせているのが冬の草なのだ。寒気のなかにあって、動物の生身のぬくもり、濡れている瞳、そして冬草のあざやかな青、締まった空気、まさに「冬の草」であればこその一句だ。「春の草」であったらすべてがゆるくぼけてしまう。 万緑や日々新しき子の言葉 この一句、わたしも印しをつけた。すぐに草田男の「万緑」の句を思い出したけれど、その句への「挨拶」の一句としてもいいのではないかと思った。どちらも満目の緑が発散するエネルギーと、子ども生命力を詠んだものであるが、草田男の句は、生物体としての子どもの成長を歯に集約させ、緑と白をあざやかに対比させている。掲句は、子どもの知力の成長を万緑のなかで詠み止めた。「日々新しき子の言葉」と動詞を用いずに叙したことで一句に弾力と勢いが生まれ、命の躍動を感じさせる一句となった。 夏草に溺れてゐたる測量士 この句も面白い一句だ。なんといっても「溺れてゐたる」の措辞が、「夏草」そのものの様子をよく言い得ている。そして溺れている主体は、人間ではあるが、「測量士」という具体性がよりリアルである。この仕事をする人間でなかったら、「溺れている」情況もずいぶん違ってくる。たとえば「男かな」とか「子どもかな」などとしたら面白みは半減してしまう。「仕事をしなくてはならない測量士」であるからこそ溺れつつも必死である。そんな様子もみてとれて「溺れてゐたる」という表現に俳諧性があり、思わず笑ってしまった。炎天下に夏草と格闘するお仕事なんて、なんともお気の毒である。 花びらの濡れていちまい靴の先 この句も景がクローズアップされてくる一句だ。先日このブログで紹介した藺草慶子さんの句「集ひ来るみな花びらを靴につけ」をふっと思い出したが、この句は、もっと焦点がしぼられた一句である。詠んでいることは、一枚の花びらと靴の先という靴の一部である。一枚の花びら、それも濡れている花びらが靴の先にびたっと張り付いているのだ、ほんの僅かな領域を一句にしているのだが、様子がよく見えてくる。イ行の音を効果的に、リズミカルに読みこなし、「靴の先」と止めた詠みぶりが巧みである。 著者の小野打美智子さんは、体言止めの句をつくるのが達者なのかもしれない。意図したわけではないか、そういう句を選んでしまった。 干し上げてシーツ波打つ立夏かな なんとも初夏の爽快感に満ちた一句である。糊をきかせた真っ白いシーツが風をはらんで波立っている様子、そして青い空がみえる。夏がやってきたのだ。垂直へと向かう身体と立夏という語が響き合い、はりつめた生命力を感じさせる一句だ。句集後半に〈墨磨ればその香秋立つ日なりけり〉という一句もあって、こちらも好きな一句である。夏は視覚で季節を感じ、秋は嗅覚で季節を感じている作者である。 令和六年私は九十歳になりました。顧みますとずいぶん長い年月を俳句と共に生かされてきたものと感慨深いものがあります。それはひとえにご指導をくださいました先生方は勿論、句友の方たちとの親交、また家族の陰ながらの応援、それに目には見えないけれど何か大きなものに曳かされているような気がして、全く俳句と共に勿体ない程の幸せな時間を過ごさせていただき、感謝の気持ちでいっぱいです。 今回、不器用ながら主婦ひとすじに生きて来た自分の人生の節目の証しとして思い出の句をまとめてみました。 「あとがき」の一部を紹介した。 装幀は、君嶋真理子さん。 題字は小野打美智子さんによるもの。 クロスはやわらなか色の黄色がかったベージュ。 見返し。 扉。 露けしや世を経し母の黒真珠 母から受け継いだ黒真珠は、八十年になんなんとする戦後の歳月を映して、露めく大気の下で底光りを放っている。 小野打美智子さんの卒寿を言祝ぎ、今後の作品に期待したい。(井上康明/跋) 小野打美智子さま(右) 井上康明主宰と。 7月8日のご来社のときに。 90歳とはとても思えない若々しいお方である。 90歳にしてはじめての第1句集。 さぞ感慨深いものがおありだと思う。 小野打美智子さま。 卒寿での第1句集のご上梓、おめでとうございます。 こころよりお祝いを申し上げます。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 第2句集のご上梓をめざして、さらなるご健勝をお祈りもうしあげております。 鳥のこゑ聴き分けてゐる小春かな 小野打美智子
by fragie777
| 2024-12-11 18:56
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Comments(2)
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