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12月1日(日) 旧暦11月1日
12月となった。 今日は冬麗の一日である。 国立・矢川緑地をあるく。 冬の森を行く少女、 と言いたいところだが。。。。 無理がある、、、な。 今ごろの季節がいちばん美しいって思う。 そして、好きである。 冬紅葉と裸木。 落葉が流れてきて堰き止められて重なっている。 「まるでミルフィーユのよう」って誰かが言った。 たった一人の目がとらえた鳥。 「ほら、あそこ」って言われても、皆、「どこどこ?」ってわからない。 カメラに撮ってもらって、「あーら、本当に」ということに。 「何の鳥?」ということになって、 「多分、蒿雀(アオジ)では……」ということに。 燦燦とふりそそぐ冬日を身体中にあびて、わたしたちは12月の森を楽しんだのだった。 今日は三橋敏雄の忌日である。 2001年の今日亡くなった。 池田澄子著『三橋敏雄の百句』より紹介したい。 昭和衰へ馬の音する夕かな 『眞神』 句集『まぼろしの鱶』によって現代俳句協会賞を受けたが、作者は自作に満足できていなかった。ボクの俳句はこんなものではない筈だと思ったのだそうだ。『眞神』の世界が現れた。昭和四十八年刊、二百部限定。各句の完成度にとどまらず各句に通底しているもの、人間が自然の一部として生き合うことを手放し、逞しくも辛く暮らし合う姿への、哀惜の念の形象化か。 「昭和衰へ」とは切に切なく、「馬」は懐かしく切ない。人馬という言葉があるように、人と共に生き働いていた馬は海を渡らされた。戦後は置き捨てにされた軍馬の蹄の音が耳底にこびりつくこの句から、『眞神』は始まる。 新興俳句忌ちふはなけれど春の雪 『疊の上』 短歌に関心の深かった敏雄の、俳句との出会いは昭和十年十五歳。就職した東京堂での先輩・渡辺保夫(当時「句と評論」所属)との出会いによる。そのことをきっかけとして渡邊白泉、西東三鬼を知り新興俳句と深く関わったのだった。 十七歳で書いた戦火想望俳句と言われた作品によって俳壇に登場し、昭和十五年の新興俳句弾圧事件を身近にし、白泉、三鬼を含む先輩たちの心身の苦悩を間近に見た敏雄の、書かざるをえない痛い思い「ちふはなけれど」。新興俳句は、アンチ俳句ではない。そのことが「春の雪」というゆかしい季語の起用に込められていると感じる。 あやまちはくりかへします秋の暮 『疊の上』 三橋敏雄が居なければ決して現れなかった俳句の一つだと思う。一見、あっさりと真直ぐ感慨を述べた、という姿。そのことも含めて敏雄ならではの傑作である。一度、こんな句を書いてから死にたい。 記すまでもなく広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に記された「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」を踏まえての言葉。敏雄は「くりかへします」と書いた。意識して繰り返さないようにしなければという強い訴え。人間は過ちを繰り返す動物である。色恋沙汰、ギャンブル等々、それらの「あやまち」をも含めて読めることの凄さ。軽々と感じさせる言葉の凄さ。 本著の末尾の池田澄子さんの解説のなかから、とくに好きな箇所を紹介したい。 周囲のものを捨てて捨てて一つのことに集中できない人間は、いくら才能があっても僕は信用しない、と言い切って、そう生きた敏雄の生き方そのままの行為、私は愛おしくて胸が痛くなる。敏雄はひとつのことを極めたい人間で、その生き方を終生貫いた。それにしても、痛々しい程の潔癖と、一途な決心の実行である。 一途な少年は、そのまま一生を一途に生きた。常に新しく、しかし過去に出会った人、過去に見たモノ、コトを忘れずに生きて、書いた。 今日の朝日新聞の「俳壇・歌壇」の時評に池田澄子さんが、三橋敏雄のことを書かれている。 そのこともこのブログで紹介をしたかったのであるが、新聞は家、今朝急いで家を飛び出して、わたしはいまは仕事場である。 そして、今日はこれから久しぶりの友人たちにあって、酒盛り(?!)となるので、帰りは大分おそくなる。 朝日新聞を読んでいるかた、お気づきでなかったら是非に読まれては、と思います。 三橋敏雄という俳人は終生、戦争にこだわり俳句を書き続けたわけであるけれど、池田澄子さんもまた、いまを生きるわたしたちに寄り添うようにその俳句はあるが、実はその師とおなじようにつねに戦争体験がその作句の根底にあるのではないかと思う。 先生ありがとうございました冬日ひとつ 池田澄子
by fragie777
| 2024-12-01 17:57
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