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12月4日(水) 旧暦11月4日
榎の冬紅葉。 神代水生植物園の榎。 日頃親しんでいるが、この日は神々しい雰囲気があった。 この暗さも悪くない。 この木の下のベンチでくつろぐことが大好きである。 新刊紹介をしたい。 四六判ペーパーバックスタイル帯なし 238頁 俳人・宇井十間(うい・とげん)の初めての評論集である。巻末の略歴によると2006年「不可知について」で現代俳句評論賞、2009年「千年紀」により現代俳句新人賞、2010年第1句集『千年紀』刊行、『千年紀』により第12回宗左近賞受賞、2018年第20回山本健吉評論賞を受賞。現在は「小熊座」「大陸の会」等で活動。2018年にふらんす堂より岸本尚毅さんとの共著『相互批評の試み』 を上梓されている。 まず「俳句以後の世界」というタイトルに、ドキッとし、こういう問題意識で俳句をあまり考えたことがないなとも思い、宇井さんにとっては「俳句以後の世界」ということが大いなる問題となるのか、では、「俳句以後の世界」っていったいどんな世界? ということで、この1冊を開くことによって宇井十間の遙かなる思索の旅へと導かれていくのである。 表紙に記されたに宇井さん自身による言葉をまず紹介しておきたい。 「俳句」とは偶発的な何かでしかないが、同時に一つのフォルムでもあるだろう。本書はこの偶発性とフォルムをめぐる種々の考察である。端的に言えば、本書はフォルムという可能性とその究極的な不可能性についての著作である。 「フォルムと語り」と題された「序にかえて」より抜粋した一文である。 この一文もなかなか読解力を要する一文である。 表紙の後ろ側に引用されている一文も紹介しておきたい。 俳句について考える事は俳句以後について考える事である。本書は決して俳句(という制度)を前提として書かれていない。俳句を前提としてそれを研究するのが俳句史の研究であるとすれば、俳句の存在そのものを疑うという俳句の研究もあるであろう。その意味で本書は(後者の正確な意味での)俳句の研究である。 「俳句の存在そのものを疑う」という意味において「俳句以後の世界」なのか。 本書は具体的に俳人をとりあげて言及している。高野素十、中村草田男、永田耕衣、阿部完市、能村登四郎など、彼らについては章立てをして論じている。このなかでわたしは高野素十についての論考を興味ふかく拝読した。 素十の俳句を例にとりながら、「写生」なるものを批判的に論考しつつ、綿密な思索が語られている。ほんの一部のみ紹介したい。(もちろん全文を読むことをおすすめするが) 翅わつててんたう虫の飛びいづる 雪片のつれ立ちてくる深空かな くもの糸一すぢよぎる百合の前 ひつぱれる糸まつすぐや甲虫 「翅わつて」の句など、どうして写生の句でありえようか。狙いすましたようにてんとう虫の飛びたつ様を捉えているに違いないが、この句の眼目は、そのような瞬間を的確に言語化してみせる卓抜な描写力のほうにあるはずである。「くもの糸」の句についても同様である。私は、これらの句は写生であるよりもむしろ言葉によって創作された世界であると考えるが、同時にそれがあたかも写生であるかのようなふりをして作られている事にも興味をひかれる。なるほど、この句は、(単なる空想の産物ではなく)あくまで写生句として流通しなければならなかったのである。見事な写生であると人々に思わせることによって一層、この句の言語表現が生きることになる。 前後の文脈を略して引用しているので、はなはだ乱暴な引用であると思う。 「写生」という概念は、捉えどころのない蜃気楼のようなもので、厳密にそれを考察してけばいくほど、その具体的な内容は曖昧となってしまう。素十はむしろ、その捉えどころのなさを巧妙に利用して俳句を書いているという印象を受ける。すべて承知の上で、彼はそのときどきに適合する写生概念を、実作のためにいわば選択している。一つの瞬間を大きく引き延ばして虫が飛びたつ動作を切り取ってみせる独特の時間感覚も、この上なく静かな田園風景の長回しも、どちらも素十が選択した「写生」の構図である。素十は、いってみれば、写生という行為そのものを、その都度適切な形態に創造し直しているといってもいいであろう。俳句によって俳句を換骨奪胎していたという点で、素十ほど批評的でありえた俳人は少ない。 (略) 「写生」という方法が有効に作用したとすれば、それは写生的な作句法を介してではないだろう。より本質的なのは、写生という支配概念が、俳句の短い言語表現の規範的な読み方、解釈の方法を与えたことである。しかも、そうした規範が明確に意識されることによって、多くの代表的な作品が生まれることになる。写生という概念は、いわばそのような歴史的な土壌を準備したのである。二十世紀前半において、俳句の言語表現があれほどの隆盛を見た一つの原因も、あるいはそのような規範性の確立に帰することができるであろう。 ふたたび高野素十の方法について考えてみると、たしかに素十は写生的な読解の習慣、読みの態度を最大限に利用して多くの代表作を残したのだが、実はその方法の背後にある精神性は意外なほど反写生的である。自らの言語操作によって強固な世界観を構成しようとする彼の試みは、むしろ一つの意志のあり様に近い。彼は、本質的には俳句の方法をあまり信じてはいないのである。つまり、素十の作品には、写生という方法に関するある冷めた視線が感じられる。素十は、決して写生的な精神の持ち主ではなかった。それ故、写生ないし俳句という方法によって、逆に俳句の外側に立つことができたのである。多くの評者は、素十におけるある種の批評性を見落としている。翻って、「俳句の終焉」という現代の病理において観察されるのは、実はそのような俳句に対する批評的な距離感の喪失であって、それはむしろ素十的なものとは相反する態度なのである。 「素十」の項を抜粋して紹介してみたが、この一節にふれることにおいて、宇井十間さんが「俳句以後」というものをどのように捉えているか、おぼろげながらすこし見えてきたような気がするが、どうだろう。 ともかくも本書を読んでいただきたいと思う。 この本が編まれたのは、日々の外出すらままならない、まるでこの世の終わりのような危機の時期であった。そして潜在的にはそれはまだ継続している。そういう緊迫した状況の中で俳句の終わりについての原稿を取り纏めたのも、何かの符合か縁なのかもしれない。そして、この未曾有の世界的事態が教える事の一つは、人間は人間自身を道具的に造りかえていく存在であるという事である。人間は未知の病原体に対しても、行動変容によって自らを造りかえて環境を造りなしていくのだが、日本という社会では人間が人間自身を造りかえるこの働きは概して弱いように思える。本書で追究してきたフォルムと語りの関係も、部分的にはこの人間と環境の道具的関係に似ている。 この危機の経験を通じて誰の目にも明らかとなったのは、この国の統治機構が様々な制度疲労を来している事(そしてその回復は容易ではない事)であろう。これらの疲弊した制度はしかし、「俳句は俳句である」という自同律の主張と何処かで通じている。つまり、俳句もまた、それらの制度の一つに他ならないのである。 「あとがき」より一部紹介した。 本書の装幀は和兎さん。 シンプルな1冊となった。 本書は当初二〇二〇年中に出版の予定で準備されたものであったが、後書きにも記した諸々の事情により刊行が大幅に遅れていた。収録した論考は(一部を除いて)二〇〇六年から二〇一〇年前後に書かれたものであり、また出版原稿そのものもその数年後までには実質ほとんど完成していたと記憶している。それ故当然の事ながら、一〇年余を経た現在では既に諸々の状況が変わってしまっている。しかし素材や環境の変化にもかかわらず、本書の枢要をなしている幾つかの考えは私の中で今でも全く変わっていない。(略) ユヴァル・ノア・ハラリは、我々サピエンスの言語的特徴は見えるものをそのまま写し取る能力では決してないと繰り返し語っている。そうではなく逆に、(彼によれば)見た事も触れた事もないものについて語る言語能力こそが我々を特徴づけている。仮にそのような人間の本性を前提とするならば、俳句というこの偶発性を現在あるその姿とは全く異なる様式で再定義する事は十分に可能なはずである。それをやはり想像力と呼んでもいいであろう。(宇井十間/刊行にあたり) 本書の担当はPさん。 「日本各地といわず、世界を行き来している著者の本でしたので、ゲラのやりとりはPDFが主でした。 『俳句以後の世界』もワールドワイドな視点で俳句を見つめ続けた著者の思考の片鱗だと思います。きっとまだまだ宇井さんの俳句への思索は進化しつづけていくことと思います。」とPさん。 宇井十間さん。 2018年12月ご来社のときに。
by fragie777
| 2024-12-04 19:09
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