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12月5日(木) 旧暦11月5日
「何か小さな虫がいるよ」って呼ばれた。 (なんだ?) 綿虫だった。 綿のような白いもしゃもしゃしたものがある。 俳人は綿虫が好きである。 綿虫をみるとぜったい俳句をつくる。 俳句をつくらない人間は綿虫のような小さな虫は気づかないことが多い。 でも、俳人たちはきっと見逃さない。 綿虫を追ふ目この世をはなれたる 山上樹実雄 髙柳克弘句集『涼しき無』が品切れとなり、電子書籍にて販売となった。 こちらより→ 髙柳克弘句集『涼しき無』 日向ぼこしてゐてちがふここじやない 髙柳克弘 お名前の「髙」が電子書籍だと、「高」となってしまう。 固有名詞なので、できれば「髙」で表記したいところであるが。。。 「ふらんす堂通信」で詩人の河津聖惠さんが、三島由紀夫の『豊穣の海』四部作をとりあげながら、三島における「詩論の試み」をテーマに連載をしてくださっている。 わたしは目下文庫本でこのシリーズを読み直しながら、この連載を楽しみにしているのだが、前回の『春の雪』についての詩論のところで、河津さんが実はかつてこの『豊穣の海』を読み進みながら、「夏の終わり」という連作詩を書かれたことが記されている。この「夏の終わり」の連作詩は、1998年にふらんす堂より詩集『夏の終わり』となって刊行されたのだった。その時の担当はyamaokaであるのだが、よもや、その詩集の背後に三島の『豊饒の海』があったとは知らなかった。河津さんのこの度の詩論を読んであらためて驚いたのだった。この詩集は、第9回歴程新鋭賞を受賞したすぐれた詩集である。「ふらんす堂通信182号」で河津さんは次のように書いている。 「当時病を得た故郷の父と母を案じ、鬱屈した感情に閉ざされがちだった評者に、『豊饒の海』は甘美で官能的な、そして普遍的な浮力をつけてくれたのだと思う。眼差しだけになり無人の時空を旅するという非日常的な詩世界を作り続けられたのは、この四部作のおかげである。」 詩集『夏の終わり』より、一篇のみ紹介をしてみたい。1から14まで番号のつけられれた作品から2のものを。 2 「私」を夜の光が遡る。 内蔵は静かに閃きを浴びている。 どこへゆくの わたしは不安な子供になってたずねる。 光は涯にあるかもしれない終わり、もしくは始まりを (その漆黒を) 繊い植物のようにもとめてゆくのだ 今度は老人になって答える。 眼底の空。 風のざわめきが鍍金され、またしても駅名があらわれた。 本当は言いたい言葉がある 言ってはいけないそれがある という駅名。 地唄のような、水蒸気のような、女の低い棒読みのような。 木札の根方に一瞬前の言葉が粉のようにばらかまれる。 到着のたび「私」は崩れ 俯く野苺や 無数の馬糞 輝かない古い草になり そしてまたざらざらした外にこすれる眼球になる アマクリン、ロドプシン また駅の名はいいまちがい 白い空に白い星が現れるほどおびえだす。 この名も死者たちと擦れちがいざま 負わせられた刀痕らしい。 (あの憑かれた広ごりに戻っていった者たち) (どんな破片をもちかくして) 夢の中で語れはしない。 ふいに空の一角にあの人の瞳があらわれ 怯える牛のそれのように みずからの死の閃きに懍きはじめた 誰が幕を下ろしてあげられよう そこで「終わり」は劇しく反復する。光は失禁、出口はなくて。 夢の中で口ごもる。なにもかも。だれもかも。 偏と旁を花弁のようにつけて、木札に駅名はあらわれ (ここはどこなのか) (あたは誰だったのか) 乳まじりの雨つぶがガラス窓に捩れだした。 これは、かつて呑み下した体液たちの荒らぶる気象。 廃棄された夏。 「何よりも小説であるからこそ詩に恋する言葉たちに、評者もまた詩への恋心を新鮮に触発された。書きたい世界が、言葉が、無限の海のようにたゆたい波立ち煌めき、俯く評者の眼差しを彼方に誘ってくれたのだ。『言葉の作家』が見つめたのと同じ水平線のほうへ。」と河津聖惠さん。 わたしは文庫本で『豊饒の海』をそろえあらためて読書チャレンジをしている。 目下、第2巻『奔馬』の三分の一のところまで読み進んだ。 夜寝るまえにベッドに横になりながら読んでいる。読書時間は30分ほどかな。。 やや捩子のゆるんだ頭は、レトリックの凄さに疲れ、描写に追いつけないときがある。 しかし、面白い。 ふらんす堂には三島ファンのスタッフが多い。 好きといってもそれぞれの好きがある。 それをたまにおしゃべりをしながら聞くのも楽しい。 わたしの目の前のお気に入りの文房具ッズたち。 いただいたものなどもあって、可愛くてながめていると癒やされる。
by fragie777
| 2024-12-05 18:40
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