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11月29日(金) 旧暦10月29日
冬薔薇。 隣りには白の冬薔薇。 今日の毎日新聞の坪内稔典さんによる「季語刻々」は、石山ヨシエ句集『砂柱』より。 鰭酒に酔ふやはるかに火のちらと 石山ヨシエ ほかに〈鰭酒のあをき炎にまづ酔ひにけり〉も紹介されており、「ひれをあぶる火に早くも酔って。ひれ酒を口にすると、鳥取市の石山さんは心身が火のようになるのか。」と坪内稔典さん。 ひれ酒をずっとむかし、家族旅行をしたときに下関の飲み屋で飲んだことがある。 美味しかった。 その後飲む機会がなんどかあったが、なぜか下関の飲み屋の鰭酒を思い出す。 さて、昨日の俳誌「陸」(中村和弘主宰)創刊50周年のお祝いの会を紹介したい。 東京一ツ橋にある如水会館で午後5時より行われた。 たくさんの来賓のかたがたがおられ、華やかな祝賀会となった。 中村和弘主宰は、「陸」創始者である田川飛旅子の思い出を中心にご挨拶をされたのだった。 創刊号から編集長として編集にたずさわり、飛旅子亡きあとは主宰を継いでの今日である。 ご挨拶の内容は、田川飛旅子と加藤楸邨のことが中心であった。 抜粋して紹介したい・。 ご挨拶をする中村和弘主宰。 加藤楸邨が「寒雷」の創刊号をだしたとき、田川飛旅子は巻頭でした〈胸の瀑布替へゐるひまも聴く野分〉という句です。その時の次席が永田耕衣でした。その時の名前は、永田耕衣という名前ではなかったですが。 田川飛旅子は、最初は短歌をやっていたのですが、楸邨に出会って楸邨門にはいった第一期生といってもいいと思います。楸邨を尊敬すること人後に落ちずということで、楸邨が亡くなったあとも「陸」の主宰をしながらも「寒雷」の同人会長まで引き受けていました。 わたしの思い出に残っていることは、「陸」が創刊されたとき、田川飛旅子と一緒に「創刊号」をもって楸邨宅をたずねたときのことです。「創刊号」をみた楸邨は喜んで「ああ、ついにやりましたね。飛旅子さんの実力だったらもっと早く主宰誌が出せたのに。」ということを言われたのです。それは何故かというと、後輩であった金子兜太、森澄雄がすでに主宰誌をもっていた。第1期生である田川飛旅子がちょっと遅れていたということもあったと思います。本人はあまり主宰誌をもつつもりもなかった。 当時は戦後の高度経済成長期で仕事もものすごく忙しい。古河電気という会社の重役として世界を飛び回っていたんです。ドイツにいったりアメリカに行ったり、とても俳句の主宰誌を出すヒマがない。まわりから推されてしぶしぶ出したのではないかと思います。 その一二ヶ月あとに「寒雷」の大井町の句会があったのですが、当時結社誌が少なかったこともあり、また楸邨の人気もあり、だいたい句会は80人から100人が当たり前でというような、わたしもその句会に出ておりました。すると楸邨が田川飛旅子の「陸」創刊号をその席にもってきて、「田川さんが、こういう雑誌を出したから応援して欲しい」と皆の前で言われたのですが、あとあとになって考えてみると、ふつう主宰はそんなことを言うかと思い、つくづくと楸邨の人間性を思いました。 ほかに、能役者でもあった田川飛旅子ついてもすこし触れられたのだった。 プログラムには、ウクライナの歌手カテリーナさんによるバンドゥーラの演奏があり、はじめてきく楽器の演奏とその美しい歌声にわたしたちは聞き入ったのだった。 中村和弘主宰をはじめ「陸」のみなさま 創刊50周年をこころよろお祝い申し上げます。 わたしも何度かお目にかかったことがある田川飛旅子氏のことをなつかしく思い出しました。 皆さまのご健吟をお祈り申し上げます。 この句集については、またあらためてご紹介をしたい。 ほかに文庫本サイズの『田川飛旅子句集』をおみやげとしていただいたのだった。 中村和弘主宰には、「田川飛旅子の百句」の執筆をお願いしてある。 「次はこれに取り組みます」とおっしゃってくださった中村主宰である。 昨日乗った京王線。 「だるまちゃん!」 子どもたちにさかんに読んで聴かせた『だるまちゃんとてんぐちゃん』 懐かしい。 うれしくなって写真に。 でも、てんぐちゃんがいない。。。
by fragie777
| 2024-11-29 18:49
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